無遠慮と無視
 
 十字架の福音はわたしの福音
 2017/1/17(火) 午後 3:25
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27905915.html
 
 
引用部分は、恐らく、聖書に書いてあることを、理想で終わらせず、実践でも行う信仰を持つように・・というような、説教かもしれません。その引用文章から、引用は前後しますが、
 
>聖書に教えられていることは、目に見えない霊的な真理であり、霊的な事実です。
 
>信仰者とは、主のみ言葉を自分のものとして信じる人のことです。
 
>わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた
 
実生活での具体性を全く持っていません。さらに、何か優れた洞察があるわけでもありません。それこそ、こういうのを、聖書語、と呼んでいます。讃美の言葉などは、殆ど、これに属します。それこそ、
 

聖書の言っていることは、それはそれで本当でしょうし、疑わないとしても、自分の問題は特別であって、また別の事だと思い込んでいるからでしょうか。
実は、そのことが問題です。

 
自分で具体性のないことばかり書いておきながら、こう言ってしまう。
実は、そのことが問題です。
 
キリスト者の実生活は、一言で言えば、祈りに尽きます。そこに、偽りのない自分をさらけ出すことこそ、信仰であります。
 

ローマ6:6
わたしたちは、この事を知っている。
わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。
それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。(口語訳)

 
前に、彼が、死人は叩いても蹴っても反応しない、という暴言を吐いて、自分は信仰によって罪に死んだので、何を言われても反応しない、と自分を正当化しようとしたときの聖句です。このように、彼は、否定された彼の発言を、何度も繰り返してきます。
神がかりだから、何をしても恥ずかしいと思うことがないのです。 
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/18950249.html
 
>私が負いきれない、支払うことのできない負債で苦しんでいる時、
>私の負債を支払う必要のない、
>また私の債権者に対しても全く負債のない方が、
>私のすべての負債を支払ってくださったとしたら
>どんなに素晴らしい救いでしょうか。
 
キリストの贖いのことを言っています。
彼が負いきれないと勝手に決めて解決のために何もせず
悔い改める道、即ち、信仰を捨て、
代わりにキリストが払うからと、
キリストの心などお構いなしに安穏を貪るなら、
どんなに、無遠慮では済まない、反信仰であることか。
 
彼の、性懲りもなく思慮も情感もない、言葉面だけを利用する、冒涜の神がかりの信仰?が全開になってきます。
 

イエスはまさに私自身が支払うべき、生ける神に対する罪の支払う報酬である死を
罪なき神の御子イエスの命を罪の代価として、十字架の死によって支払ってくださいました。
私は私の罪の代価の支払いを要求する債権者から解放されたのです。

 
今までの流れから、彼は、いつもキリストは負債を支払ってくれるから、自分は何をしてもよいと、自己中心に信仰を曲げ、自分を正当化してきます。これでは、キリストが十字架についた意味が全くなくなります。言葉面だけの信仰による悪用です。奇跡信仰者には人間の心を考えることが出来ないからでしょう。
 

しかし、なお罪を犯すなら、再び、罪の奴隷となり、
債権者に追われる身となるのです。
そのように、私はイエスによる罪の赦しを信じ、救われても、
なお罪深く、弱さを抱えているのです。
それは信仰者にとって逃れることのできない問題であり、信仰の戦いです。

 
罪を犯すなら、再び、罪の奴隷になるでしょうか。違います。私たちには、キリストがおられ、神がおられます。何度も書いてきましたが、私たちには、隠すことなく祈り、罪を告白し、神への態度を改める、という、悔い改めの道が、信仰の核心としてあるのです。そこには、弱さも、傷も、赦され、癒やされるために、何よりも、人間性が必要なのです。そこが、無信仰と信仰の違いなのです。
 
彼は、人間と人間性に関心がなく、信仰を奇跡の経過だとしか理解していません。どうやら、彼は、そういう人間にとっての信仰の道を知らないようです。だから、彼は、神がかりになることが信仰だと思い込み、罪を犯さない信仰、悔い改めることなく罪が自動的に赦されている信仰、つまり、何を仕出かしても罪を認めない信仰、無罪信仰にしがみつくのでしょう。
 
だから、彼は、大仰に、信仰の戦いです、などと言うのです。戦いしか、彼にはないのでしょう。そうして彼が戦ってきたのは、彼に対する批判者です。人間とは思えない戦いぶりは、反対意見を封殺し、コメント欄ごと削除して、自分の正しさを偽装し、その強制力を悔いることなく、今も続けているのです。彼は、神の前に正直であることよりも、神と人々の前に偽ることを選んでいます。
 

その問題の核心はいったいどこにあるのでしょうか。
その核心はイエスの死によって罪赦されていても、
なお、信じ救われた私のうちに生きて働いている神無き古き人であるというのです。
 
私はイギリスやドイツに行き、しばらく滞在しました。
言葉もほとんどわからず、お金のこと、法律のことなどわからず、困りました。
外国に滞在しているのですが、わたしは日本人として生きていこうとするからです。


イエスを信じると、だれでもその人は神の子であり、神の国の国籍が与えられます。
しかし、外国へ行き、生活する時と同じような問題が起こるのです。
しかし、私が日本人としての古き人が死んで、国籍が変わるなら、私はその国の国民なのです。

 
外国に行ったらその国の法制度があって分からずに困ったということと、信仰と何の関係があるのでしょう。こんなに安易な喩えで信仰が語れると思っているのでしょうか。神なき古き人は天国が国籍だが、暮らす地上は、暮らしにくい、ということを言って、イギリスやドイツのような外国と同様に考えていいものなのでしょうか。
 
彼は、自分を、本来、神の国の人で、今は地上にいるから困ったことになっていると、今の自分を、またしても、幼稚な理屈で正当化し、周りが悪いのだ、と言い張るのでしょうか。
 
こうやって、彼は、大口の割に、文脈の整わない軽口で、相手を怒らせ、相手が呆れて、去ってゆくことをもって、自分の安泰を計ってきたのです。それが彼の批判者に向ける侮辱の手口なのです。
 
次に、彼の狙いが、さらに明らかになってきます。
 

古き人による問題は信仰生活しているといろんなことで支障が起こり、トラブルが起こります。
しかし、問題が起こり、それまでの古き人の生き方、考え方で問題を解決しようとするのではなく、
信仰によって、私の古き人もイエスととも十字架につけられ死んだと告白し続けるのです。

 
古き人が死んだら、神の国の国籍を持つから、この地上では支障が起こり、トラブルが生じる、と言いたいようなのです。この地上に、いったい誰が住んでるの?、この文章を書いているのは誰なの?と言いたい。彼は、思いつきの詭弁を持ってきました。どれだけ自分を持ち上げれば気が済むのでしょう。
 
この地上の人間として不全であるという自覚が、信仰に向かわせるのです。
 
彼の古い人が死んで、彼が神の国の国籍を持つなら、まず一つは、神の国の国籍は万能ではないのか、という言葉上のこと、第二は、このことを書いた彼の文章で、彼は、彼が神の国の国籍を持ち既に地上に住んでいる者たちとは違う、という、優越を示しているのです。ここまで思い上がった信仰者?を見たことがありません。
 
彼は、もうずっと前に、人間同士の共感を必要なしと否定しています。だから、彼の信仰は、訂正不能の言葉面しかなく、共有も共感もないと、書いたのは、そういうことです。預言者気取り、使徒気取りの、自己絶対肯定の訂正不能の信仰とは、こういうものなのでしょうか。
 

すると、神はその問題を通して、私の古き人をイエスの十字架のもとに導き、
私の古き人もイエスととも十字架につけれている霊的事実を明らかにしてくださるのです。
パウロもその苦しみを体験し、“私はなんというみじめな人間だろう”と嘆き、
また、“イエス・キリストにあって、神は感謝すべきかな”と告白したのです。

 
そして、彼は、よくやることですが、自分をパウロになぞらえて、・・キリストのもとにどうやって行くんだ、私たちは、祈りにおいては、いつも臨在を前提に祈っているというのに、そういう意味なら、なぜ、気取った言い方をするのか、そして、霊的真実と言って、自分は分かっているかのように振る舞うことで、また、分からないと言えない人の本質的欠陥をあらわにすることを繰り返す。
 
本当の信仰は、“私はなんというみじめな人間だろう”から、“イエス・キリストにあって、神は感謝すべきかな”の間にあります。恐らく彼にはないのでしょう。だから、自分は苦難と受けていると被害者の立場を言って、次は、何の解説もなく、神を讃美するのです。予め決まっていたかのように。詭弁による合理化は怖い、という見本です。使徒に成りきって高い立場からしか物の言えない彼にとって、聖句というのは、このように利用するだけのものなのでしょう。
 

このようにして神は私たちの霊的脱皮を助けてくださいます。
セミや蝶も幼虫から成長し、脱皮してはじめて空を舞い、セミや蝶として生き始めるのです。

 
彼は、霊的真実、霊的脱皮、というような、それだけでは意味をなさない言葉が好きのようです。そして、説明をいつも詭弁に変えてしまいます。人を虫に喩えて比喩を書いたようですが、人を無視してきた分、本題から乖離して関係なく、ぽつんと文章の中に浮いている感じです。彼の周りで舞っているのは作り話の虫だけですから、蝉や蝶は、作者を表して、うるさく飛び回る害虫になってしまうでしょう。文脈のない比喩で、うまく真理を語ったつもりになれる人です。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
6:12
だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、
6:13
また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。
6:14
なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。
 (ローマ6:12―14、新約聖書)
 
ローマ人への手紙の同じ章に、書いてありますが、罪の支配、情欲、不義の武器、を戒めています。不義と偽善にまみれている、彼、シャローム氏は、度重なる詭弁をもって、実に長く偽善の罪を犯し続けながら、言い逃れに滅びの無罪信仰を言い張って、キリストも、使徒も、聖句も、悪用する偽善者です。
 

[旧約聖書・箴言]
3:5 心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。
3:6 すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
3:7 自分を見て賢いと思ってはならない、主を恐れて、悪を離れよ。
3:8 そうすれば、あなたの身を健やかにし、あなたの骨に元気を与える。

 
主を信頼すると唱えて、知識を捨てて、人を侮る者がいる。
悔い改めなくてもいいよと言ってくれる主を認めよ、と言う者がいる。
自分を顕示する意地だけで書き続け、主を恐れず、悪に染まる者がいる。
そうして、肉の身を肥やすので、彼の骨は衒奇でしかない。
 
 (箴言、口語訳)
3:1
わが子よ、わたしの教を忘れず、
わたしの戒めを心にとめよ。
3:2
そうすれば、これはあなたの日を長くし、
命の年を延べ、あなたに平安を増し加える。
3:3
いつくしみと、まこととを捨ててはならない、
それをあなたの首に結び、心の碑にしるせ。
3:4
そうすれば、あなたは神と人との前に
恵みと、誉とを得る。
 ・・・・
3:35
知恵ある者は、誉を得る、
しかし、愚かな者ははずかしめを得る。
 (箴言3:1―4,35、旧約聖書)
 
辱めを受けても、なお、恥を知らず、教えを曲げ、安穏を平安と偽り、まことを詭弁で偽り、恵みと誉れを得ていると偽る恣意が、最も恐れているのは、真実の信仰です。
 
正直言って、彼の書いた文章など見たくはありません。しかし、彼は、毎日のように、自己満足の記事を書いてくるので、この記事は間違いで、対立している意見があります、ということを知らせるために、毎日のように、書いています。他に批判する人がいないようですし、かえって、彼の丁寧語と聖書語に騙されて、賛同する人が増えているようなので、あちこち痛いけど、書けるだけ書くことにしています。
 
 
(2017年01月18日、同日一部修正)
 
彼は、記事とタイトルを修正したようです。
 十字架の福音とわたし
 2017/1/17(火) 午後 3:25
 http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27905915.html