笑う偽善者
 
 閑話休題・・・初笑い
 2017/1/15(日) 午前 8:27
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27901824.html
 
 初笑いをどうぞ
 2014/1/7(火) 午前 10:24
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/25192072.html
 
 
彼に騙されて隷属している人は除いて、この記事、ジェジェジェ、ウヘェー、ドドン、パチパチ、オヨヨ、ケッケッケッ、トホホ、サスガ!パチパチ、・・誰でも、この状況で、お笑いの記事だからと、笑えるものなのでしょうか。昨日、彼は、身内の不幸について続報を書いたばかりで、それに、ただでさえ、毎日、批判されているのですが。問題に真剣に向き合うことをしない彼の特徴です。
 
初笑いといっても、新規文書ではなく、引用部分は過去記事からです。感性と思考が、おかしくなると、笑いのセンスも、おかしくなるのでしょうか、彼は、この状況においても、お笑いらしい?記事を引用して、正月だから初笑いと、何も応えていないと、季節を愛でる余裕があると、示したいのでしょうか。そのことが、彼の不感不応を表していて、笑える状況かどうか、分別を付けることが出来なくなった人格を表していて、さらに異常に感じるのですが。
 
少なくとも、昨日書いた、不幸の報告を、気にしなくていいと言うことでしょう。そして、ならば同情を引くために書いたのか、ということになります。少なくとも、彼の不幸に対する、いかなる気遣いも無用だということが分かります。
 
最近は、自分で考えて文章を書く、ということが出来ないようです。自分で文章を書くと、破綻百出です。今度は、文章の引用のしかたに、破綻が表れます。今回の文章は、この世の法制度的なことは、信仰については関係ないというようなことを書いています。また、教会は、民主主義でなくてもよい、と暴言を吐いています。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
12:13
群衆の中のひとりがイエスに言った、「先生、わたしの兄弟に、遺産を分けてくれるようにおっしゃってください」。
12:14
彼に言われた、「人よ、だれがわたしをあなたがたの裁判人または分配人に立てたのか」。
12:15
それから人々にむかって言われた、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。
12:16
そこで一つの譬を語られた、「ある金持の畑が豊作であった。 12:17そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして 12:18言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。 12:19そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。
12:20
すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。
12:21
自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。
 (ルカ12:13-21、新約聖書)
 
この箇所は、富に執着することの愚かさを説いている大事なところです。
 
>イエスの仕事ではありません。
>イエスが富について語られる時は、その処分の過程に介入するためではありません。
>法律と社会の問題だからです。それよりも、いかに使うべきかを明らかにするために、
>また、富の持ち主に課せられた義務を説明するためです。
 
彼にとって、法制度と、信仰は全く別のものだと、すっぱり言って斬っているようです。彼は、どちらも、人倫という深い問題に関わっていることを知らないのです。どちらも、人はいかにあるべきか、という問題に関わってくるということを知らないのです。
 
法制度は、その最小限を文章にしたものです。法制度は、人間が作った者だから完璧ではありません。だから国によって違うのでしょう。しかし、神は、人が正義を考えることを、全く無視されるでしょうか。彼は、また、常軌を逸しました。
 
彼の本音は、恐ろしいものだと推測します。
 
彼の本音は、恐らく、正義は、自分の中で、すでに決まっており、動かない、というのでしょう。その正義とは、彼の自己中心による偽善を、彼の神?が、彼に対しては特別に、許しているもので、批判など受けるいわれはない、というものでしょう。これまで、彼がやってきたところの、彼の都合のみによるコメントそしてコメント欄の削除、批判の拒否、経過の隠蔽、それらによるブログの正当性の偽装、この偽善が、彼が、神?と呼ぶものによって、悔い改めることなど無用で、許されていると言うのです。彼は、自分を中心とする権威主義者以外の何者でもありません。
 
>特に、争っている二人の兄弟に向けて、
>富という問題についての教えに導くことになるからです。
>「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と言われます。
>この兄と弟の二人に実際必要なことは、話し合うことによって、
>どのようにして自分たちの富から心を離すかを学ぶことなのです。
 
このことを書く資格は、彼にはありません。彼こそ、話し合う、という双方向を拒否しています。彼は、心の富である尊敬と聖職という立場を守るために、すなわち、保身のために、自我を総動員して、批判を受け付けないために、これからも削除してゆくでしょう。
 
>一方の貪欲はもう一方の貪欲と必ず対立するからです。
>争いや戦争の絶えない人類の歴史の中で、
>人びとは、たびたび、イエスを自分の側に立たせようとしました。
>自分たちの弁護者としようとしたり、軍勢に組み入れようとしました。
>わたしたちも、いろんなあいまいさの中にイエスを引き入れようとします。
>同じことが、今日でもおこっているのです。
 
上に述べた彼の背教の事実は曖昧ではありません。彼こそ、批判に答えず弁明せず、にもかかわらず、賛同者には、呆れるほどの無理解であることを示すような文言で、呆れるほどの称賛を送っています。分からないと言えない人の宿命です。彼の賛同者の中の一人二人は、彼を弁護して、私を攻撃してきました。信仰を持たない人も、彼は賛同者にしてゆきます。彼の武器は、聖書語と丁寧語と、吐き気のするような褒め言葉です。そこだけ彼はプロなのです。味方を増やし、自分の言説に神とキリストをくっつけてきたのは、彼に他なりません。
 
>この危険について、問答という形で修道女たちに警告しています。
>世間が、「あなたの修道院では、政治に反対する習慣がありますか。
>政党から離脱せずに、僧衣を着ることができますか」と質問しています。
>修道女への助言は、「答えを探さなくて結構です。笑うだけで十分ではないでしょうか。」
 
引用のようですが、これだけでは、ちょっと意味不明です。しかし、彼の狙いは、はっきりしています。批判をするな、と言いたいだけです。ユーモアと書いても、彼が、批判者に向けた笑いは、あざ笑いでしかありません。この引用とは甚だしく異なっています。彼の特徴です。全然違うところから、言葉面だけを当てて、自分が正しいと言い張ります。言葉が壊れてきても同時に言い逃れをするなら、こういうことになります。あざ笑うだけで何も弁明の根拠を持たない人、それが、彼、シャローム氏です。
 
>あるキリスト教信者が、「あなたは進歩的ですか。
>私は完全を求めています」と尋ねます。
>これに対しても、同じ助言です。
>「答えを探さなくて結構です。笑うだけで十分ではないでしょうか。」
 
これも、あいまい、というより、さっぱりわからない文章でしょう。進歩的、完全、笑う、これらが、文脈でどういう意味を持つのか、説明していません。恐らくこれも、言葉面だけで、笑って済ませろ、と言いたいのでしょう。彼が批判者をあざ笑うように。
 
分かるような説明が出来なくなった彼は、元々説明などする気はないのかもしれません。引用しても、自分で書いても、彼の、他者をあざ笑って生きる姿勢は、表れてくるでしょう。無根拠の権威主義とはそういうものです。
 
>もし、だれかが、教会を民主主義組織にしようとしたり、
>   神の国を社会主義国家にしようとしたり、
>   福音を政治的なものにしようとして、
>   あなたを巻き込むなら、
>何か言おうとして答えを探さなくて結構です。
>笑うだけで十分ではないでしょうか。
 
政治的なことをたくさん語って、自分と同じ信仰を持たないからだと豪語していたのは他でもない彼であります。自分の信仰観?を政治に絡めて喋りまくって、人々を巻き込もうとしたのも彼に他なりません。「福音を政治的なものにして」・・これは、まさに、彼自身であります。自分の卑怯卑劣と偽善を、笑うだけで済ませようとしているのは、まさに、彼自身であります。
 
政治思想と法制度というものの土台には、人間のあるべき姿を考える、ということがあります。彼は、それを考えず、笑うだけで十分だと言っているのです。やっぱり、彼は、信仰ですべてを説明し、それ以外と彼が思う倫理的なことを、極度に軽く見ています。信仰が、彼にとっては、信仰と自分が関係ないといったら関係ないのだ、ということのようです。自分の非を認めないくせに、神の言葉気取りで、批判拒否の言葉面を並べることを止めない、彼は、少なくとも言論人としては、狂っている、と言っていいのではないか、と思います。
 
彼、「その名は不思議」の管理人、シャローム氏の、空恐ろしさは、これだけではないと思います。彼が、牧師として説教壇に立っていた30年間と、ここまで、偽善によって信仰に背きながら、なおも信仰を説いているつもりの自尊は、間違い、勘違い、という、一時の印象のある言葉では済ませられないような気がします。サイコパスか、サイコパスが自分に都合のよい信仰を持ったのか、単なる信仰の曲解か、まだ分かりませんが、だんだん、ただの過ちではないような気がしてきました。こうなると、批判も言論も無力ですが、私には、批判という言論の手段しかありません。
 
私は、批判記事を大ざっぱに段落に区切って、彼の、まだコメント欄が開いている記事に書き込んできました。ここまでするのは、信仰という大きなテーマだからです。彼のブログは、全部調べたわけではないが、大方、私が書いたコメントがコメント欄ごと、削除されています。下記アドレスの中には、記事のタイトルにコメント数を表す数字が書かれているものがあります。その記事からコメント欄がなくなっているのは、ほぼ間違いなく、彼が、コメント欄ごと削除したということです。
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/MYBLOG/yblog.html?m=l&p=35
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/MYBLOG/yblog.html?m=l&p=34
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/MYBLOG/yblog.html?m=l&p=21
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/MYBLOG/yblog.html?m=l&p=20
 
彼は、他にも、いっぱい、コメントを削除しています。彼と仲良くする方法は、彼の機嫌を取ることです。社交の世辞以外書かないことです。決して、コメントで、彼に疑問を提示したり、彼に反対意見を書いたりしないことです。そうすれば、彼から、信仰の理解とは別の、溢れるほどの褒め言葉をもらうことが出来るでしょう。アクセス数が増えているようだから、賛同から信頼してしまって隷属に近くなっている人は、増えているようです。一方、彼が削除するのは、そういう常時安穏を乱す者に対してで、それが信仰者かどうかなど関係ありません。
 
しかし、言うまでもなく、それは、信仰という大きなテーマについて、1ミリも深めることにはなりません。彼は、偽装と偽善で生きてきて、言葉面だけを追って褒めまくり、ときには転載さえする、という、いつも笑っていて、自分の機嫌以外、何も感じることのない、自尊絶対信者です。彼が信じている対象は、決して、在って在るもの、ではありません。だから、彼は、平気で、どんなときでも、笑っています、あざ笑っています。悪意ある先生が劣等性を笑うように。それが信仰による柔和だと思っているのです。それが、彼の信仰?です。
 
社交以上には、決して非を認めない者が、笑いながら紡ぐ言葉は、人に分かるように整える思考もなく、共有できるものもなく、人の気持ちを察する感性もなく、共感できるものもなく、ただ、自分に有利な言葉面を並べるだけなのです。以前付き合いのあった哲学系と仏教系の人が、既に呆れたのか、離れているようです。特に、考えることを旨とする人々を、狂わせるだろうと思われるブログと管理人です。でありながら、あらゆる災いを隠蔽して、今も、まだ、彼は、ユーモアと称して、笑っていられる人なのです。恐らく、窮地に陥ったときの彼の感情は、怒りと恨みだけのような気がします。「悲しいことです」という言葉では表せない、本当の悲しみを、彼は、感じたことがないような気がします。
 
 
(2017年01月16日、同日一部修正)