人の世界と神
 
 
私たちはこの地上に生きているから
私たちは神の世界を見ていないし
私たちは神の世界を終末まで見ることはないだろう
この地上で私たちは
自然の情景と不全の人を見るだけである
 
神が永遠から永遠まで存在しているとしても
人が人の必然によって神を必要として求めなければ
人の世界に信仰は生まれないということ
 
つまり神の真理がどう働くのであれ
また奇跡を起こせる神が
人に対して奇跡を起こし
その人を働かせたとしても
私たちはその神を見るのではなく
その人を見るに過ぎないから
その人の言動によって
自分を含めた人に何が起こるかだけが問題である
 
つまり人の世界では
人がいて
人が求める神を
人が認めて信じるということ
 
そうさせている神が元々いるという考えは
神を信じた者だけがするということ
 
したがって
人についての考えなしに
例えば人が嫌いで
神?を信じるなら
それなりの
人嫌いの神?への信仰しか生まれないということ
 
人が悪が好きなら
悪を求めよという神?を
人が欲が好きなら
欲を求めよという神?を
人が自分だけが好きなら
自分だけを愛してくれる神?を
人が何かを破滅させたいなら
破滅させる神?を信じるだろう
 
したがって
神について考えることは
人について考えることなしには
ありえないということ
 
でないと
とんでもない者に
その者にとってだけ都合の良い神?を
押し付けられることになる
 
命を大切にしたい思いから
人について考えて
自由・平等・公正そして愛を求める人がいたから
愛と赦しの神への信仰にたどりついて
 
自分の愛が神の愛ではないことを承知の上で
神を待ち望み愛する人々は
今も愛の神を信じているのだろう
 

 
人間の共感も共有も求めない者たちが
共感など必要のない神?を信じている
 
罪と悔い改めなど考えたくなくて
安楽だけを求める者たちが
罪は悔い改めなくてもそのまま赦して
好きなだけ義を与える神?を宣伝している
 
※ 
 
一応、念のために、「神?」は、私の信じる神ではないということです。私の信じる神は、聖書によって表された神であります。そこには当然、私の解釈が入りますが、解釈を絶対化せず、誰かが、私を説得して、その説得力によって、私が納得したら、私は、自分の解釈を改めるつもりでいます。
 
信仰は、人間性の豊かな人が求めるだけではなく、人間性の乏しさの自覚から信仰を求める、ということもあります。上に書いた中の悪い例に自分が当てはまるものがあるのではないか、という思いから、信仰を考える必要をずっと感じていて、書いてきました。
 
信仰は、人間を超えることではありません。自分が人間として優れていることを自慢することでもありません。信仰は、今の自分がどうであっても、神を信じて、人間らしさを求めることであります。
 
 
(2017年01月25日、同日一部修正)