引用細工
 
 私は福音を恥とは思いません
 2017/1/31(火) 午前 10:12
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27927855.html
 
 引用元:ローマ1:16~17ー私は福音を恥とは思わない!
 2010/1/7(木) 午後 4:45
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jc_brother/23074254.html
 
 私の批判記事:「無恥と無知」
 2017/1/14(土) 午前 0:14
 
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/18956019.html
 
 
転載記事かと思ったら、あちこち加筆しています。今回、彼は、引用したことさえ隠したいようです。陰険なやり方だと思います。そんなに自分の立場にすがりたいのか・・ってことになります。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
1:16
わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。
1:17神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。
 (ローマ1:16―17、新約聖書)
 
>私は福音を恥とは思いません。
>福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、
>救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、
>その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。
>「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。
 
ここなどは、引用元の記事そのままです。ここから、引用であることは明らかなのですが、彼、シャローム氏は、こそこそと、読者に内緒で、他者の手は借りず自分が書いたように、また偽装するのでしょうか。いつも何か卑怯な真似をして、それを書かず、隠そうとする、癖のようです。
 
同じタイトルの別の彼の記事があって、それも批判したのですが、少し加筆して、また載せています。上に書いたように、
 
 無恥と無知
 
 私の批判記事:「無恥と無知」
 2017/1/14(土) 午前 0:14
 
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/18956019.html
 
最近ではないか。嫌がらせとしか思えないということなんですが・・。もちろん、彼から、前に書いた記事を加筆して載せた、という連絡はありません。しかし党派心だけはあるようで、自分は反論が出来る、と強調したいのでしょうか。ずっと前の、彼の反論は、大方、侮辱か的外れで、一度も成り立ったことがありません。前に書いた私の記事の冒頭だけ引用しておきます。
 

誰か、福音は恥だなどと言ったのでしょうか。不気味です。私は、批判対象が言っていることは福音ではないと言っているのです。それとも、強意のつもりでしょうか。でも、読んでみると、実際は、前と同じことを繰り返し言って、しかも、どんどん乱れてゆくだけのようです。

 
同じことを書くのも疲れるので、前の私の批判記事の一部引用だけに留めます。読者に明示せず、こそこそと隠れて引用、ということ自体が、既に彼の陰険さと卑怯さを表しています。まさに、無恥と無知のようです。
 
さて、サブタイトルみたいに書かれているのが、
  
>為すべきことはイエスを信じること
 
キリストを信じる者には決して出来ないことを続けているのが、彼、シャローム氏です。彼が、信仰の美辞麗句を並べるたびに、このことが、彼を定めてゆくでしょう。神の裁きに向かって。
 
>福音は「信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力」であるから
>恥とは思わない、とパウロは言う。
>私たちキリスト者はこの福音によって救いを得たのだ。
>またこの福音を宣べ伝えるために召されたのである。
>その私たちが福音を恥じることなど考えられないことだ。
 
すべての人にとって救いを得させる神の力です。それを拒んで、この世の誉れにしがみついているのが、彼、シャローム氏だと、前から私は言っています。この世と、神と、同時に仕えることは出来ないのです。
 
どこからか分かりませんが、この筆致は、引用元の筆致に似ています。この福音を宣べ伝えるために召されたのは、キリスト者だけです。この世に仕えている者は対象外でしょう。いつになったら自分に起こっている大きな問題に気づくのでしょうか。ゆえに、彼、シャローム氏の記事は、福音を宣べ伝えておらず、また内容的にも福音とは程遠いカルト的自分信仰に過ぎず、つまり、恥じるも何もないのです。勝手にやって、罪と偽善を積み重ねているだけです。
 
>1コリント1:18十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、
>救いを受ける私たちには、神の力です。
 
>神の力とある。この力の意味は岡本太郎が「芸術は爆発だ!」と言ったが、
>ダイナマイトの語源となったように、まさに爆発を言い表すことばである。
>私たちの古き人が新しき人となる力なのだ。
 
岡本太郎を持ち出して爆発だといっていますが、信仰とは関係ない的外れな表現です。この不自然さに、彼、シャローム氏は気づかない。神の力は、ダイナマイトに喩えるくらいでは納まらないのですよ、シャロームさん、あなたは古いだけでなく真っ向から背いて、それを隠しているのです。
 
>2コリント5:17だれでもキリストのうちにあるなら、
>その人は新しく造られた者です。
>古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
 
キリストのうちにないと思うから、批判しています。彼、シャローム氏は、新しく造られることを拒否している者です。古いものはとどまって、見よ、いっそう悪くなった。
 
>福音が救いを得させる神の力というのは、
>神の創造のわざはことばによってなされたからである。
>またパウロが言ったように福音はイエス・キリストについてだからである。
 
神の創造のわざは、言葉によって伝えられたのであって、言葉によってなされたのではありません。こういう言い方は、比喩なのかどうかを明らかにしないといけません。見えない神の器と力によってなされたのです。だから、言葉だから、人にも分かる、ということはないのです。
 
ここまで読んでも、シャローム氏の筆致とは思えない。やはり引用元の筆致のように思えてならない。いくらシャローム氏自分が書いても矛盾だらけだといっても、面倒なことをするものだ。嫌がらせもいい加減にしてほしい。書けないなら書かないでください。陰湿で姑息な謀のような悪意しか伝わってこない。
 
>この福音には神の義、正しさが示されている。
>神の義は罪を赦すことがない。必ず処罰される。
>けれども、神はその罪の罰をイエスに転嫁し、なだめの供え物とされ、
>すでにイエスによって満足されたのだ。
 
キリストによれば、どんな罪も、偽善も許される、ということではない。こういう、かっこよく気持ちよい断定をするから、シャローム氏のような者に悪用されるのだ。この世の体裁を整えるのに汲々とする偽善が、また、神にも人にも隠し事を持って嘘をついて、この記事を載せたのもそうだが、悔いることのなく、今も続けている偽善が、赦されるという聖句はないと思うが。
 
>その神の備えを受け取る人は神の御前にあって義であると判決されるのだ。
>罪ある者が無罪と認められ、新しい人とされるのだ。
>キリスト者はそうされ新しい身分を得た者とされたのだ。感謝のことである。
 
要するに、彼、シャローム氏は、ここが目当てなのです。悔い改めずに赦されていると、性懲りもなく、無罪と認められ新しい身分を得たと、という言葉面が欲しかっただけなのです。ずっと私が言っているところの、彼の無罪信仰が表れています。それはキリスト信仰に反する邪悪なカルトでしかありません。
 
>ガラテヤ2:20私はキリストとともに十字架につけられました。
>もはや私が生きてるのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
>いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった
>神の御子を信じる信仰によっているのです。
 
こういう聖句の曲解による思い込みが無罪信仰を喜ばせるのでしょう。これは使徒パウロが言っていることです。彼、シャローム氏は、キリストではなく、パウロでもなく、自分のうちの飼い犬か悪魔をキリストだと訂正不能に信じているのです。彼が肉にあってい生きているのは、彼が肉が大好きで、肉から離れられず、肉に仕えている証となるでしょう。これからも、神の裁きに向かって。
 
>私たちが神の祝福を受け取るために為すべきことはこの信仰なのだ。
>自分の思いによって生きるのではなく、神に向かうことなのである。
 
彼は、信仰の祝福ではなく、この世からの先生としての祝福を受け取るために、神も人も偽り、反対意見を削除し、自分をかっこよく偽装し、バレないようにバレないように、日夜、抹殺と隠蔽工作を続けています。自分の思いに囚われて生き、神に向かうことも出来なくなりました。何故なら、今も、この記事のような言い逃れを続けているからです。
 
彼は、引用2行もそうだが、自分が、公に対して、醜く白々しい自己正当化の、言い逃れの記事を載せるたびごとに、神?を讃える言葉によって、信仰?を飾る言葉によって、既に裁かれていることに気づいているだろうか。
 
誰が書いたかも隠すという小細工なら、意味不明だが、彼が堕ちてゆくところへの、小細工という自己讃美歌、空笑いの土産だろうか。彼の行く獣道は、とても広き門に向かって、ますます何でもござれと広くなり、魂が砕かれるよりも前に、彼の形態と様態は、原形をとどめないほどに、聖書のパリサイ人も偽善者も直視できないほどに、引き裂かれてゆくようだ。
 
やはり、どうも、彼の書いた文章とは思えないのですが・・。
 
(マタイ10:16、口語訳、新約聖書)「わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。」・・とありますが、
 
(創世記3:1、口語訳、旧約聖書)「さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。」・・ともあります。
 
彼のことを何と言いましょう。小細工は不正直な彼の得意技のようですが、狡猾な蛇が、おかしな信条のために、賢くはなれず、自分を見つめることが出来ず、思い込みで、批判者が狼のように見えるのでしょうか。小細工をして、ごまかそうとして、自分が仕掛けた罠に嵌って、熱心に、ハトを、蛇に変えようとして、目的も、根拠も、整わなくなっているのでしょうか。今回の彼の記事は、なんとも不細工です。
 
神の前に、無罪を主張できる人間はいません。嘘をつき、まことを隠し、悔いあらめもしないなら、そこで、アウトです。いかに感謝と讃美を繰り返しても無駄です。
 
 
(2017年02月01日)
 
謀(はかりごと)
讃える(たたえる、讃える)
獣道(けものみち)
嵌る(はまる)
面妖(めんよう)≒奇妙