上に投げて下を潰す者
 
 上に投げる。(2012.1.2)
 2017/1/25(水) 午前 11:17
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27918315.html
 
 上に投げる
 2012/1/2(月) 午前 11:33
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/21949753.html
 
 
「上に投げる」とは、自分の手に負えないことを神に任せること、「神さまがこれから、どうされるか楽しみ」とは、これから神がどう導くか、導かれる自分にとって楽しみ、という意味でしょうか。いずれも、思い煩いは神に任せよ、神が導き助ける、という話ですが、
 
>「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」と、ペトロが言ったとき、
>彼は「任せられなかった自分」を恥じていた(第1ペトロ5・7)。
 
 (ペテロの第一の手紙、口語訳)
5:6だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。 5:7神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。
 (ペテロ5:6―7、新約聖書)
 
自らを低くする人にとって、の話です。思い煩いとは、考えないことではありません。考えて疲れて、わずらっているという段階です。最初から、何もしなくても、神が何とかしてくれる、という思い込んでいる人は、さすがに、聖書の時代でも、いなかったのでしょう。これで、十分通じるのですが、彼、シャローム氏は、なおも自説の、悔い改めないまま赦される≒何でもしたい放題、という信仰?によって自己顕示欲を満足させたいのでしょうか。書けば書くほど、詭弁が繰り返され、発言が幼稚なものになってゆくようです。
 
ペテロが手紙を書いたとき、恥じていたと解釈しているのは、続く次の箇所ということで、
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
14:26
 弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。
14:27
しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と言われた。
14:28
するとペテロが答えて言った、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。
14:29
イエスは、「おいでなさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。
14:30
しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言った。
14:31
イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。
14:32
ふたりが舟に乗り込むと、風はやんでしまった。
14:33
舟の中にいた者たちはイエスを拝して、「ほんとうに、あなたは神の子です」と言った。
 (マタイ14:26―33、新約聖書)
 
水の上を歩く、という奇跡の話です。このようなことを信じなければ救われないなら、この世は、シャローム氏のような奇跡信仰者だけになるでしょう。そして、上に書いたように、何をしても無罪という信仰?ばかりになり、この世は、地獄と化するのです。
 
ペテロは、信仰の薄い者よ、と、キリストに言われます。しかし、キリストは、人間らしく欠点を持つ信仰の薄いペテロを、決して見捨てず、最後まで、あとを託すほどに慈しんだのです。
 
>ペトロが「主よ、もし、あなたでしたら、水の上を、あなたのもとへ行けるよう、
>わたしに命じてください」とお願いする。
>しかし、この「もし」(アイ)がよくなかった。半分信じ、半分信じていない。
>こんなものは信仰ではない。だから彼は水に沈んだ(マタイ14章)。
 
まるで、ペテロは信仰が薄かったので溺れかけた、信仰とは、どんなに奇妙なことでも疑わないことだ、ペテロのようにならないことが大事だ、と教えているような記事です。ペテロはキリストに対して低くあるしかなかったが、まさに、その低さゆえに、キリストはペテロを慈しみました。ここが大事だと思います。・・水上歩行の奇跡話で、信仰が薄いから溺れたというのを、今の私たちの信仰として語ったつもりでいるなら、かなり胡散臭いので、鵜呑みは禁物です。
 
確かに、神以外のものを、恐れるな、ということは確かですが、それは、キリストがおられるときです。今の時代、キリストを唱えていても、彼のような、愛とも希望とも呼べない自分のための無罪信仰を持っている者もいます。彼の記事を読むたびに、キリスト信仰を取り巻く世界の暗澹たることを思います。キリストが肉体を持っておられた時代とは違います。
 
忘れてはいけません。キリストに救われた人たちは、厚い信仰など持ってはいなかったのです。ただ、神の前に、自分を低くした人たちだったということです。水の上を歩く信仰より、そのことのほうが大事なのです。人間を考えない超常奇跡信仰の悟り顔に惑わされてはいけません。
 
彼、シャローム氏は、奇跡信仰者なので、こういう話が大好きで、しかも、ペテロは信仰が薄かったので沈みかけた、ということを、信徒を従わせるために、言いそうな人です。そんなに奇跡が好きなら、これからは、水の上を歩いて信徒に見せればいのです。物や肉体の奇跡を伝えて気持ちよくなることは、キリスト信仰とは関係ありません。大事なことは魂の奇跡です。
 
自らの訂正不能の独善教理の奇跡信仰で、いつまで神とキリストと聖霊をけがしたら気が済むのでしょう。いつまでキリスト者を惑わしたら気が済むのでしょう。彼の教理?は、すでに地獄を招く危険極まりないものであることを私は書きました。彼は、私の記事をコピペしたコメントを削除するだけで、まともな反論一つ返せないままです。言い返せないことを、人間について考えるでもなく、神?の絶対を盾にして、問答無用に、言い張っているだけなのです。
 
>さてペトロが「お任せ」と言った言葉は、
>「上に」(エピ)「投げる」(リプトオ)が原意だ。
>だから「任せる」とは「放り投げる」ことだ。
 
シャローム氏は、そんなに奇跡が恋しいなら、罪を悔い改めもしないキリスト信仰?なら、グダグダ詭弁を弄しないで、いっそ、水の上に、自分を放り投げたらいいのです。
 
>よく弱い…ほど良く・・・と言われますが、人間的にはそうですが、
>主への信頼と明け渡しによって与えられる支えの力、平安を改めて体験できました。
>なお、神さまがこれから、どうされるか楽しみです。
 
家族を引き合いに出して、このようなことで、彼は、自分が救われることを確信していきたいのでしょう。これから、これを奇跡として、宣伝することでしょう。神の意志と行為を決めつけることは、キリスト信仰においては、禁忌と言ってもよいくらい、罪深いことだと思います。彼は、治療がうまくいったことも、聖書の登場人物に起こった奇跡と同様に、また、自分がいかに聖書に忠実であるかを顕示するために、奇跡だ恵みだと、言ってくるようです。
 
彼は、文句を言わせないために、不幸さえも利用する、という危惧をいだきます。そう思いたくなるような、彼、シャローム氏の異常な言説と行動があるからです。手術が無事終わったことを神に感謝する、というキリスト者の一般的な気持ちは分かります。しかし、彼のような人の場合、幸と不幸の、ものすごい因縁付けが始まりそうで、悲しみを、悲しみとして、悲しめない人のような気がして、かなり怖い気がします。
 
もう一度、書いておきます。キリストに救われた人たちは、厚い信仰など持ってはいなかったのです。ただ、神の前に、自分を低くするしかなかった人たちだったということです。水の上を歩くことより、このことのほうが大事なのです。
 
 
(2017年01月26日、同日一部修正)
 
潰す(つぶす)
胡散臭い(うさんくさい)
暗澹(あんたん)
弄する(ろうする)、弄る(いじる)、虐げる(しいたげる)