境地と魔界
電動自転車とキリスト信仰(2013.1.14)
2017/1/19(木) 午後 4:36
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27909045.html
転載元:2013-01-14 電動自転車とキリスト信仰
http://d.hatena.ne.jp/shirasagikara/20130114
信仰の先輩で教師でもあるべき人が、教えることに慣れた果てに、慎むことを忘れて、神の名をみだりに自分に当てはめて、こうなったら本物だ、と、本物を求めるのではなく、本物を自慢げに教えようとしています。転載元は、彼、シャローム氏の師なのでしょうか。だとすれば、彼の言説は、組織的な教理の企てということになりますが。
こういう特徴は、そのまま、ありのまま、彼、シャローム氏に当てはまります。いつかの彼の記事の、神の平安のうちに過ごしています、というのを思い出しました。批判を、無視して葬り去っている、まさに、その日々の中で、彼は、それを神の平安と言ったのです。神からのものだと分かった、というのは、大方、カルト的思い込みの前提から来るものです。
>そのとき思った。これはキリスト信仰の「熱心の段階」の変化と同じだと。
自分の至った境地を自慢したいのでしょうか。
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キリストを信じた最初のころは、キリストに従って励まなくてはと、肩に力を入れて、困難があっても「なんだ坂、こんな坂」と、殉教もいとわぬ覚悟で走りまわるものだ。これはまだ「人間の熱心」の段階。しかし人間の熱心は他人を審く。「わたし一人残りました」と誇ったエリアのように(列王記上19章)、「みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と豪語したペトロのように(マタイ26章)、人を審く「固い熱心」だ。
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訂正不能の安穏を作るために、強制力をもって他者の意見を封殺し、ブログにおいて、批判に反論できないのに、和解を計らず、証拠を次から次への隠蔽して、批判がないというブログ体裁の偽装を行って、固く熱心な決め付けの中に発信だけを無遠慮に行っている者がいます。つまずいているのに、順調だと見せかける者がいます。
自分の至ったところを、このように信仰は、おのれの欲するところに従えども則を超えず、の論語のように、楽になると言いたいのですか。やはり境地自慢ですか。
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その「人間の熱心」が、エリアは「わたし一人」と思ったのに7000人もの忠実な連中が残っていることがわかり、ペトロは三度も主を裏切り、二人とも、自分自身がポキット折られて「人間の熱心」から「主にある熱心」に変えられた。「おれが」「わたしが」という自分の熱心が消え、「主の熱心」に支えられている自分が見え出すのだ。
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人を無視して、人からの情報を遮断して、人の意見を聞かず、ただ強制力で裁き葬り続ける者がいて、それを、主の熱心と、神に守られているのだと、信じて疑わない者が、この記事を転載しています。
神が、神が、主が、主が、・・と繰り返すのも、そういう自分が見えたと言うのも、自分は主の熱心によって守られている、という、人間の勝手な熱心による不遜な安穏です。主が熱心に守り進める、という神の行為は、待ち望むことであって、人に人の言葉で言った途端、自慢に変わってしまうのです。
主の熱心の段階になると、こうなるんだよ、と言った途端、悦に入って、他者をそこまで至っていない劣った者よ、と見なす優越意識が生まれていて、その時点で、人間の熱心に、いや、ただの欲望の充足つまり自慢になってしまいます。そこに、信仰を与えた主への恐れがなく、口に慎みがないからです。
さらにエリアやペテロの熱心の悪い例を持ってきて、彼らもそうだった、自分も昔は・・、という語り口は、彼ら預言者と同じレベルで自分を語っていることにもなるでしょう。ポキッと折られたはずのことが、ここで、舞い上がってしまうことになるのです。もはや、そこには、砕かれた魂を主に捧げるキリスト信仰はありません。
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日本の「お神輿」は人間が神さまをかつぐ。聖書の神さまは、人間が支えようとするその手を振り落とされる。あの「ウザ撃ち」のように(サムエル下6章)。これがわかったとき「主にある熱心」が始まる。すると電動自転車のように、力まなくてもすいっと走れる。そうだ、主がいっしょに走ってくださるのだ。主に包まれて走るのだ。だから足も軽い。自由になる。うれしくなる。人間の熱心、固い熱心から、主の熱心に包まれた、主にある熱心、柔らかい熱心に入れられるのだ。
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主にある熱心が始まって、力まなくてもすいっと走れる、という、境地自慢は、主が一緒に、主に包まれて、足取りも軽い、自由になる、うれしくなる、柔らかい熱心、と言ってしまえば、主の熱心に、まさに水をかける結果になります。人が悦に入って、自慢してはならないことですが、もはや喜悦と陶酔に至って、ブレーキが利かないようです。これを人に話して、聞いた人が、また、何十年か先に、同じ陶酔の自慢をするでしょう。とんでもない信仰に固まっている熱心な不感不応の彼のように。
批判対象、ブログ管理人、彼、シャローム氏が、転載する記事は、この世離れした話ばかりです。奇跡の境地とでも言うべきことに、彼が憧れる必然があるからです。彼は、人間として生きることが好きではないようです。だから、人間の熱心などクソくらえというスタンスから、神との一体感を欲しがり、高慢から来る自動症的な陶酔に聖なる御業を見ている感覚なのでしょう。
こういうことを言葉で愛でる人、またさらにそれを人に言う人は、多く、人の上に立ちたいか、人の上に立っている、という、いわば、信仰のエリート意識に染まった立場で、悟った者が悟らない者に、上から下への教えを垂れたがる人です。
電動自転車に喩えた分、ますます機械的に背中を押されている印象を伴い、言葉と御言葉の重さも軽さも分からないで、謙虚と敬虔の制動もなく、みんなも私のようになるといいね、という気持ちが見え隠れするような話は、その暗部において既に自分優位の上下関係を定めています。さて、裁いているのは誰でしょう、ということになるのです。
実際は、主の御名をみだりに唱えて、主の熱心が自分を動かしているのですと、神は私を守り動かしているという神と一体の自覚をひけらかす症状から、神の行為を自分で決めつけて、人々を見下ろしているのです。勝ち誇っている満足?から、ゆくゆくは、みんなも私のようになるといいね、待っているよ、と・・。
キリスト信仰の熱心の段階があるとすれば、自分を熱心だと思っている段階、自分の熱心を疑う段階、自分は正しく熱心になれないと気づく段階、自分の思い込みの熱心を神に捧げて悔い改めて赦しを祈り願う段階、ということになるでしょう。
自動的に動かされるような熱心の段階は、しかも、神が自分を動かしている、と確定する段階は、異常体験であり、もし本当なら話すことに神への恐れをいだくはずです。恐れをいだかないならば、奇跡信仰や自分信仰などの、信仰?の病理です。
奇跡という超常現象は、めったに起こらないから奇跡であり、人間世界では理解できないから超常なのです。そこに一体化を求める、または、一体化が得られた、という奇跡信仰は、魔界への憧れを表しているのです。
・・神を恐れる信仰者は、神を讃えるために人間を軽視したりしないし、このような言葉遣いはしないでしょう。聖なる御方は、人間の反応を求めるからです。
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「主の熱心がこれをされるであろう」(列王記下19・31、口語訳)
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前にも書いたことですが、決して、人間が、何もせず、してはいけない、何も考えなくていい、考えてはいけない、という意味ではありません。こういう聖句の曲解が、どれだけ、キリスト信仰をゆがめて伝えることになるのか、彼は知りません。どう考えても、あらかじめの無罪信仰など虫が良すぎるのです。人間であれば分かるはずですが。
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信仰生活の熱意も制度や組織においては人間の熱心になりやすい。
人間の熱心は冷めやすい。
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一度考えた教理話を、執拗に繰り返す者もいます。その者は冷めやすいのではなく、人間の熱心というより名誉にしがみつく欲によって、不変不動を信仰だと思っているようで、修正可能による成長を、拒み続けています。その結果として、彼は、人を傷つけ踏みにじることや、人の意見を葬ることや、強制力をふるうことに、何の悔いも感じない電動自転車になっています。
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主の熱心によって洗礼に導かれて始まった信仰生活ですが、
多くの人が三年ほどで卒業?されるようです。
教会という目に見える制度や組織では目に見えない生ける神を信じるよりも、
教会の牧師や信徒との見える人間関係に心をとられ、信仰のつまずきが起こります。
牧師も礼拝に出席する人の人数や、洗礼を授けた人の数や、
どのような伝道の働きをしたか、目に見える成果を気にします。
牧師同志でくらべたり、教派、教団の間にも教勢報告が比べられます。
だれでもイエス・キリストの十字架の血潮により、罪赦され、神の子とされ、
永遠の命に生かされ始めたのは、否定できない神の恵みの賜物なのですが、
神ご自身とみ言葉に信頼するよりも、
神を知らずに生きてきた古い経験や生き方である
善悪の木の実を食べる生き方をしてしまうためにつまずいてしまうのです。
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また、彼の、ぼろくそ節です。信徒のつまずきに関して、分析するけれども、その中に、自分が至らなかった、という内省と悔いは、微塵もないのです。これこそ、完璧無罪信仰の特徴なのです。そして、そのことに、彼は、失楽園の善悪の木の実まで持ち出す始末です。このように、人のせいにして、かつ、聖書の言葉を頻繁に持ち出すのも、特徴です。自分を見つめることの出来ない怖い宗教指導者?の記事です。
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だれもが避けられない信仰のつまずきですが、
神はこのつまずきや試練を通して、
人として、信仰者として成長させてくださるのです。
信仰の成長も人間の熱心さによるものではなく、
神から与えられる恵みなのです。
人の熱心によるつまずきは、
十字架につけられたイエスさまとの新たな出会いによって、
主の熱心へと変えられる道なのです。
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訂正不能を選んだ者が、どうして、成長を期待できるでしょう。彼は、成長も、神から与えられるのだと言っています。もらって自分が鵜呑みにするだけの、それって、成長でしょうか。もっとも、彼の場合、彼の神?から与えられるわけですから、今までの流れから言って、彼がそう思い込んでいる、ということに過ぎません。問題は、誰も巻き込まれてはいけないということです。彼の言うところの、主の熱心は、人の義性を全く省みません。
>「主の熱心がこれをされるであろう」(列王記下19・31、口語訳)
どこまでも神がするのであって、自分は何もしなくていい、というのは、彼にとって、罪についても、熱心についても、同じのようです。だから、平気で、人間性を無視できるのでしょう。そのくせ、自分がしたことについては、神がやったというのでしょうか。極めて、稀有な、成り行きの全部を神の責任にする信仰?です。成り行きが悪いときは?・・それは人のせいにしてきました。
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18日、私の連れ合いの大腸がんの手術は明日20日入院、24日手術と決まりました。
平安のうちにすべての備えをすることができました。
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彼は、びくともしてないと、善良な信仰者を気取ります。本当の信仰者は、疑問に思ったことを、神の前に隠しません。祈りは正直でなければなりません。そこに、人間の本質的な悲しみがあるからです。
体裁にこだわる、というあり方は、政府関係の発表によく見られることですが、彼はよく似ています。また、リップサービスのような、きれいごとを並べるのでしょう。彼の信仰?は、合理化と辻褄合わせと偽善で出来ていると、もうずいぶんと前に、私は判断しています。だから、自分が悟っていることにしなければ都合が悪いのです。彼が、神の平安のうちに過ごしていることにしなければ、悔い改めない無罪信仰は成り立たないからです。
(2017年01月20日)
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