墓穴を掘る
 
 第二百五十回
 2017/1/16(月) 午前 10:36
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27903764.html
 
 
転載記事ですが、彼は、彼が罪と偽善を覆い隠すことの正当性に利用しています。彼の掘った墓穴が見えています。罪を覆い隠す、という聖書からの言葉は、それを神がなさる、ということです。自分で隠蔽してよい、ということではありません。彼は、そんなことも分からないのです。
 

神は私たちの罪を覆い隠してくださることにより、また、イエス・キリストの義を着せてくださることで罪の赦しを与えてくださっています。

 
彼は、自分の罪を隠蔽していることの正当化を狙っていることは明らかです。あらゆる弁明が弁明になっていない現状でも、彼は、悪あがきを続けるのです。そうして、彼は、前も、今も、偽善を深めてゆく道を選びます。
 

悪を取り去ったり絶滅させるというのではなく、神は私たちを悪から守ってくださいます。終わりの時には、罪も悪も、そして、死も滅ぼされると言われています。それまではこれらは存続するということなのでしょう。

 
神が悪から守る、と言っています。もしそうなら、キリスト者は、罪を犯さないはずです。現状はどうでしょうか。特別に、キリスト者だから、罪は犯さないはずだ、などと、特別扱いできる人はいないと思います。嘘をついてはいけません。カルトや偽善者の思うつぼです。
 
そう、罪は、それを犯す人々がいて、存続します。そこに、私たちも、そしてもちろん私も、例外ではないのです。人から見れば、私たち次第である、ということがキリスト信仰にはあります。これは、計らずも、問いかけです。どうか、その罪から、自分を除外しないでください。除外すれば、転載者と同様の偽善者になるでしょう。
 

神は私たちの苦しみや悲しみをなくしてくださるのではなく、大盾や御翼で私たちを覆い隠してくださいます。

 
罪が、苦しみや悲しみをもたらすものだといっていますが、ここは、ちょっとばかり、すり替えだと思います。罪は、罪を悲しみとも苦しみとも思わないものによって行われるからです。苦しみも悲しみも悪辣な罪も、自分を除外してはいけません。このことによって、キリスト者は、思いを新たにして、改めて、信仰の心構えとして、気を引き締めるようになるのです。
 
大盾や御翼で覆い隠してくれる、というのは、神が、その際、いかなる意志と行為を示すか、ということを、人の側が決めつけています。隠すのでも、覆うのでもないかもしれない。神は、見て判断されるかもしれませんし・・、神の導きに、人の安易な意味づけをするべきではありません。
 

「神は羽をもってあなたを覆い翼の下にかばってくださる。神のまことは大盾、小楯。夜、脅かすものも昼、飛んで来る矢をも、恐れることはない。」(詩編九一・四~五)。

 
このように詩篇の都合の良いところだけを持ってきて主張する人もいますが。自分は神に守られると言っても、聖句は、様々な意味を伝えてきます。
 
 (詩篇、口語訳)
91:14
彼はわたしを愛して離れないゆえに、
わたしは彼を助けよう。
彼はわが名を知るゆえに、わたしは彼を守る。
 (詩篇91:14、旧約聖書)
 
ここを読んで、自分は神を愛しているから大丈夫などと言う人は、たいてい、自分信仰に傾いている人です。その典型を批判しています。信仰の結実を、そっと捧げる気持ちのある敬虔な人は、神はかばう、などと、神のことを決めつけて言わずに、ただ黙って自らの務めを考える人です。守られる私たちは、守られるための最低限の務めを努めなければならないからです。
 

わたしたちは苦難や悲しみを経験しなければ自らの罪を知り、イエス・キリストと神を知るということができない存在なのでしょう。だから苦しみや悲しみを全く取り去られるのではなく、もちろん目の前の苦しみや悲しみは取り去ってくださいますが、次から次と苦しみ、悲しみは来るものだと経験しています。

 
是とします。これが人間の生き方です。ここを常時安楽と決めつける人を批判しています。
 

取り去ってしまうのではなく、そのような苦しみや悲しみの中にあっても、心に平安を与えてくださる、そういう仕方で恵みを与えてくださるのだと思います。

 
是とします。神は誠実な祈りに答えて、慰めを与えてくださる、ということは、キリスト者なら経験しているはずです。そのような苦しみや悲しみはない、と言い張っている人を批判しています。
 

私たちは自分の力ではどうにもならないことで、悲しみ苦しみ明日のことを思いわずらいます。そのような思いわずらいを霧のように晴らして心に平安を与えてくださるだけでどんなに心が安らぐことでしょう。

 
そうです。自分の力ではどうにもならないことは、神に任せるしかないことです。祈りによって平安を得るしかありません。自分で解決できることから目を背けて、神に委ねるなどと言っている人を批判しています。
 

私たちは、苦しみや悲しみを覆い隠してくださって心に主の平安を与えてくださるうちに、原因はなんら解決していないのに、先のことを思い悩むことを忘れてしまっています。

 
自分に都合の悪いこと、不快なことを、自分で隠蔽している者を、批判しています。その者の安楽は、神の与える平安ではありません。
 

そのような主の恵みを通して私たちは、たえず、キリストと神を仰ぎ、御心に従う人生を歩んでいけるように導かれるのでしょう。

 
キリスト者と自称する皆がそうではないようです。キリスト者と自称する者の中には、人が見ても、キリスト者とは思えない人もいます。神は恐るべき御方です。私たちへの戒めとして、両方を現れさせ、見せることで、戒めとされるのでしょうか。
 

このような苦しみや悲しみについても、神の国に住まわせていただいたときには、「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示録二一・三~四)

 
 (ヨハネの黙示録、口語訳)
21:8
しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」。
 (黙示録21:8、新約聖書)
 
神は恐るべきかな。偶像、偽り、を赦さない、報いがある、と書いてあります。だから、以前より、悔い改めの祈りをしなくても赦され救われるなどと言う者に対して警告を発しているのですが、彼は聞く耳を持ちません。
 
覆い隠す、の意味をすり替えて、自分の言いたくないことや認めたくないことを神の前に覆い隠す者よ。神は総てを見ておられる。
 
 
(2017年01月17日)