荒んだ偽善の祭壇
 
 荒野で築かれる心の祭壇
 2017/1/23(月) 午後 2:53
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27915126.html
 
 神の道 人の道
 2016/8/5(金) 午前 9:49
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27620437.html
 
 神の祭壇 人の祭壇
 2012/6/12(火) 午前 10:03
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/22933438.html
 
 
彼は、悔い改める必要はないと言い、電動自転車に乗るように軽く務めを果たせると言い、今日も昨日も都合の悪いコメントをコメント欄ごと削除して批判はないという体裁を偽装し、恐ろしいほど、露骨に神に背いていながら、なおも、人々に信仰と従順を説こうとするのでしょうか。何も分かっていないのに、分からないと言えない人です。背いているのに、他者には従順を説くのです。
 
彼の信仰は、悔い改めを必要としない信仰で、そんな信仰は聖書のどこにも書いてない偶像信仰なのですが、彼は、再三の批判による警告にもかかわらず、彼は、人の言うことなど聞かない権威主義者として、反省もなく、何故か、この世の権力者を、彼特有のボロクソ節で批判しているのです。いつものように、悪から自分を安易に除外した正義の味方気取りの、信仰の立場から言うと、とても異常な自尊を今日も唱えています。
 
彼の偽善は、いつでもどこでも、治ることなく、改まることなく、全開のようです。彼は、訂正不能の信条と心臓から、今の自分は神の助けを得て、何の落ち度もないという前提で、それゆえ、どんな状況でも、神の御心を伝えようとするのでしょうが、彼は自分に火がついていることに全く気づかない人だということを明らかにしているだけです。この無反省を、信仰者は、罠そして敵として自戒し警戒するべきです。その根拠は、彼が今まで行ってきた偽善の事実と、彼の書いた文章が、書くたびに証ししてきましたし、これからも証しするでしょう。
 
彼という偽善者そして偶像崇拝者は、今回、預言者エリヤと、偶像崇拝者の王の話を引用しています。非常に奇妙です。この世の誉れに執着して見かけにこだわり、一方で人を人とも思わない偶像崇拝者である彼が、偶像崇拝を戒める記事を書いているのです。固く固く凝固した言語の血液が、硬直した石灰の心臓をさらに締め付けて、脳も心も行き届かない循環のために、言い古された言葉を大仰にわめき、自分だけ、まともなつもりで、迷惑な矛盾の様態を繰り返し振り回しては、触れる人々に、彼の無罪信仰という毒と、悔い改めない偽善という病原を伝染することを止めないのです。
 

ここに書き記されていることは生ける神の預言者エリヤと
偶像神バアルとアシラに仕えるアハブとイゼベルとの対決の前哨戦なのです。
生ける神は先ずエリヤに生ける神への信仰と従順を求められたのです。
生ける神への信仰と従順は人の力のおよばない逆境の中で養われるのです。
生ける神への信仰と従順こそが最善であり勝利の道であることを
エリヤもザレパテのやもめも知るのです。
イエスもその道が平和の道であり、命の道であることを示されたのです。
 
そのような生ける神への信仰と従順によって、
私たちの心が砕かれ、整えられた時、生ける神の確かな導きと助けによって、
今もこの世の偽りの神に仕えるアハブとイゼベルとの戦いに勝利できるのです。
 
神ならぬものを神として仕えるアハブとイゼベルに象徴されるこの世の権力者は
必ず腐敗し、民を食い物にし、生ける神に立ち向かうのです。
アメリカをはじめ、この世界の混乱と腐敗はまさにそのことを示しています。
その勝利の道は主の言葉に聞き、神の祭壇に自己をささげることであることを
十字架の道を歩まれたイエスと預言者エリヤは証言しているのです。

 
この箇所の解釈についてなかなか述べる気になれません。偶像崇拝が悪いことは、信仰者は知っています。知っているけれど、日常的に偶像はありますし、その共感を信仰者は分かち合うことが出来るでしょう。それを踏まえたうえで、偶像の話というのは成り立ちますし、私もいくつかの記事を書いてきました。
 
ところが、彼は、偶像を他者に戒めるけれど、隠蔽によって、彼が偶像崇拝者であることを認めないままです。罪を認めないのだから、悪に徹しているなら、あり得ることではあります。しかし、なぜ、ここまで厚顔になれるのか。なぜ、ここまで来て、それが信仰?であるかのような言い逃れに、神を盾にするという恐ろしい真似が出来るのか。かえって彼の理由なき誇大志向と安穏思想が信仰?として受け取られることの脅威を示す材料にしかならないのに。
 
>生ける神への信仰と従順こそが最善であり勝利の道であることを
>エリヤもザレパテのやもめも知るのです。
>イエスもその道が平和の道であり、命の道であることを示されたのです。
 
預言者エリヤも救い主イエスも平和と命の道を示したから、・・何なのでしょう。そう彼が言えば、何かが収まるどころか、彼自身の背きの事実と文章が彼に矛盾を突きつけるのです。その命の道に、彼は、いないではないか。いないばかりか、愚にもつかない記事を書いて、うそぶいて、異常な無反応によって、福音を伝えられると思っているのか。何をしのごうとしているのか。見下すように、へらへらと笑ってふざけて書いているのか、そう感じてしまうような彼の記事です。
 
彼、シャローム氏は、もはや、聖職者ではないのです。彼が手に入れた牧師職は、彼自身によって偽善の伝道でしかなくなったのです。もはや、福音伝道は、彼とは何の関係もないところでしか語られないだろう、ということです。
 
いかなる大きな罪も、悔い改めることによって、祈りを通じて、赦され癒やされ救われ導かれる信仰によって生きることの糧と変わり得るのです。それほど、キリストの軛は、出来ないとは言えないほどに軽いのです。そして、十字架上の犯罪人の話のように、信仰によって救われることは、大方、この世での利益には結びつきません。それでも、そこに、人生を支えるほどの愛の力を感じた人は、この世的にぼろ布のようになっても、信仰者であり続けます。
 
罪深いぼろ布は、ぼろ布である自分を神の前に隠しません。何故なら、それが、神に赦される唯一の必要十分条件だからです。
 
自分がぼろ布であることを認めず、依然として福音伝道者や説教者ぶって、自分のボロを棚にあげて、壇上から、くどくどと、言い古されたことを繰り返して、務めを果たした気になったりするなど、あり得ないのです。偉そうで高そうでいて、それでお手本になるぼろ布など、あり得ないからです。
 
神の前に隠し事をもって、信仰者であり続けることは、あり得ません。嘘をつく人は嘘つきです。信仰?によって信仰について嘘をつき続ける者は、いかなる義にも赦しにも値しません。いつまで事実を知らない人々を騙し続けられると思っているのか。
 
 
(2017年01月24日、同日一部修正)
 
荒んだ(すさんだ)
軛(くびき)