永遠
 
 永遠のいのちとは
 2017/2/1(水) 午前 11:11
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27929410.html
 
 ながく生きるだけでは
 2009/5/8(金) 午後 1:20
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/984250.html
 
 
永遠の命とは、キリストがそう名付けた命であって、人間の言葉で説明することは困難です。ただ、人間が生きているあいだに、また、聖書を読んだり、祈ったりするときに、人間は、永遠を感じることがあるだろうということをもって、日常の時間の長さではない時というものを認めて信じているということに他ならず、そこに、命の力と救いを認めて、祈り求める人をキリスト者と言います。
 
>便利ではあるけれど始末に困るものに、プラスチックがあります。
>さびない、腐らない、虫も食わない、燃えにくい、
>しかし燃やすとダイオキシンが…ということになって、
>役に立っているうちはよいが、無用になったとたんに処分に
>ハタと行き詰まるというわけです。
 
引用が喩えを書いているようだから、喩えで表すと、昔から存在するものではなく人が合成したものというのは、便利に使って喜んでいるうちは良いが、いつまでも大丈夫と、古びているのに、手入れを怠っていると、いざと言うときに、期待に応えてくれず、もはや、人間の単純な道徳としても、使い物にならなくなって、行き詰まるということもあるわけです。
 
>高貴で有益な存在であってこそ不朽も望ましいのですが、
>醜悪、無益、有害なものが不朽ではたまりません。
 
高貴で有益な存在が不朽で望ましいと信じても、それが身勝手な修正不能によるものであると、醜悪、無益、有害となっていることを、至高の善として信じ込んでしまうことがあります。本人は分からず、いつまでも減らず口を叩き続けることになります。人の世界で永遠や絶対を分かったことにしてしまう宗教の怖さです。
 
>人々からあの人にはいつまでも生きていてほしいと
>思われるような生き方をする責任もあるだろうと思うのです。
>この責任には気がつかないで、
>権利ばかりを振り回して長く生きたいと願うのでは、
>不老長寿もとんだ悲劇になりかねません。
 
まず、人間は、いつまでも同じことを言ってほしいと思われることは殆どありません。無責任な人は、権利ばかりを主張して、自分は反対意見を削除して、意見を殺しまくっているのに、このままで長く生きたいと願うのでは、不感不応も訂正不能も、とんだ悲劇になるのです。
 
>人間はもっと、質的に豊かな世界で生きたいと願っているのではないでしょうか。
 
彼、シャローム氏は、今のまま、何もしないで、悔い改めも反省もしないで生きるのが信仰だと思っているようで、そのために、質的に貧困の無罪信仰の世界に生きて語り続けることは、悪質な誘惑になっているとしか言いようがありません。何故なら、彼の信仰?の生き方は、信仰を求める人にとって極めて有害で、策略的な故意の悪意によって、都合の悪いことだけ神に任せるのだと言って責任を放棄し、あとは、自分のやりたい放題に強制力を使ってきているからです。彼、シャローム氏の唱える豊かさの質は偽装です。
 
>聖書で言う「永遠のいのち」というのは、単に人生の量的な、
>時間的な延長のことではありません。
>ねたんだり、恨んだり、また憎まれたり、嫌われたり、
>欲に引きずられたり、誘惑に負けたりの
>情けない人生をただ引き延ばすだけでしたら、
>永遠のいのちも魅力がないではありませんか。
 
キリストの言う永遠の命は、人には理解できません。それを根拠もなく分かっていると言い張って、その前提で話したがるのが彼、シャローム氏です。彼の心には、妬み、恨み、憎しみ、嫌悪、欲への執着、誘惑の丁寧語と聖書語があり、情けない人生をただ引き延ばすだけですから、ここに至って、明らかとなっている事実によって、彼の唱える永遠の命は、魅力どころか、インチキそのものであると言う他ありません。
 
どうしても彼がずっと行ってきた偽善の事実と矛盾するのです。そういう人が、信仰について語るというのは、あり得ないのです。根っからのインチキとしか思えないのです。恐ろしいことに、騙されている人は多いと思います。彼は、その数をもたらした彼の丁寧語と聖書語に胡坐をかいているのです。
 
そのインチキ精神は、丁寧語と聖書語で近況を報告して味方を増やしたいようです。このことを正常な人は考えるので、批判されて一言も返せなくなっているという事態にあって、だらだら書くことは控えるものなのですが、インチキは、弁えも節操も内省も持ち合わせていないので、自分に有利に働くことは、遠慮も恥じらいも慎みもなく利用して、同情の爆買いを求めて苦労話の叩き売りに平気で走るのでしょう。彼から直接に偽善の事実を嫌と言うほど味わった者は、そういう反応しか出来なくなります、彼の言葉が、あまりにも白々しくて・・。
 
>私たちの罪を赦して、罪から救い、
>滅びるほかない無益有害な生き方から、
>新しい生き方へと生まれ変わらせてくださる、
>これこそ聖書の言う永遠のいのちの内容で
 
無罪信仰は自分の罪と偽善を悔い改めることがないので、滅びる他ない有害無益な生き方へと変わり果ててしまって、それでも、それが永遠の命だと言い張るのです。それを考えもせず、次から次へと、まるでお世辞のような美辞麗句を並べて讃美するので、彼にとって、永遠の命とは、永遠に、自分に反対する意見を一切聞かず、自分の聖書解釈の言葉面だけを繰り返し言い放つことで存続させることになって、永遠に反対意見を葬り去ることになっています。
 
>遠藤周作の著作“沈黙”を映画化したものです。
>私は原作を読んでいませんが、バック音楽のない映像の沈黙によって
>神の沈黙と人間の信仰、人の営み、生き様が観る人の心を
>深い、重い沈黙に引き込んでしまう3時間でした。
 
「沈黙」は、神の沈黙であり、彼、シャローム氏は、そういうのが全く理解できないので、重い沈黙に引き込んでしまう、などと言っています。これは、感想として嫌なものを見た、と言うのと、あまり変わりがないようです。いずれ予想も出来ないような大いなる沈黙に出会うことになるでしょう。
 
「沈黙」は、私は、映画は見ておらず、小説を読んだことがありますが、キリスト者必読の書だと思っています。宣教師は農民を助けるために、踏み絵を踏みますが、宣教師が人間であるなら、踏む以外の選択はないと思います。
 
彼、シャローム氏は、人間の共感を必要としないと言ってた人ですから、人間の、共感、共有、情感、感性、知性、命について、彼は、殆ど理解していないことが、一連の彼の記事で明らかになりました。つまり、宣教師が、いつまでも踏絵を踏まず、農民がいくら殺されても、彼なら、恐らく、宣教師は信仰を貫いたから立派だ、大事なのは人間ではなく信仰?だから、とでも言いそうです。
 
 
(2017年02月02日)
 
胡坐(あぐら)