キリストの教え
 
 
またキリストの教えについて書くのですが、今回は、罪について、マタイ5章を中心に、もう一度、考えてみたいと思います。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:17
わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。
5:18
よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
5:19
それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。
5:20
わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。
 (マタイ5:18―20、新約聖書)
 
これは、キリストが、パリサイ人と対立したことを考えると、パリサイ人のように、古いやり方で、または、それ以上に厳格に守れという意味ではない、と考えるべきでしょう。つまり、この教えは、教えを守る基準が、古い律法の基準から、キリストの新しい律法成就の基準によって超克されたということを告げているのではないか、と思います。そういう意味での20節だと思います。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:27
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
 (マタイ5:27―28、新約聖書)
 
ここは、私が前から書いてきたところで、情欲をいだかず女を見ることは、健康な男には不可能です。だからといって、自分で勝手に、教えを割り引いて守りましょう、と言うのは、ごまかしだと思います。もちろん、欲に走ってよいということではないのですが、このことは、キリストが出てくるまでもないことです。
 
キリストは、守れない罪人に寄り添い救いました。およそ守れそうにない、この教えは、罪なき者は一人もいない、ということにつながります。守れという教えなら矛盾するのです。ここは、キリストの行動との一致を考えて解釈するしかないのです。
 
誰が情欲をいだかずに女を見ることの出来るだろうか。即ち、私たちの誰一人として、姦淫の罪がないと言える者はいない、ということを伝えている、と解釈します。キリスト信仰の教えが、ふつうの法律や道徳とは違うところです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:33
また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:34
しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。 5:35また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。
5:36
また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。
5:37
あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。
 (マタイ5:33―37、新約聖書)
 
ここに感動を覚えます。自分は出来ている、キリスト者として平安を受けている、と悦に入る人を見るのは、境地自慢のように思えて、食傷していましたから。
 
人は、誓えるほどには守れない、意図したほどには行えない、そして、人は、神の保護下になければ生きられないほどに、善を目指して、悪を行うのだ、何に向かっても、人に誓えるだけの資格があると思うのか、否である、という私の解釈を書いておきます。
 
実際に、否、否、と言い続けても、それを、歯牙にもかけず、ゴミ屑のように捨てる者を知っています。その彼の最近の記事が、信仰を電動自転車に喩えて、自分が何もしなくても、主が動かしてくれる、自動症的信仰でしたし、悔い改めることを拒否して、悔い改めなくても赦されるという、予約した保険の付く無罪信仰なのです。信仰を讃えながら、信仰からどんどん外れて悪い種をまき続けてゆく典型です。
 
神は生ける神です。人間は生きる人です。生きながら死んで無反応になってゆく道を選んではいけません。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:43
『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:44
しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
 (マタイ5:43―44、新約聖書)
 
ここも、愛せるなら敵と呼ばない、愛せないから敵と呼ぶ、ということから、守れない無理難題の教えです。
 
キリストは、こういう無理難題を言って、守れ、というのではないく、守れない自らを知れ、と言っているような気がします。なお、慇懃無礼な態度で、柔和と優しさを装うことは、この教えを守ることとは何の関係もない、偽善に属することです。
 
私は、他者を批判をしています。私は、この教えを守れません。即ち、私は、主の前に罪人です。だから、毎日のように、ため息をついて、罪を認め、神への態度を改めようとしますが、お赦しくださいと祈っても、守る気もないのです。ここまで来ると、結果は、神の裁きにお任せします、という祈りにしかなりません。神の裁きに任せるのは、この段階だと思います。最初から何もしないで、神に委ねますと言って、キリスト者らしいと思っているなら、大きな勘違いです。
 
キリストの命を賭した救いの姿勢を思うべきです。キリスト以外、誰か敵を愛せるだろうか。人が敵を愛することは不可能です。その不可能は、神の前で、罪であります。
 
それほどに神の御心は気高く、人は、どう努力しても、あがいても、もがいても、低いのです。敵を愛せよ、という教えを守って、罪はないと言える者は、一人としていない、と伝えていると解釈しています。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:45
こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。
5:46
あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。
5:47
兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。
5:48
それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
 
挨拶をするなと言っているわけではありません。社交と世辞に留まることは、愛したことにはならない、ということです。完全でありなさい、というのは、もはや、キリストの命を賭した救いの姿勢を思うしかないでしょう。出来なければ、罪の赦しの祈りをすることになります。悔い改めるための祈りを必要としない者は、一人もいません。敵を憐れんでいるつもりで、最悪の侮辱を与える者もいます。いかなる場合でも、罪を認めて赦しを乞う祈りが必要なくなることはありません。それは人間の不全です。
 
以下は、前にも書いたことで、5章ではないですが、
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
19:16
すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。
19:17
イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。
19:18
彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。
19:19
父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。
19:20
この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。
19:21
イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
19:22
この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
 (マタイ19:16―22、新約聖書)
 
そんなに悪でもなさそうな裕福な青年は、パリサイ人などに比べると、救われてもよさそうな気がします。ここで、青年が犯したミスは一つだけです。「(教えは)守ってきました」と、神の前に言える人は、一人もいないのです。これは、この青年が、古い律法の、守れば義、守れなければ罪、という考え方に囚われている証拠です。
 
キリスト以後、救われるか否かは、教えを守ったか守らなかったによるのではなくなりました。実際、キリストが救った人たちは、教えを守れなかった人、信仰についても知識が豊かとは言えない人であり、かつ、罪びととして卑しめられていた人たちだったのです。どうしようもなく、低く、価値なく、弱く、小さく、見なされ、そして、本人も、そういう自分なんだと、思わざるを得なくなっていた人たち、彼らを、キリストは、優先的に救ったのであります。
 
次の聖句を思い出しました。引用まで。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
21:28
あなたがたはどう思うか。ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ』。
21:29
すると彼は『おとうさん、参ります』と答えたが、行かなかった。
21:30
また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた。
21:31
このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」。彼らは言った、「あとの者です」。イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。
21:32
というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。
 (マタイ21:28―32、新約聖書) 
 
話を戻して、悲しみながら去った青年が、この後、怒って迫害者の群れにいたか、悲しみながらも、キリストの話を聞き、キリストの群れにいたか、キリストの群れをサポートする人となっていったか、聖書は述べていません・・。
 
自分は、主にあって熱心で、主の熱心が自分を正しく動かしてくれる段階にあるから、皆もこうなって欲しいなどと思っている者には、神の前に、焼き尽くて捧げるべきものがあります。そのような者の熱心の誉れは、ことごとく焼き尽くすべきです。神の前に、そのような熱心など、糞尿ほどの価値もありません。神は高く、人は低いのです。神は完全であり、人は不全で罪深く欠点だらけなので、安穏の境地に留まるのではなく、成長しなければ、キリスト者として生きることにはなりません。
 
 
自分信仰者は言葉を漁り、言葉を見て、言葉面を組み立て、言葉面だけで人を操ろうとする。
 
キリスト信仰者は、言葉から、主の御心を、そして、人の心を見ようと努める。
 
 
(2017年01月22日、同日一部修正)