伝道を飾る者
 
 伝道者の書3:9~15ー私たちには永遠への思いがある!
 2017/1/21(土) 午後 9:45
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27912514.html
 
 転載元:伝道者の書3:9~15ー私たちには永遠への思いがある!
 2009/10/29(木) 午前 10:50
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jc_brother/21932748.html
 
 
伝道者は、本音を叫ぶように、まるで落胆するかのように、書いています。ところが、それを記事にした転載元は、神の讃美へと飾ってしまったのです。優等生のように。そして、それを喜ぶように彼は転載しているのです。
 
ずっと本音も理解も隠蔽してきたのが彼で、神への讃美だけ、言葉面だけ、並べてきました。これはそのまま、彼、シャローム氏好みの転載記事です。
 

9 働く者は労苦して何の益を得よう。
10 私は神が人の子らに与えて労苦させる仕事を見た。
11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。
12 私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか何も良いことがないのを。
13 また、人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物であることを。
14 私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。
15 今あることは、すでにあったこと。これからあることも、すでにあったこと。神は、すでに追い求められたことをこれからも捜し求められる。

 
上の引用の前には、この書の始まりとして、何ごとにも時があり、神が定める、というようなことが書かれています。そのあとの箇所から少しばかり引用してみます。
 
 (伝道の書、口語訳)
3:16
わたしはまた、日の下を見たが、さばきを行う所にも不正があり、公義を行う所にも不正がある。
3:17
わたしは心に言った、「神は正しい者と悪い者とをさばかれる。神はすべての事と、すべてのわざに、時を定められたからである」と。
3:18
わたしはまた、人の子らについて心に言った、「神は彼らをためして、彼らに自分たちが獣にすぎないことを悟らせられるのである」と。
3:19
人の子らに臨むところは獣にも臨むからである。すなわち一様に彼らに臨み、これの死ぬように、彼も死ぬのである。彼らはみな同様の息をもっている。人は獣にまさるところがない。すべてのものは空だからである。
3:20
みな一つ所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る。
3:21
だれが知るか、人の子らの霊は上にのぼり、獣の霊は地にくだるかを。
3:22
それで、わたしは見た、人はその働きによって楽しむにこした事はない。これが彼の分だからである。だれが彼をつれていって、その後の、どうなるかを見させることができようか。
 (伝道3:16―22、旧約聖書)
 
この世の有り様、とでも言うべき、惨憺たる様子を書きながら、神の支配の絶対を説き、この地上で楽しむ、ということを書いています。人の有り様、神の支配、人の取り分、という話のようです。獣は地に下るのでしょうか。地に下る人もいるのでしょうか。いるのかもしれません、分からないけど・・。
 
 (伝道の書、口語訳)
4:1
わたしはまた、日の下に行われるすべてのしえたげを見た。見よ、しえたげられる者の涙を。彼らを慰める者はない。しえたげる者の手には権力がある。しかし彼らを慰める者はいない。
4:2それで、わたしはなお生きている生存者よりも、すでに死んだ死者を、さいわいな者と思った。
4:3
しかし、この両者よりもさいわいなのは、まだ生れない者で、日の下に行われる悪しきわざを見ない者である。
4:4
また、わたしはすべての労苦と、すべての巧みなわざを見たが、これは人が互にねたみあってなすものである。これもまた空であって、風を捕えるようである。
4:5
愚かなる者は手をつかねて、自分の肉を食う。
4:6
片手に物を満たして平穏であるのは、両手に物を満たして労苦し、風を捕えるのにまさる。
4:7
わたしはまた、日の下に空なる事のあるのを見た。
4:8
ここに人がある。ひとりであって、仲間もなく、子もなく、兄弟もない。それでも彼の労苦は窮まりなく、その目は富に飽くことがない。また彼は言わない、「わたしはだれのために労するのか、どうして自分を楽しませないのか」と。これもまた空であって、苦しいわざである。
 (伝道4:1―8、新約聖書)
 
しえたげ、つまり、虐待の有り様を書き、死んだ者のほうが幸い、さらに、まだ生まれない者で、悪を見ない者が、もっと幸い、とまで言っています。ここまで言っている、この伝道の書は、聖書の中でも、特異な書と言ってよいでしょう。
 
この書を読んで、それを、平板な、神への讃美にしているから、彼、シャローム氏は、転載したのでしょうか。全く聖書を分かっていないのに、分からないと言えない者は、このように、日々、聖なる言葉を、自分が気持ちのよい言葉面に替えてゆく作業に勤しんでいるのです。
 

人は時を知らない、知り得ない。しかし、時至ってなされる神の時、わざはすべてが完全なものとなる。それは私たちには分からないが、神の最善なのである。私たちはそれをそのままに受け取って行く。

 
> 
 創世の初め神はこう言われた。「Good!」すべては良しと!それで終わるのではなく、神は永遠から永遠を備えられている。

 
神の時、完全、最善、受け取って、よし!、永遠から永遠、これらを感想として、神を讃美するのは、果たして、伝道の書を読んだことになるのでしょうか。分からないが、神の最善、こういうことはあると思いますし、神の秘密です。そのまま受け取ってゆく、といっても、分からないままで、私たちに生きてくるのかどうか、疑問ではありますが、短絡して、気合いで出来るかのように強引に、シャローム氏のように讃美に変えるのではなく、私たちは、人間ならば、人間とは、と考えてゆきたいところです。
 
 (イザヤ書、口語訳)
44:6
主、イスラエルの王、イスラエルをあがなう者、
万軍の主はこう言われる、
「わたしは初めであり、わたしは終りである。
わたしのほかに神はない。
44:7
だれかわたしに等しい者があるか。
その者はそれを示し、またそれを告げ、
わが前に言いつらねよ。
だれが、昔から、きたるべき事を聞かせたか。
その者はやがて成るべき事をわれわれに告げよ。
44:8
恐れてはならない、またおののいてはならない。
わたしはこの事を昔から、
あなたがたに聞かせなかったか、
また告げなかったか。
あなたがたはわが証人である。
わたしのほかに神があるか。
わたしのほかに岩はない。
わたしはそのあることを知らない」。
44:9
偶像を造る者は皆むなしく、彼らの喜ぶところのものは、なんの役にも立たない。その信者は見ることもなく、また知ることもない。ゆえに彼らは恥を受ける。 44:10だれが神を造り、またなんの役にも立たない偶像を鋳たか。
 (イザヤ44:6―10、旧約聖書)
 
ここまで引用すると、偶像を戒めていると分かるのですが・・
 

私たち人間は有限であり、その永遠を見ることが出来ない。だから私たちはこのいまを喜び楽しむのである。またその楽しみは「すべての労苦の中にしあわせを見い出すことも神の賜物」だと。
喰うために働くだけのむなしい労苦ではない。しかし、キリストの内に生きるその時、生きる労苦が恵みの実を結び初め、その中に神の力が働く。それを見出す喜びに歩むことになっていくのだ。
神はいつでも変わらないお方であり、完全なお方である。私たちは創造主なる神の偉大さを知り、私たちがちりに等しい者でしかないことを知るのだ。であるから、私たちにはその永遠の計画に対して、あれこれと指図したり、勝手に取り除くことは出来ないのである。

 
人間は有限、労苦の中に幸せを、空しい労苦ではない、神の力、見出す喜び、神は、変わらないお方、完全、偉大、永遠の計画、という信仰のピンと来ない美辞麗句です。何も語っていない讃美の空しい誉めまくりです。
 
そして、ここに、キリストを登場させ、転載元のの足らざるを補おうとしています。あれこれを指図したり勝手に取り除くことは出来ない、と言っています。さて、引用に当たり、どこを引用するか決めたり、また、解釈に当たり、キリストを持ち出してつじつまを合わせたりしたのは、誰なのでしょう。取捨選択を、ほしいままにしたのは、誰でしょう。
 
そこを責めているのではありません。自分がいじっているにもかかわらず、いじってはいけない、というような戒めを書いてしまうことを批判しています。これは、根本的な、何を罪とするか、という重要な問題に触れてくるからです。このような執筆態度は、人にせいにしやすい態度と結びつきやすいのです。シャローム氏が、そうでありますが、だから、彼は、この文章を気に入って転載しているのでしょうか・・。
 

永遠は私たちの希望、喜びである。その完成の時を待ち望んでいる。イエスの十字架で救われることが出来る。けれども、もしわざは提供されていても、信仰者が起こされなければ、そのまま、止まってしまう。信仰者がいることが永遠に結びつけることになるのだ。
この地上で生きている間にイエスを信じた者はからだは死んでもたましいは死なない。ここに希望があるからこそ「 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」と言うことが出来る。この希望がなければ死を受け取ることは容易ではない。そして私たちは再び会うことが出来る、これが永遠の別れじゃないことを知っているから、悲しみの中にあっても神を賛美し、神を恐れるのだ。

 
信仰の救いについて、信仰者が起こされなければ止まってしまう、信仰者がいることが永遠に結びつける、と書いています。永遠は喜びでしょうか。私たちの時間感覚で永遠は、むしろ地獄かもしれません。分かりようのない超常を説いて、私たちの今にどう結び付くのでしょうか。終末まで分からないのではないでしょうか。
 
信じたら、体は死んでも魂は死なない、ここに希望、これは、理解しないまま、信仰らしく豪語して見せたに過ぎません。理解せよ、ではなく、理解できないことを知るべきですし、それを書かなければいけません。
自分の至らなさや不全を考えないで、どうにかして、都合の良い綺麗な文章にしようと飾っている態度でしょう。もう一度、伝道の書を部分的に引用しますが、
 
 (伝道の書、口語訳)
3:11
神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。
3:12
わたしは知っている。人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。
3:13
またすべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である。
 (伝道3:11―13、旧約聖書)
 
「 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」と言えるのは、死んでも死なないから、その希望があるからだと言いたいようです。
 

私たちは再び会うことが出来る、これが永遠の別れじゃないことを知っているから、悲しみの中にあっても神を賛美し、神を恐れるのだ。

 
あの世の再会のために、神を讃美し、神を恐れている、ということだけではないはずです。そのために悲しみが癒えることもありません。転載元は、あの世の約束という、やはり、彼、シャローム氏と、似たような体質によって、超常だけを慰めとしているのでしょうか。そこを、彼、シャローム氏によって利用されていることに、そろそろ、気づくべきだと思います。彼の、おだてや、わざとらしい誉め言葉は、早く忘れてください。
 
信仰は今の世を生きるためにあります。この世に生きる人間と、神との、関係です。ときには、天国での亡き人との再会を考えてもよいのですが、それが信仰の根拠ではありません。キリストと人間の関わりは、神と人間との関わりは、超常にあるのではなく、この地上における関わりでなければ、どうして信仰が成り立つでしょう。 
 
キリスト信仰は、悲しみのこの世を生きるための支えです。死んだ後のことは、もはや、神のみに任されることです。死後のことを、人の言葉で表したつもりでいると、シャローム氏からの誘惑のように、幻想に頼って生きることになるでしょう。
 

2コリント4:18私たちは見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

 
見えないものにこそ目を留める、というのは、そう簡単ではないはずです。神を見たかのように言うのは、シャローム氏などの自分信仰者の特徴です。見えないものは、見えないのです。見えないものがいつまでも続く、というのは、信仰による希望と神の愛を喩えているからです。たとえられていることが、今、完成しているでしょうか。人間の信仰の道というのは、生きている間は、成就のような完成の喜びを讃美するのは、シャローム氏のような、知ったかぶりをしたい人だけです。
 
神は讃美される必要はありません。しかし、彼、シャローム氏は、自分の後ろめたさの反動のように、以前から、神を讃美しまくってきました。彼は、この記事の転載という行為によって、また、一つ、罪と偽善を重ねましたが、私たちは、今この世を生きている時間を、賜った信仰と人間を考えてゆく務めのために、与えられています。それは、キリストの愛に支えられて生きることですから、空しい超常の幻想や空約束のために誘ってくる者を避けなければいけません。
 
 
(2017年01月23日、同日一部修正)