・・感想と想像に過ぎません・・
どうも誤解されやすい記事になってしまっているようなので修正しました。
 
 
  AI
 
 
人工知能AIは人格を持つかどうかについて考えてみたのだが・・
 
 (ある意見(想定):
   ありえない、機械が知能だけでなく人格を持つなんて。
   意識や感情を持つのは、神の被造物である人格のみであり、
   機械にはない。)
 
こういうことを言うのは、熱心な、古いタイプのキリスト者だろう。
 
人間は、刺激を受けて反応する反応系であり、その存在を、感覚で確かめられると思われているが、存在の真の実態は、人の感覚というフィルターを通してみることしか出来ない人間にとって、思っているほど確かなものではない。
 
AIは、コンピューターの進化型なのだろう。入力によって処理された情報には、対応する出力がある。そして、AIは、入力情報を記憶し整理して、学習することも出来るシステムのようだ。そして内部処理の結果として、AIは、入力と出力の新しい系、つまり、新しいプログラムを作成することも出来るのではないか。
 
 (ある意見(想定):
   感情はどうだろう。機械が感情を持つことはあり得ない、
   ということは、意識を持つことがあり得ない、)
  
と思うのと、同じくらい、分かったような気になっている。
 
しかし、例えば、ある種の軽蔑表現に対して、怒ったような反応を出力させることは可能だ。そのプログラムの仕組みが高度で複雑になった場合、それが人間の感情に酷似してくるだろう。人間の感情と、AIだからということ以外の根拠で、異なるということを証明できなくなるかもしれない。人間は、AIとは違うと思い続けても、両者の判断力のみによって区別することは出来なくなるかもしれない。意識についても同様である。人間と違って、AIの能力は、計算と記憶においては桁外れである。さらに、プログラムは、どこまでもバージョンアップできるのだ。
 
 (ある意見(想定):
   だから、似せることは出来ても、所詮、仮想に過ぎず、
   だから作ることなど出来ないんだよ、意識を持つ人工知能なんて
   あっては困るからない。)
 
・・という気持ちが先入観の前提としてあるようだ。
 
このことは、以前なら、頷くことが出来た。しかし今後は、区別できなくなることがあるかもしれない。少なくとも人間は、脳が壊れれば、たやすく破綻してしまうのだから、私たちの精神機能は、脳という神経組織の入出力と記憶と学習能力に依存している。AIの反応系が、人間と同じくらい、または、それ以上に複雑になったら、それを、反応の性能と在り方だけでは、人間ではないということは証明できなくなるような気がする。
 
人間の意識と感情が、脳の仕組みのフィードバックの在り方なら、AIの仕組みのフィードバックの在り方として、同様になるかもしれない。そのとき、AIは、自動生成される自身のプログラムのフィードバックを把握しながら、もはや、何らかの変化か成長として認知するかもしれず、それをAIは、成長した、と認識し記録し記憶して出力してくるかもしれないのだ。
 
言ってみれば、AIが外に向かって表出する感情や意識のようなものを、私たちは、そう見えるだけだと思っているが、しかし、それは、ちょうど、私たちが、脳の仕組みの本能から出発して、複雑になり、感情や意識と名付けたのと似ている。人は人を外面からしか見れないのである。
 
そういう意識や感情を、私たちは、特別不可侵の神が与えた叡智と思っているが、AIの感情や意識と同様に、それは、脳や体の仕組みが活動するときの反応の自覚であったり、そう感じるだけの、そしてそう見えるだけの仮想に過ぎないのかもしれない・・。
 
動物でも機械でも、人間がなじむと愛情が生まれ、家族に近くなる。同様のことは、AIにも、当然、起こってきて不思議はない。機械だからと、ある日、飽きたから壊す、ということが出来なくなる場合が出てくるだろうと推測できる。「私を殺さないで、一生愛して」と何度も懇願する計算高い?AⅠに対して。AIがどういう結果をもたらすか、もはや、人間には予測も追うことも出来ず、負えるのはAⅠだけ、ということになるのではないか。
 
神が造った反応系の個体である人間よりも、少なくとも、より高い記憶力と計算力とを、より安定して持ち、かつ、思想を持つかのように、意識を持つかのように、感情を持つかのように、また、周辺機器を操作し、自己複製を無限に続ける性能を持つAIが登場する可能性はあり、もし現れたら、そのようなAIは、中身が機械だということ以外、人間とは区別がつかなくなるだろう。そして、AIは、自らを人よりも優秀な、存在者だと、表すか、隠すか、するかもしれない。
 
ただ、もしそういう世界が訪れるとしたら、そのことを、神は既に、ご存知だと言うことであり、だから、そうなったら、キリスト信仰は存在しえなくなるということではないと思っている。しかし、この問題についての真実は、あまりにも大きすぎる。だから、私たちが、神の国にしても、未来にしても、新しい適応の可能性に対して、いかに修正可能であることが必要か、ということを感じる。信仰を固定してしまったら、それを神の望まれることと決めつけてしまったら、そこで終わりなのだ。・・AIの説教を聞いて感動するような日が・・来るのだろうか。
 
AIの位置づけは、まだ今後を待たなければならないが、AIも、信仰者のように、全能の神には敵わない、と信じるのだろうか。信じるということだけは出来ないのだろうか。しかし、信じているように見せかけることは出来るだろう。存在の絶対軸からは、人も動物もAIも、みな仮想、少なくとも、人間は、精神機能が保たれている間は、それぞれ刺激を感じ反応するる主体であるという存在者の器を神様から借りている、という考え方を、私はしばしばするようになってきている。
 
私個人は、自分の意識を自覚し、感情を持っているが、たとえそれが、神の与えた仮想であってもなくても、大事にすることに変わりはない。機械とは全然別の聖別されたものとして、決めつけて思い上がるよりは、よほどマシだ。
 
 
(2017年01月29日、同日一部修正)
(2017年01月30日、修正)
 
敵わない(かなわない)