丁寧な呪縛
 
 
他者に批判されたり悪口を言われたりすると、健常な心を持っている人は、何らかのアクションをします。ひどい言い方じゃないか・・くらいは言って、話し合いの終了または保留を要求するはずです。そういう遣り取りは、しばしば、あります。疲れてくると余裕がなくなるからでしょう。そこには、互いを言論者として尊重する、一定の共有と共感の関係が成立し得るのです。
 
その人間らしい基本的な反応を全く見せず、何やら、はぐらかし、当てつけ、皮肉、さらには侮辱までもぶつけてきて、最終的に完全無視となるのは、相手を人間と思わず、敵対している悪と見なして、人間相手ではなく、気に入らないことばかり言ってくる邪悪な何かと見なしているときの処し方でしょう。
 
言い換えると、相手を同じ人間だと思えば出来ないことが、相手を悪魔や悪鬼と思えば、手段を選ばず、相手は人ではなくモノだからどんなに傷つけてもいい、つまり人間相手ではない方法が出来るということです。汚い物に触るのと同等と、そう見なした人に対して、制限ない制裁を許容し正当化してしまうのです。
 
その際に、最初は、上に書いたように、はぐらかし、当てつけ、皮肉、というのは、丁寧に説得し、共感や共有を求めるのではなく、程度の低い攻撃ながら、敵と見なした相手を焦らし腐らせる始めであり、言葉面が丁寧?でも、そこには、傷つける段階の一つしか持っていない、ということを表しているのです。
 
そこに目指す目標は、排除だけになります。だから、びくともしていないぞ、ということを示そうとすることになり、人間相手ではなく、悪魔相手に、負けないで生存する戦いと同様のホラー的体質で臨む、ということになるのでしょう。彼は、いつも、敵対者、反対者、批判者に対しては、人間とは思わず、どんなに侮辱してもいい相手と見なしてきたように思われるのです。それを傲慢ということも出来ますが、本性として、いやもっと深い、底知れぬものが働いていると思います。
 
次の彼の記事の、批判記事に書き忘れていたことですが、
 
  閑話休題・・・初笑い
 2017/1/15(日) 午前 8:27
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27901824.html
 
>もし、だれかが、教会を民主主義組織にしようとしたり、
>   神の国を社会主義国家にしようとしたり、
>   福音を政治的なものにしようとして、
>   あなたを巻き込むなら、
>何か言おうとして答えを探さなくて結構です。
>笑うだけで十分ではないでしょうか。
 
最終行に、侮る姿勢を感じないでしょうか。これは彼の本性です。
 
この文章から、彼は、教会は民主主義でなくていい、と言っているわけです。気に入らない奴には笑うだけで十分だと。悪意しか見えてきません。
 
これこそ、彼が、日々実践していることの背後にある思想です。相手の意見を聞かなくて構わない、神が治めるのだ、神の言葉の代弁者が自分だ、というところでしょう。私が、彼は民主主義者でないのに政治批判の民主主義の記事を転載していると指摘したことへの、言葉を知らない者の返しなのでしょう。
 
まことに、彼は、本当の善意がなく、悪意が勝っている人に思われます。そして、例えば、彼が賛同する先人の言葉を、彼に有利なように解釈改竄して、利用しています。思えば、彼が、まだレスを返していたことですが、返す言葉が、殆ど、悪意でしかなかったことを思い出します。
 
批判に対して、整った反論の出来ない彼は、代わりに、悪意と侮辱を返してきました。内に秘めた侮りを返して来ました。例えば、彼に依存している病気、被虐待児が長じて虐待者になった、エホバの証人に似ている、などです。
 
牧師が神の代弁者として、訂正不能になっている教会は悲惨でしょう。反論を許しません。社交の世辞を言う人と、沈黙する人が、優等生になります。反論したら、苦情を言ったら、神の敵にされるわけですから。彼は、いったい、どれだけの人々を、神の敵扱いしてきたのでしょう。
 
これは、大変なことです。他のキリスト教カルトより酷いことになるでしょう。彼は、処世としてやっているに過ぎません。彼には深い思想など感じられないからです。
 
人の世界で、一つの解釈に完全に同意する人というのは、そう多くないと思いますから、解釈の違う人というのは稀でなく見られただろうと考えると、反対者に対する彼の呪いのような人格否定の居丈高の非日常は、姿勢として日常的ではなかったかと思われます。改めて驚愕します。私の批判記事が人格攻撃のようになっているのは、彼が恐ろしい人格否定を向けてくる丁寧語を持っているところにあります。
 
今や既に、彼が改めることは、殆ど期待していません。彼については、一刻も早く、ネットから消えてほしいだけです。一切の説諭も忠告も、いかに理路を正しても、彼にとっては、神の敵からの攻撃で、その敵に対しては、手段を選ばず、強制力を使ってでも、排除することが善となるわけです。
 
信仰の記事を書いて発表してはならない者がいます。信仰に真っ向から背いている者です。彼は、洗礼を受けたら何をやってもいい、つまり、何をやっても悔い改める必要はなく、信仰者は無罪、という無罪信仰を広めています。彼の讃美は、彼の信仰観に向けられる代物です。人格の根っ子に病を植え付けたら、思い直すことも容易には出来なくなると知っている彼は、悪意だけを育てて、その根っこを人に植え付けてゆきます。薄汚い丁寧語と聖書語だけを記憶し学習し、そこだけプロになって、その仕事をずっと30年余にわたって行ってきたのです。
 
前から何度も言っていることではありますが、
 
穏やかに話せば、穏やかに、はぐらかし、
理路を説けば、軽口の皮肉を返し、
反対すれば、大口の聖書語か侮辱を返してくる。
いずれも、話し合うテーマとは全く関係のないレス。
 
人格の根っ子の上に乗っているのは、
恨みとあざ笑い、軽視と無視、快楽原則、
 優越意識、被害感情、怒りと敵意、など、
快楽的か攻撃的なものばかり。
どこにも人間らしい、悲しみや思いやりが見られない。
 
人間としての深みがない者が神の国を得々と説く。
しばしば人間とさえ思えない。
そういう批判を完璧に無視できる人が
神?の絶対に立って自説絶対の決めつけを語る。
 
何を言われても応えない100%無反応の底に無感性。
存在を無視できるところまで離れればよいが、
彼に好意的で、見習おうとする者が増えている・・!
 
既に、私と彼の、ネット上、両者にとって少しばかり知っている人が、彼によって痛い目に遭っていると推測される現状で、退くわけにもいかない。
 
また、彼の無意識の呪縛によって囚われた者は、彼と同じように、罪は一生涯、全部許されているから、悔い改める必要はなく、好きなように行えばよい、という、キリスト信仰とは思えない、戒めや懲らしめを受けることをことごとく排除した信仰に生きて、無反省で訂正不能な人生を歩むことになるでしょう。
 
自己中心の正当化に固まった人が、次から次に現れて生きている世の中のほうが、彼自身よりも、はるかに恐ろしいのです。いかなる楽観を約束する神?を信じてそういう信仰になるのか。自分は正しいと信じる者だけになった地上に、人間の社会と世界が成り立つと思うのか。十字架以前と以後と、人間の本性には殆ど変わりがないことを歴史は証明してきたではないか。
 
信仰は、人間に生きる勇気を与えますが、間違えば、世界で起こっているように、人を神の名のもとに傷つけても殺してもよいことになってしまいます。キリストを着る、神の鎧をまとう、などという言葉や聖句を見るたびに、間違っても強制力を使ってはならないことを肝に銘じます。
 
今は一人だけだけど集団になったら、今は肉体的暴力ではないけれど削除という強制力が拡大したら、・・と考えると、彼のような信仰の考え方を野放しにすることは危険です。肝腎のキリスト者が、大方、無関心のようなので・・、彼のような信仰の考え方は危険思想であると、ここで改めて記しておきたいと思います。
 
彼は、クリスチャンのMLにも、持ち前の不感不応と、謝ってはいけない、という処世と、おうおうそれはよかった・・という、人を食った舐めた調子で始まるメールをもって参加し、追放もされなかった。一貫しているのは、自分の名誉という精神の利益追求についてだけ学習して敏となった成果、信仰とは関係のないものを糧として、信仰者と非信仰者の人々の住む社会に保身を図る人格の石灰化体質である。
 
うっかり交わって受け入れれば、人間としての、潤いを失う。
 
彼から白々しい世辞をもらって、少しでも、うんざりすることがあったら、そのときこそ、彼から受けている無意識の呪縛から逃れる機会です。
 
 
(2017年01月19日、同日一部修正)