笑う地獄
 
 神による命の道
 2017/1/29(日) 午後 3:23
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27924714.html
 
 釘宮父娘 宣教3題
 2016/7/30(土) 午前 7:01
  
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27609427.html
 
 讃美と感謝をささげる
 2012/2/27(月) 午前 11:31
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/22313057.html
 
 感謝の領収書
 2011/3/6(日) 午前 8:44
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/19227151.html
 
 いのちの道
 2010/4/11(日) 午前 8:36
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/13913962.html
 
 
勘違いに始まった信仰?が、信念というほどのものになり、訂正不能になって、ただ体裁を整えることだけに終始して、自分自身の罪に全く注意を向けなくなり、熱心に、幸いを求めているつもりで災いを振りまいているのが、彼、シャロームです。
 
間違った信仰は、大方、自分信仰になります。大方、訂正不能になります。大方、人の言うことを聞かなくなります。大方、悪いことはみな人のせいにします。大方、人間性を壊してゆきます。大方、これはおかしいだろうとか、どういう意味だろうとか、より深い意味を考え求めることがなくなります。人間としての信仰の良心からの直感が働かなくなります。
 
そのようにして、考えることをやめ、感じることをやめ、聖書に書いてあるということを、人道から脱落してゆく自分の言い訳にして、中身のない言葉面だけで神に赦され救われることを決めつけて、感謝も讃美も、すればするほど、裏の邪悪な心を目立たせるだけの催吐剤にしかならないのです。
 
理由もなく、いつも静かな笑みを浮かべ、ではなく、へらへら笑っていて、丁寧で穏やかな人物に自らを当てはめ、何についてでもなく、感謝、感謝、そして、これまた、理由もなく、讃美、讃美、に明け暮れている彼、シャローム氏は、一方で、彼の罪と偽善については、バレないように証拠を次から次へと隠滅しています。そういう彼を救う神?を信じられますか。そういう人を信頼できるでしょうか。
 
これこそ、今までも、彼の特徴であるところの、悪をなしながら善を語り、神に背きながら神を讃える、という二律背反の矛盾さえも分からない鈍麻と無知と無恥と厚顔だけが残った、言い放つだけの捨て台詞のように、わめく呪いとなって災いを振りまく、彼、シャローム氏の、非人間信仰のもたらす善悪の木の実なのです。
 
迫害が迫って来ていて今日明日の命の保証もないという状況で強い言葉で激励し結束を計らなければならなかったのだろう、という歴史の状況判断による共感もなく、せっせと思考停止を勧めるだけの、彼、シャローム氏らしい?記事です。
 
この聖句については、現代においては、唱えるだけでは神に世辞を言っているようなもので、救いにつながるとは限らないことを前にも書いたのですが、言葉面に魔法を期待し確信する、彼、シャローム氏は、他者の記事など読まないので、感謝と讃美しておればよいと、悪と偽善で空回りする人生から、いったいどんな恐ろしい結末へ、スピンオフしてゆくのでしょう。
 
何を感謝しているのか、何を讃美しているのか、時々に考えるということなどゴミのように捨て去って、背きの道がいよいよ佳境?に入ってきたからか、思い込み信仰が落ちてゆく地獄の典型が、ここに既に表れています。自分だけで完成した確信?の、見かけの言葉面だけで、阿鼻叫喚を現出している惨劇、神様だけは自分を分かっている!、と確信して改めない、という、悪霊の悪例としての、どの世界でも成り立たない自己中心が根っこにあることを見逃してはいけません。・・誰も好意的に関わってはいけないと思います。
 
>私たちの周りには、感謝すべきことがあふれている、というだと思いませんか。
>私たちは「当たり前」という思いがいつも強くて、
>感謝することを見失っているようですね。
>あなたを愛し、あなたの最善を導いてくださる神様へ、
>先ず感謝をささげ、あなたの口に感謝を満たしていきませんか。
>感謝することを探すことも楽しいものですよ。
 
>感謝することを探すことも楽しいものだと思いますが、
>ひょっとしたら喜び、感謝することは探し回ることも必要ないのでしょうね。
>いつも喜んでいなさい
>・・すべての事について、感謝しなさいと書かれているのですから。
 
彼は、感謝するべき理由を何一つ書いていません。彼の言い分は、聖書に書いてあるだろ、文句を言うな、というだけなのです。だから、二律背反の矛盾も平気なのです。このように、彼は、一見冷静な口調で言ってきます。どうして、この世に生きている人間が、理由もないのに、いつも絶えず、神に対して感謝と讃美が出来るでしょう。はっきり申し上げますが、このような常時讃美というのは、現代では、感情を状況によらず一方向に限定するなど、人間ならば出来ないことです。生きた人間ではなくなることを求めて死の証しを立てている彼に惑わされないでください。私たち人間は、まだ動く感情と思慮をもって、生きているのです。
 
彼は、彼の「当たり前」をすり込もうとしています。感謝するべきことが溢れているのならば、なぜ、人の意見を封殺し、しかも、それを隠さなければならなくなっているのでしょう。少し考えれば、上のような彼の「思いませんか」「ですね」で特徴づけられる丁寧語が欺瞞であることは分かるでしょう。感謝と讃美で、自分の罪と偽善を誤魔化しているだけなのです。
 
>この二つの言葉は「絶えず祈りなさい」という言葉でつながっています。
>それはきっと私たちの良し悪しの判断を超えたことなので、
>自分で判断しないで神に祈りなさい、ということかもしれませんね。
 
そう思いたいのが、彼、シャローム氏なのです。「自分で判断しないで」と彼が言うのは、目の前に積まれた罪と偽善の、今にも崩れそうな山を、見ないで済ませたいからでしょう。人を傷つけてもなんとも思わず、どんなに非道な言動も気にせず、バレなければ、相変わらず、聖書の先生として、笑顔を振りまいて世に受け入れられようとしている、とても卑しい処世です。気味の悪い文章です。考えるな、感じるなと、うっすら脅迫していることに気づきませんか。こういう気色の悪い人が、30年余り教会で、牧師として説教をしていたのです。身の毛が弥立ちます。
 
>なによりも祈りをもって、神を信頼し、ゆだねてみなさい。
>そうすれば神がなぜそうするように望んでおられるかきっとわかりますよ。
>わからなくしてしまうのは自分の良し悪しの判断を手放さず、
>善悪の木の実を食べて生きているからですよと言われているようです。
 
嘘ですね・・。神を信頼しているのなら、なぜ、他者のコメントを削除して、不祥事など、何もなかったふりをするのでしょう。批判するのは善悪の木の実を食べているからだと脅迫し、思考停止と感情鈍麻を熱心に勧めています。食えない木の実を。
 
>イエスは十字架の辱め、苦しみ、死をも
>神の御心として受け入れ歩まれたのですから。
>イエスはそれが神による最善の道であり、
>命の道であると信じておられたのです。
 
キリストは神ではなかったのですか。キリストが神の御心を受け入れる必要があったのでしょうか。キリストが神の道が最善だと、キリスト者のように信じる必要があったのでしょうか。キリストまで、自分の独善解釈の掌に置くつもりか。
 
>私たちにとって命の道は自分の良し悪しの判断を手放す
>という十字架の道であることを示し、
>その道は死で終わらず、
>神の命に生かされる道に続いていることを示されたのです。
  
彼は、こういうことを繰り返すだけになっています。あたかも、彼が、神の側にいるかのような、上から教える態度で、彼が目覚めることを、彼自身が、絶望に変えています。何故なら、上のほうに、そして今までの私の記事に、書いたように、彼が、白々しい讃美をして、人に教えようとするとき、その時その場で、彼のしてきたことと言ってきたことが、彼を退けるからです。これは、これからも続くのでしょう。
 
 (ヨハネの第一の手紙、口語訳)
4:7
愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。
4:8
愛さない者は、神を知らない。神は愛である。
4:9
神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。
4:10
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。 4:11
愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。
4:12
神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。
 (1ヨハネ4:7―12、新約聖書)
 
人間同士の愛が、神の愛と無縁でないことを書いてあります。そのことは人間同士の怒りが、神の怒りと無縁でないことをも示しているのかもしれません。人間ならば・・云々、で分かることがあります。それが人間に与えられた直感力です。これがいつも正しいわけではないが、この必要性を求めない人は、悪意と義憤の区別も、善と偽善の区別も、つかなくなって、恐らく、彼、シャローム氏のようになるのかもしれません。
 
人間的共感など必要ないと言ってきたから、シャローム氏には、自分を許し救う神?しか眼中になく、戒める神も懲らしめる神も眼中にありません。相手を決めつけて被愛妄想のストーカーになって、さらに神が愛のストーカーであるかのように、常時平安無罪信仰という、とんでもない地獄の道を宣伝しています。
 
※ 
 
今日は、シャローム氏の記事が、あまりの偽善と、あまりの傲慢で出来ていて、怒りの度合いが、今までより上がって、私のほうが爆発しているところがあると自覚します。ますます、人間としての感性も知性も、彼は、彼の神?のために焼き尽くしてきたのでしょう。彼の言葉面だけの丁寧語と、彼の言行不一致は、まことに有害だと思います。どうか彼の記事を読んでも、彼に近づかないでください。彼に対しては、何度批判しても、読まない人には通じないのは分かっていますが、しばらくは、これからも続くだろう・・と思っています。失礼。
 
 
(2017年01月30日)
(2017年01月31日、一部修正)
 
 
阿鼻叫喚(あびきょうかん)
欺瞞(ぎまん)
身の毛が弥立つ(みのけがよだつ)
掌(たなごころ)=てのひら