現代のパリサイ人の律法
 
 律法の一点、一画も廃れない
 2017/1/27(金) 午前 11:33
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27921519.html
 
 聖書に身を入れて読む
 2011/6/3(金) 午後 8:30
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/20128188.html
 
 
>そこに身をおき、腰をすえてながめることが大事だ。
>職場に身をおき、家庭に身をおき、学校に身をおく。
>そこで腰をすえて見まわす。すると別のものが見え出す。
 
>聖書もそうだ。ただ、どんどん読めばいいのではない。
>聖書に身をおき、腰をすえて読むのだ。
>それは、すらすら読めない、つっかえる箇所でたちどまり、何だろう、どうしてかと、
>聖書の中に身を入れ腰をすえて、何度も読みかえすのだ。
 
聖書の中に身を入れて読む、ということを心掛けた結果、聖書の中の言葉しか目に入らず、その言葉面を追い求めて、現実の中にいる人間について、全く理解していない者もいます。聖書の中に身を入れた結果、自分を聖書の登場人物のように語って、慢心し、聖書の言葉面と聖書の登場人物であるかのような自分と、聖書の奇跡しか、信仰とは考えなくなった者もいて、まるで、自分の律法を守っているかのような、訂正不能の、在り方を示すに至っているのです。
 
>新約聖書の「ヘブライ人への手紙」11章には
>「アベルはカインよりすぐれたいけにえを神に献げ」とある。
>ではどこがすぐれていたのか。
>兄のカインは農夫。弟のアベルは羊飼い。
>農産物より、子羊が「すぐれていた」というのか。ちがう。
>何をささげたたかではない。どういう態度でささげたかのちがいだ。
 
 (へブル人への手紙、口語訳)
11:3
信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。
11:4
信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。
 (へブル11:3―4、新約聖書)
 
神が、カインを省みなかったのには、何か、カインに、神に民として欠けているところがあったのではないか、という気はしますが、上の引用の「アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ」に当たる文言を、以下の聖句から見つけることは出来ませんでしたから、私にとっては、謎であり、何か聖句とは別のことがあったのだろうか、と思っています。しかし、分かったことにしないと気の済まない、シャローム氏のような人たちは、分かったことにしてしまいます。
 
 (創世記、口語訳)
4:1
人はその妻エバを知った。彼女はみごもり、カインを産んで言った、「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。
4:2
彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
4:3
日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。
4:4
アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。
4:5
しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。
4:6
そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。
4:7
正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
 (創世4:1―7、旧約聖書)
 
このあと、カインはアベルを殺します。
 
 (創世記、口語訳)
4:8
カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。
4:9
主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。
4:10
主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。
 (創世4:8―10、旧約聖書)
 
>「創世記」4章にはこう書かれている。
 
>「主はアベルとその献げ物に目を留められた」
>「カインとその献げ物には目を留められなかった」。
>大事なことは、つい読み過ごす『と』の一字だ。
 
>「アベルの献げ物」ではない。
>「アベル『と』、その献げ物」。「カイン『と』、その献げ物」だ。
>つまり主は、まずカイン、アベルの全存在を見られた。ついで「献げ物」を見られた。
 
確かに神は、カインとアベルの全存在をずっと見ておられたことでしょう。しかしながら、簡潔な書き方をしているこの聖句では、アベルを顧みカインを顧みない理由は書いてないように思えます。
 
>アベルは羊群を草原や水際に導くうち、またしても子羊がふえ、自分は何もしないのに、
>お恵みだなと喜んで、そっと「恥ずかしげに」献げた。
>カインは「主よ、ごらんください。
>わたしの粒々辛苦の汗の結晶を」と「自慢げに」農産物を献げた。
>このちがいだ。
 
>聖書に身を入れて読むと、たった一字からまったく別の姿が見えだすのだ。
 
この記事の「恥ずかしげに」や「自慢げに」という記述は聖句には見られません。文脈にも、明らかではありません。したがって、これは、解釈であり、しかも書いていないことを推測して、アベルを善に、カインを悪に定めています。推測であるにもかかわらず、そう決め付けているならば、この記事の、この行に至るまでに、いちばん、神の前に相応しくないのは、神を恐れず、神の意志と行為を決めつけて、善悪を判断して、豪語している引用元なのです。
 
神に背くとはどういうことでしょう。分からないと言うことではありません。自分はこう思うと正直に言うことでもありません。また、本音ならば神に背くのは苦情を言うことでもないような気がします。神に対して、正直であるなら、本音を言うことは、背くのとは違うと考えるべきでしょう。神は、社交の親睦をはかる相手ではないからです。
 
神の前に、偽ること、自分を高めること、分からないのに分かったふりをすること、しかもそれを決めつけて人にまさっていようとすること、自慢すること、誇ること、などが、神に背くことでしょう。さらに、分からないことを、訂正不能にして人を見下ろすこと、そのために人の意見を聞かず、反論の代わりに侮辱して去らせようとすること、しかも、悔いず改めないで同じことを続けるならば、最悪になります。
 
パリサイ人は、自分の正しさの基準?で、律法を守っているから救われると、悔い改めない無罪信仰を誇ります。彼、シャローム氏は、キリスト者だから、何をしても救われると言う無罪信仰です。訂正不能と無罪信仰が共通します。人間として考えていない点では、どちらも一緒なのです。
 
>「主はカインに言われた。『お前の弟アベルは、どこにいるのか』。
>カインは答えた。『知りません。わたしは弟の番人でしょうか』。」(創世記4・9)
 
カインは、ふてくされているように思えます。しかし、捧げものを神に善しとされなかったのだから、これくらいは、本音としてはあるとも言えます。これだけでは分かりません。
 
性懲りもなく、また、自己正当化の言い逃れをする彼には、嫌悪と怒りを禁じ得ません。彼の信仰?は、彼の今までの発言から、罪も偽善も悔い改めないまま救われる、というものですが、だとしたら、いったいどこが宗教なのでしょう、どこが信仰なのでしょう。キリスト者?は、それこそ、ずっと自動的に救われて、何をしても罪にならないのと同じで、いったいどこに、信仰であるからこその違い、つまり弁えや分別があるのでしょう。何もないのと同じではないか。野蛮な利己主義の世界と何も変わらないではないか。
 
 
>《shalomのコメント》
>漢字の大と犬はよく似た文字ですね。
>点があるかないかで全く異なる文字になり、意味もちがいます。
>文字で書くと点があるかないかで“点で話にならない”ということになります。
 
彼は、ふざけています。エッヘッヘ、という、笑いを付けてくるような、こういうのを、食いたくもない餅を食わせられる気分というのでしょう。先日もありましたが、あれは、ケッケッケ、だったか、ウヘヘ、だったか・・。身内の病気を深刻に案じていたような記事を載せるかと思えば、この軽すぎる表現は、何か意味があるのでしょうか。彼には心配事があるのだから批判を控える、などという必要はないのだろうと受け取るしかないが、ますます文章も乱れてくるということか。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:17
わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。
5:18
よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
5:19
それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。
5:20
わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。
 (マタイ5:17―20、新約聖書)
 
小さい戒めの一つでも破ったら、さらに教えたりするなら、最も小さいものになる、と書いてあります。パリサイ人の古い基準ではなく、キリストの新しい基準で、律法を超克することを教えています。古い考え方に固執して訂正不能になっているところの、現代のパリサイ人、彼、シャローム氏に、そっくりです。もうだいぶ前から、彼のことを、現代のパリサイ人と呼んでいます。そういう信仰者?は、恐らくもっといると思います。言葉面だけを考えて、人間を考えない人です。
 
>シンプルなヘブライ語文字も一点、一画でまるで異なる文字、意味になってしまう。
>そんなヘブライ語文字の特徴を見ると、単に文字ということではなく、
>イエスさまは生ける神の言葉、約束は決して廃れることなく、成就されると言われたのです。
 
彼は、生ける神の言葉を理解していません。それを、理解しているかのごとく、語気だけを強めて誤魔化しています。言語や文字に喩えても、分かったことにはなりません。苦言のコメントを次から次に封殺して、他者が意見を書き込む余地をなくしてゆく、彼、シャローム氏ですが、コメント欄ごと削除するスピードが、また一段と上がったような昨日と今日の彼のブログの様子です。
 
彼にとって不都合なことがコメントに書かれていないか、思い込み病の野良犬は、よだれを垂らしながら嗅ぎまわり、コメント欄閉鎖のボタンを鬼の形相で押しまくり、偽装と偽善を続け、そして、同時に一方で、神の約束は成就されると言葉だけ言い放って、福音伝道のつもりでしょうか。それどころではない気配です。まるで同時に、失語と失禁に明け暮れてゆくかのようです。
 
>私たちはなに一つ確かさのない移ろいゆくこの世のあり様、
>人の言葉の儚さの中で生きています。
>神の御子イエスさまの言葉の深い意味とともに、イエスさまによって成就された
>神の言葉と救いの確かさを信仰の土台として生きることができるのです。
 
前半と後半は、どうつながっているのでしょう。前半は、確かさのない、移ろい、はかなさ、そして、逆接の脈絡もなく後半は、キリスト、深い意味、成就された、神の救いの確かさ、信仰の土台、・・・どうしました、それらを書くのでしょう、書いてください。福音を伝えたいのでしょう。これだけでは、全くの空疎な美辞麗句か呪文に過ぎません。
 
もう一度、聖句引用します。
 
 (創世記、口語訳)
4:7
正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
 (創世4:7、旧約聖書)
 
シャローム氏は、仮に、神に、お前は正しいことをしているのか、お前の敬虔を見せて見よ、と言われたら、堂々と、はい、悔い改めることなく、日夜、訂正不能に語り、反対者の意見を、闇から闇に葬っています、と言うつもりでしょうか。それとも彼は、彼を慕って止まない罪を自分で治めるために、罪が待ち伏せている門口にゆくのでしょうか。
 
 
(2017年01月28日、同日一部修正)