自尊絶対の生き方
 
 いのちを与えるパン
 2017/1/13(金) 午後 6:37
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27899280.html
 
 いのちのパン
 2016/4/21(木) 午後 4:44
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27405956.html
 
 イエスはいのちのパン
 2011/4/24(日) 午前 7:42
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/19694661.html
 
 いのちを与えるパン
 2010/2/24(水) 午後 1:59
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/12669226.html
 
 
彼の正当化は、手段を選びません。人の弱点を突きます。奥さんが癌ということなら、批判も鈍る、ということを百も承知のようです。彼が自己正当化に利用してきたものは、聖句、他者の記事、賛同者のコメント、反対意見がないかのように見せかける削除などの強制力、苦労話、そして、家族の不幸、・・だからこそ、信仰について改めて考えてみるべきなのに、彼は手軽に手に入る目先の安楽に手を伸ばして、それを自分で神?に結び付けて過ごします。彼は、刹那的な安楽をつないでゆくことでしょう。彼は、あらゆる批判と罪と偽善を、ことごとく無視して、批判者や敵対する者をいつも迫害者に見立てて。彼は、それが信仰だと思い込むに至っています。
 
>今日まで守られ、来たりしわが身
>つゆだに憂えじ、行く末などは
 
守られてきたとは、彼にとって、自分の好きなように、人を傷つけても、けがしても、無視しても、気にせず、そのとき、一番安易な行いを選ぶということです。つまり、世辞を言うこと、はぐらかすこと、当てつけること、ブロックすること、侮辱すること、そして、削除すること、そして、隠すこと。自分が安楽な気分でいられれば、それを神の与えた平安と、感謝し讃美するのです。
 
>つゆだに憂えじ、行く末などは
 
それは、憂えないでしょうね、他人のこととなると、なおさら。だから、他者に言うとき、まるで本気がなくて、浅さが見えてきて、称賛が世辞に、忠告が、おおかた、侮辱になってしまうのです。
 
>いかなる時にも 愛なる神は
>すべてのことをば 良きにしたもう
 
人がどう思うか、また、自分が何をしたのか、について、無関心そして不感不応になれるので、自分に都合のよいすべてのことを神がよくしてくれた、と感謝し讃美するのでしょう。
 
このような、信仰ではなく、その時々の安楽をつないでゆく生き方は、満足できないときの結果が、怖いことになります。それを防ぐ条件反応のように、どんなときにも、合理化や無視と思い込みによって、感謝と讃美に結び付ける心性が養われてゆくでしょう。そこに、他者が巻き込まれると、おかしい、おかしい、なぜ、が続くことになります。本人は、それを感じることが出来ないか、感じることをしないので、神に感謝し讃美するたびに、よほど従属的な人を除いて、人の世界に、通じない関係が生まれ、傷つく人が生まれることになります。人間関係を犠牲にする生き方と言えるでしょう。
 

 
キリスト信仰は、罪の自覚を考えるところから、始まります。罪を感じなくなるところからでは決してありません。信仰者は悟った人ではありません。悟れない人を認めた者であります。そこから、我ならぬ頼み、そして、人ならぬ頼みとして、神のみを信頼し寄る辺として生きることであります。そして同時に、神を恐れる態度を身につけます。神の領域の聖なる御方に当てられた言葉は、いずれも人のための仮称に過ぎないからです。そして、神を、見た、知った、分かった、ということを慎みます。それは、身の程を知らない人の決めつけだからです。神はすべてを支配しますが、人は身のまわりさえ支配できません。
 
神に正直である人は、神の前に嘘はつきません。もし、別のものを神よりも恐れて、嘘をついたときには、反省し、告白して改めます。常に、神と人の関係は双方向です。神は何も直接には教えてくれないけれど、全能と自分の違いによって、自分には過ぎること、的外れの罪、というのは、ある程度、分かるからです。人の本性として、時間的空間的に限られた人にとって、神の正しさは分からないが、人の不全は、それを無視する者以外は、分かることがあるからです。
 
キリスト信仰の聖典は聖書ですが、読んで理解するときに、自分の理解を絶対とはしません。これは、つまり、修正可能にしておかなければならず、それは、人の言葉の相対性と、人の心の相対性とによって、人は、不全でありながら、成長してゆく務めがあるからです。絶対とした時から、成長はなくなります。これは、相対が、絶対に対するとき、いつも、必要不可欠のことです。
 
キリスト信仰は、人を生涯にわたって支える信仰でありますから、ある時の幸福や不幸を決めつけません。そこから、神の判断と意志は、人には、本質的には分からないからです。刹那的幸福感に陶酔することを戒めます。ご機嫌取りのように、いつも神をほめたたえ、それが成ったと思い込むことによる多幸感を戒めます。また、絶望感に対して、最終的に残るものとしては、祈りのみを手段とします。祈りを、人が神に対して行える唯一のことと考えます。
 
以上のように主張するのは、これ以外の、神が分かる、奇跡が分かる、聖書が分かる、などと言ったところからの、信仰のメッセージは、ほぼ間違いなく、人の神聖に対する決めつけによるもので、創造主である絶対の神を信じ、救い主であるキリストを信じる立場からは、この地上での現実から逃避する方向しか持っていないと考えるからです。
 
また、人は、努めて双方向でなければいけません。また、キリスト信仰が、自分信仰になってしまうような動きに対しては、言論をもって、自分信仰が来たす神がかりと人間離れの種々の矛盾に対して、その意欲のある人が、それを指摘することをもって闘うことが必要とされます。キリスト者は、一部の者が、人の限界を弁えず、一時的幸福を宗教的に解釈して大仰に、また、いつでも起こる奇跡であるかのように吹聴することを戒め、人間としての心得と節操をもって、自他ともに戒めてゆくべきであります。
 
そして、このような闘いにおいては、批判者が犠牲になったり、逆に苛々や感情に任せて悪魔化することもあるかもしれません。祈るしかありません。そのような場合に、もし文章が残っていたら、批判的に見ていただくことが必要であるとともに、その中に、真実の欠片でもあれば、拾えるだけ拾っていただければと願っています。信仰の本質に触れる問題は、有無の問題になりますから、手加減は出来ないのです。以上。不具。
 
 
(201701月15日)