至高の善
 
 
この地上の人間で、考えることを志向する人間は、必ずと言ってよいほど、すべてを説明し、すべてを善しと出来る、至高の善というものを考えるだろう。そして、同時に、その至高の善が、人の住む地上にないことも、かなりの程度、実感しているだろう。
 
ここで言ったところの考えることを志向する人間、というのは、文学や哲学や宗教や政治など学問を志向する人間という意味だけではない。何かを読んで、しばし、心を留めて、うぅむ、とでも、沈黙でも、考えてみる人は、その人、すなわち、考えることを志向する人間である。つまりは、すべての人間ということである。しかし、まれに、考えないことを志している者もいる・・。
 
聖書は、神の人との交わりについて書いているが、神がどういう御方であるかについては、書いていることは、大方、人の知恵では理解できないことである。また、聖書は、神が、この世の人に対して、いつも好意的であるとは書いていない。
 
地上の信仰者は、神の支配する領域が、すべてであるなら、死後の世界、つまり、地上の人にとっては想像と空想を書くか、聖書から記憶に残ればまだマシなほうで、そのような知らない世界について、神が支配するような言葉を書くが、しかし一方では、神は、不幸のまま終わる人々を放置しているように見えるものだから、信仰を持たずにいるか、逆に、とにかく神をほめたたえなければ、と思っているようだ。
 
人間にとって、死後というのは、すべてなくなる、とも言える。しかし、「すべてなくなる」という世界は、今、意識のある人々にとっては、言葉で表されたとしても、理解はしていないということだ。また、先に逝った者たちに迎えられるところ、という表し方も想定と想像の域を超えない。
 
至高の善を考えながら、それが地上にはないと知りながら、なぜ、至高の善の源泉、そして、人に、至高の善を考えさせるものを、何も考えないのだろうか。すでに想像くらいはしているのではないだろうか、それが、人の頭と心によって、これ以上は辿れないところの、神、ということになる。もちろん、神という名は仮称である。また、神の真理は人には分からない。
 
そこから、至高の善があるなら、存在としてあるなら、なぜ、それを今、地上に成就しないのか、ということになる。生きている今の地上の世界と人に成就していないのは、人は不全だから、と私が思う根拠で、言い換えると、そのことが、今の自分が、至高の善に値しない、という、信仰の自覚を生むからだろう。
 
はっきり言って、自分と自分の世界の不全を認め自覚するだけでも、宗教的と言える。少なくとも、自分は選ばれ救われて平安の境地を得ている、などと言い張る、カルト的自分信仰者、すなわち、偽善者よりはマシだ。
 
考えることが好きな者たちも、至高の善、すなわち、神に相当する存在の概念に到達することはなかった。何故なら、神は、概念で、また、人の言葉で、語られ得る存在ではないからだ。概念を語ることは、概念通りにはいかないことを証明するからだ、と言いながら、私は、ここで、概念を言葉として語っている。言葉に表す、ということの挫折ポイントは、考えることではなく、現実の成就と実行にあるからだ。そこには、悪より善がいい、と言いながら、ときに、どうしようもなく、私たちを、着々と悪に向かわせている要因がある。
 
その矛盾は、善がいいと思いながら、益を計るのが、存在者としての、知的霊長の本能のような必然だからである。したがって、ここまで来た者は、原罪に相当する概念まで進むことが出来る。
 
私は、哲学用語の、何ゆえに何ゆえに何・・というような観念用語の論理には、全く感受性がないのだろう、ついてゆけない。にもかかわらず、この世に見捨てられたかのような哲学に尊敬の念をいだくのは、その哲学の、何ゆえ何・・から、私が学んだところの、「ルサンチマン」とか、「当為」とかの、私でも大いに必要とする初歩的な用語が生まれてきたからだ。
 
宗教、特にキリスト教は、さらに伝道において、それらの先人の資産をほとんど無視している。だから、彼らの説くところは多く、哲学が提唱した病理的なものに引っかかるのである。そこを克服しない限り、宗教は、思い込み信仰を促進し、被害妄想と他罰意識を助長し、人格を狭小化し破壊してゆく自己満足に堕し続けてゆくだろう。
 
多くの信仰者に怨恨がベースにあるのを見る。自分が不遇であったとき、自分を不遇にした世間やこの世の、苦悩を生じさせる主体、これには社会や集団や個人が含まれるが、それらに対する怨恨と敵意である。哲学の常識部分は一般の人でも理解可能で、ルサンチマン(弱者に募る怨念)は、信仰にとって貴重な資産と言ってよい。
 
例えば、ルサンチマンから、弱者の道徳として、敵は、この世で栄えているが、自分は至高の神の祝福を受けている、という慰めを得ている例があり、これは、愛の宗教の教えるところではない。何故なら、対抗し、敵視した上での優越感によるからだ。
 
また、多くの信仰者は、当為(「べき」の付くこと)と事実を混同して語っている。分かりやすい言葉としては、理想と現実を混同して語っている。
 
至高という理想があれば、それに比べて、この地上世界と自分は至高でも理想でもない存在として認知され、間違いを犯す必然にある人、という、この基本的なところからさえ、罪というものの考え方に近くなるのである。
 
罪の認知までは、概念によっても可能のような気がする。しかし、罪の赦し、救い、となると、概念や論理では、説明困難となる。
 
至高の善を否む人はいないにもかかわらず、世界の人類に戦争が絶えない、そのたびに、悲惨な殺人が行われる。また天災も、予測することも、防ぐことも、ままならない。命が、あまりにも軽く失われる、という、どうしようもない惨劇を繰り返し目にする人々は、その背後に至高の善なる神がいることを、一縷の希望のように願わないではいられなかった、というところが、宗教の起源そして必要性ということになるのだろう。
 
神が存在するところから聖書は始まるが、その神を必要としたのは、人間に他ならない。ゆえに、そのようにして、人間は神の存在を願い、信じ、その願いを託すように、聖なる書として著していったのだろう。これは、歴史的に辿れるかもしれないが、個人においては、常に実存的である。
 
そのような必然が想定されるにもかかわらず、多くの信仰者は、自分を善しとする主体を神と信じ込んで分かったことにしてしまった。実体も知らないで語るのだから、人格的唯一神として、人が神と交流できる話を作り、奇跡の万能を唄ったのである。
 
そこから、神といえば、奇跡の超常であり、信仰の中心は超常への関心に移ってゆき、それを人が語ろうとするのである。そこには当然のごとく無理があり、人は間違えて、後には確信して、自分信仰の決めつけを、信仰だと言い張るようになった。至高の善について人が考えることは、至高ならざる者に、至高を語らせる羽目になってしまって、現在に至っている。
 
私たちは、どう考えるべきか。神に祈るとき、「神に」で示された人の祈りの方向に本物の神はいない。神に私たちが把握できる実体はない。神を恐れるべきだ。神の御心を、いかに熱心にとらえようとしても、それは出来ない。ひるがえって、いい気になって、呪文のように、神は奇跡を起こし得る、ではなく、神が奇跡を起こすと、神の意志と行為を、繰り返し決めつけている人を、漏らさず、神は、ことごとく、その掌中に見ておられるのだ。
 
至らない人が、至高の神を語ろうとして、結局、人の、至らない、あるいは、邪悪な部分が、好きなように神を捏造している世界において、罪を犯しても悔い改め一つ満足に出来ず、苦し紛れに悔い改めなくても赦されると言い張る信仰者がいる世界において、人にとって、ただ一つの不全の身を捧げる祈りだけが、救われない人の本性からの神への音信であり、救いとなっている。祈った結果は不可知であるにもかかわらず・・である。
 
信仰に、失望か、冷血の排他を見なくて済むように、私たちは、神に与えられた知性と感性の人の遺産を、可能な限り、無駄にしないようにしたい。今の、冷静よりも熱心という姿勢が重んじられ、考えることが迷うことと、疑うことが背くことと、同一視されるような宗教の防衛の悍ましさを避けたい。人間は、神を守れるように造られてはいない。神には弁護される必要はない。神を讃えたつもりで、愚かにも帳尻を合わせているのは、まさに、人である。
 
思い込みに固まった人の、思い込みの相続で、信仰の系譜が決まってはいけない。先人たち、または、聖徒、と呼ばれる人々は、必ずしも、思い込みを信じたわけではないだろう。彼らには、周囲の思い込みを超えるものがあったから、使命に命を捧げることが出来たのだろう。聖徒たちの言葉面だけを真似する者は、いつも、下賤で卑しく身の程を弁えず、うっとうしい言い分だけを繰り返す。
 
罪を犯して悔い改めずとも既に罪は赦されている、という自分の信仰が正しいと思い、何を言っても聞かない者は、福音を伝道しているつもりだ。ということは、すべての人に広めて、誰もが彼と同じ信仰を持つことを理想とする。仮に、その理想が成ったとして、すべての人が、それぞれ、自分は何をしても神の御心に適っている、何故なら、罪を犯して悔い改めずとも既に罪は赦されているからだ、という信条を持つに至り、好きなように振る舞い行うようになる、つまり、成就が地獄を招く必然について、彼は、伝道者として、いったい、どう責任ある弁明をするつもりなのか。 
 
平安のない地上に、思い込みによる無視と無思考の安穏を作るのではなく、祈りのうちに、非力を切実に訴えるためには、人間の切実を、教理を超えて共感できる必要があり、それは、絶えることのない移ろいを、その時々に生きて、人間の切なさを、悔いも、悲しみも、怒りも、悪意も、罪も、隠さず表し、赦しと癒しと救いを祈り願うことに他ならないだろう。
 
かくして、信仰における人間の務めとは、その切なさを、古今の人間が、そして、今の自分が、在って在ることを願った至高の善なる御方に、正直な祈りのうちに、さらけ出し、捧げることに他ならない。
 
もっと開かれた、自由な人間の広場で、至高の善から、不全の自覚と、聖書解釈を経て、祈りまでを、決めつけることなく、聖書と信仰者の間で、信仰者と信仰者の間で、信仰者と求道者の間で、決めつけることなく、話し合える日が来てほしい。
 
 
(2017年01月21日)
 
著す(あらわす)
讃える(たたえる、称える)