神性
 
 
神性について考えても
推測か想像の域を出ないのが人間です。
 
神性を推測するには
自他の中に
人格の中の醜いところを探す思考、
または、見るという経験もあるでしょう。
 
その醜い人格が
どうあれば望ましいかを考えると
神性というより
 
より善い人格像が推測されるので、
さらに推測する・・ということになります。
 
神は・・こうだ、と言えることではなく、
神様なら・・というのはない・・というふうに・・でも
 
神性に近づくのではなく、
人間はもっとマシな人間になれるはず、
ということになります。
 
例えば、既に破たんした理屈を、
何度も繰り返してくる人には嫌気が差しますが、
神様なら、スパッと言えるのだろうとか、
そこまでは無理でも、
自分のためにも指摘の仕方を考える機会にもなります。
 
尊敬できるような善い人格から神を知り得るかというと、
知り得ないだろうと答えます。神は大きすぎます。
ひょっとしたら神性の手掛かりくらいになるかもしれないが、
それで神性を理解することは出来ないと思います。
 
しかし、悪い人格の実例や仮想例を考えることは、
人間にとって可能であり、また無駄ではないことです。
 
前にも似たようなことを書いたことがあると思いますが、
 
この上ない最善を考えても何も出てこない、
何故なら、そのような完全な善の例は、
時間空間と能力の限られた人にはないし、
さらに、恐らく人には理解できないだろうから。
 
むしろ悪い例から逆の方向を考えることで、
結論とまでは言えないが、
参考にはなる、というようなことなのでしょう。
 
例えば、二律背反を平気で言い張っている人を見て、
これとそれ、矛盾しているではないか・・と
矛盾を指摘することが出来るでしょう。
 
少なくとも
何を言うかバカたれが・・というよりはマシ・・。
 
もちろん神なら
言い返すのにもっと鋭い一喝を用意するでしょうけれど、
それは、人には分からないことです。
 
例えば、神は奇跡を起こして驚かせて支配すると思う人には、
奇跡ばかり待っている愚を指摘して、
信仰者に必ず起こっているはずの
魂の奇跡について述べることが出来るでしょう。
 
もちろん、神は期待された奇跡よりも
遥かに大きな奇跡か成り行きを用意するでしょうけれど、
それは、人には分からないことです。
 
例えば、ありのままで救われると言い張る人には、
ありのまま、と、罪を犯して悔い改めないまま、とは違うと
指摘することが出来るでしょう。
信仰者が弁えるべき節操を述べるのです。
 
もちろん、罪を犯したまま救われる、などと言う者には、
神はさらに厳しい叱責を用意するかもしれないが、
それは、人には分からないことです。
 
これらのことを伝えても
全く気に留める様子のない人には、
神は、落雷のような懲らしめの報いを用意するかもしれないが、
それは、人には分からないことです。
 
しかし、そういう者に不感不応の信仰の病理を感じて
警告を発することは出来るでしょう。
 
神がいつも近づいてくださるのだとか
神が自分を離さないのだとか言う人を警戒してください。
これは人に確定できないところの
神の行為であって、
人が言うべき言葉ではないのです。
人が声高に言って
信仰の証しとするための言葉ではありません。
そういう人は神を恐れていません。
人は待ち望む立場であることを忘れてはいけません。
 
神が近づいてこられるとしても、
今、神が来たなどと、人には言えないはずです。
また、言い換えると、
神は常に近づいておられるのかもしれないのです。
人間にとって、この二つは同じでしかないのです。
人は断じて、神を計れません。
分からないのに「神」で言葉遊びしているだけなのです。
 
神のようになることは出来ない人間ですが、
神に近づくことも出来ない人間ですが、
神のことを分かったと言えない人間ですが、
 
私たちは、信仰によって、
神を信じて生きているうちに、
人を、より良く見るようにはなるでしょう。
 
そういう見方に全く縁のない、
気づかない者もいますが、
それは、その人の、寄って来たる所において、
身も蓋もなくなることかもしれないが、
神に対応する弁えのための目と心の世界を
その人が持っていなかったのかもしれません。
 
信仰めいた格好の心を身につける利益しか
その者は見なかったのかもしれません。
それは怖いけれど、人には分からないことです。
 
そういう者が、なぜ生まれるのか、
それは、人には分からないことです。
 
神がいない時と所に神?を作ってしまうのが人という生き物
ということを知っておれば、
偽物の可能性を指摘することも出来るでしょう。
 
ただし、上の重大な不遜の可能性は、
間違いなく、自分にも向けられています。
 
ゆえに、自分をより良く見ることが、
神性の存在を信じることに向かうことですから、
それも、信仰の与える恵みだと思います。
 
 
神性の存在を、人は何よりも恐れるべきです。
恐れて、恐れて、恐れるならば、
信仰にくっついてきた余計なものを
剥がしてゆくプロセスが必要だと気づくでしょう。
 
前に書いたことがありますが、
人は、今の自分が言っていることは正しいと思っています。
悔いたり反省するときは、
今、反省している自分は正しいと思っています。
このように、同一時間軸上に、
相異なる、正しい自分がいるのです。
あるときの自分の考えが良いからと、のぼせてしまって、
その考えを絶対正義の不変としてしまうことの
底知れない罪深さを弁えるべきでしょう。
 
 
神性には、人間性が包含され、
神は人間と共感する御方です。
それは聖書において証しされています。
 
ゆえにこそ、人間にとって
神は生ける神であります。
神は奇跡を提供するだけの超常ではありません。
  
ですから、聖書から
神の偉大さと人の愚かさだけを、
自分をすっかり除外する前提で読み取って
豪語するだけの者になってはいけません。
 
そうなると、自分はその中から救われ選ばれた者だと、
人を蔑ろにしてしまうでしょう。
「生ける神」は、言葉だけではありません。
神は言葉と奇跡だけで人に作用するわけではありません。
 
物や肉体の奇跡を待っている信仰は、
大方、人の勝手な妄想として、
失望に変わる定めのようですから、
一日も早く、
魂の奇跡を待ち望む信仰に生きてください。
 
神は人間と反応し合うでしょう。
それは神の導きであり、
人には成り行きという形で示され、
 
人はそこで考えることになります。
 
情熱の心頭は短く過ぎて、
大方、人は予期不安の心頭になるからです。
 
心頭が固まってしまうことのないように
思考停止にならないように気をつけてください。
ときに人は自ら思考停止に逃げることもあります。
 
間違っても、信じたら、永遠不変の
余裕綽々の安心に生きてゆけるなどとは思わないように。
 
不安、恐怖、怒り、などの負の心情が、
多くの場合、弱さを通して、
人間が信仰に改めて目覚め
成長する機会であることを忘れないでください。
 
そういう機会は、人は進行形なのだから、
一度きりで終わるのではありません。
だから、有無の境地ではなく、信仰は道です。
信仰の機会を逃さないでください。
 
考える、と、こだわる、とは違う。
こだわる、は、むしろ、思考を停止して留まること、
 
考えすぎれば、思いわずらい、
考えることをやめれば、思い込み、
 
罪についての無思考を、ありのままであることや、
神に任せることと混同する詭弁に注意してください。
 
考えないほうがいい、と判断する経過は、
考えた後で、祈りとともに、訪れる平安の機会です。
 
 
信仰の悪い見本は、
一見、熱心そうに見える他者から、
そして、熱心でない自分からも、
反面教師として、現れることがあります。
 
むしろ悪い手本から
逆に何が学べるかを考えるしかないでしょう。
 
神性は理解しがたいものですが、
人との関わりにおいては、
ときに気づかないうちに学ぶ機会を与えられることもありそうな気がします。
 
 
(2017年01月27日、同日一部修正)