境地自慢の筆致
 
 あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ている!
 2017/2/2(木) 午前 11:50
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27931028.html
 
 転載元:あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ている!
 2012/5/14(月) 午後 4:27
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jc_brother/29623784.html
 
 
転載記事ですが・・、何なのでしょう。この人も、また境地自慢でしょうか。こういう善いことがあるのだなどと、人生どれだけ生きたか知らないが、大した人生経験もないくせに,、
完全という幸福を保証するなんて・・。それより信仰によって生きて、福音も幸福も不幸も、恵みも試練も、感動も疑問も、癒しも傷も、表すことが大事なのです。空約束は、うんざりなのです。
 
 (ピリピ人への手紙、口語訳)
4:11
わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。
4:12
わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。
 (ピリピ4:11―12、新約聖書)
 
この聖句は、キリスト者がこの世において味わう盃もあるけれど、耐え忍ぶ信仰が与えられるという意味でしょうか。
 

財産、地位、健康、名声を得てもそれが逆に重荷となって、それらを失うことの恐れをもって生きたいる。私たち人間は不足をあげればきりがなく満ち足りることがない者。

 
この世の誘惑を退けることが信仰といっているようですから、それよりも、もっと大事なことを語りそこなっているのです。この世のものを全部捨てるのが信仰、というのではありません。徳の高さ比べをするのではありません。これでは、他者よりも清貧であることを強いることになります。
 

パウロはどんな境遇にあっても満足を得ることができる秘訣を知っていると言うのである。私たちはまさにここにある生き方を求めている。その源は私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるからだと。

 
どんな境遇にあっても満足を得ることだ出来る、という秘訣が欲しいのでしょうか。これでは、不法に対して闘う姿勢など要らない、自分は満足なんだ、と言っているわけですから、このような説教が、自己満足の境地信仰を助長させるとは思わないのでしょうか。そして、それはそのまま、同じ目に遭った隣人にとって迷惑なのです。
 

私たちに安息を与えてくださる、私たちのたましいを生き返らせるお方である。私たちは神のシナリオが理解できないためになかなか安息できないのだが、私たちが神の備えられた道に信頼し歩む時、安らぎを受けることができるのだ。

 
その続きですから、どんなときにも、真実を追求するのではなく、権力に対して闘うこともなく、隣人の迷惑などお構いなしに、魂を生き返らせる御方によって安息できる、という、自分だけの世界で、神を引き合いに出して、満足する方法と世界の確信的思い込みを説いています。他者など、どうでもいい、という書き方になっていることなど考えないのでしょうか。
 

これはこの世の生き方を良しとしている人々には残念ながら体験できないことなのだ。この世の人々はこの境遇でとどまり、人間的な思い、方法にとどまり、行き詰まってしまうことに。

 
そして、何を思い上がったのか、キリスト者だけが到達する境地なのだと、他者を低く見て、自慢しているのです。自分は上で、他の人は下だからと、優越意識を表明しているのです。おぞましいというか、こういう人が隣にいたら、どれだけ迷惑することでしょう。典型的なルサンチマン信仰になっています。
 

けれども神の子どもは貧しさの中であれ豊かさの中であれ、その境遇に捕らわれることなく、ただ神のふところに憩う時、そこに働く神の励まし、慰めを得る。これはいまの私たちが日々体験していることだ。私たちが満足できるのは神との関係が確かになっているからだ。神がいつもともいおられる。これが神の子どもの特権。

 
「私たちが日々体験していることだ。私たちが満足できるのは神との関係が確かになっているからだ。」・・ここに、神を畏れぬ態度が表れていることに気づかないようです。神が自分を義としている、神は自分と確かな関係を持っている、という、神の意志と行為を自分で決め付けている。信仰自慢から、慢心へ至る道。
 
「神がいつもともいおられる。これが神の子どもの特権」・・神は総てを知っておられる、ということは、神がいつも自分の味方、という、特権を知識としては保証しない。神の子どもの特権は、人が気づかないところにあると考えるべきでしょう。もし特権があるなら、試練など与えられなかったであろう。実際には、神が人を試すということや、また、パリサイ人やユダのように反逆する者の話も、少なからず聖書に記されている。
 
 (コリント人への第二の手紙、口語訳)
4:8
わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。 4:9
迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。
4:10
いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
4:11
わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。
 (2コリント4:8―11、新約聖書)
 

倒されても滅びない、ノックダウンしてもそのままノックアウトすることがない。どのような境遇にあっても、私たちは物によって生きるのではなく、キリストという宝を私たちの土の器の中に入れている。失望もせず、勇気を失わずこのキリストのいのちに生きる、この約束に生きるのだ。

 
怒気をもってキリストの命に生きているつもりの、彼、シャローム氏のような者もいる。彼は、不都合の削除による偽造といった、この世の汚い手段ばかり使っている。信仰には、この世を唯一の支えとして頼みとしてはいけない、神の前に正直でなければいけない、信仰は懲らしめる神への信仰を含む、人は人間以上ではない、といった節操がある。その上でのキリストの同伴である。神は無節操の神ではない。
 

私たちの毎日は多くの労苦の中にある。けれども私たちはイエスの復活のいのちに生きている。それで私たちはどのような境遇であってもイエスを見上げるならば、神の祝福の基にいることを見出すことができる。

 
神の祝福は、それを正直に求める人に対して、ということになる。シャローム氏は、この世の幸いを、自らの意地の悪い手で守ろうとしているので、どんどん、わけの分からないことを言い続けている。イエスを見上げる、ということに嘘があるからだ。彼の丁寧語と聖書語に騙されてはいけない。
 

私たちは羊飼いイエスのもとで満ち足りることを喜ぶ。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、神に信頼し平安の場へ行くことができる。それはイエスが私とともにおられることによって。どのような境遇に置かれたとしても、神は常に神の最善を成し遂げられる。そのことに喜びを置き、歩み続けて行くことなのだ。

 
全体に、彼、シャローム氏と同様に、この世にいじめられて、今にも死にそうな境遇で、飼い主イエスのもとで、喜び歩む、という、悲劇のヒーローという書き方になっている。この世は敵だと書いている印象もある。そして、書いている内容に人間としての情感と思慮つまり共感と弁えに欠けている。人間としての立場ではなく、それよりは上の預言的立場から書いているからだ。
 
 
シャローム氏に代表されますが、神が与える使命と試練と恵みに生きる覚悟とその根拠を語るのではなく、神が自分の思っている枠の中で神が恵みを与えることを確信している様子を表して、自分は分かっているから大丈夫という境地自慢を語っていることになります。だから、いつも教える立場で語り、預言のように書くのでしょう。信仰は、人間としての立場を生かすものであり、何よりも欠点だらけの人間である自覚が信仰の条件とも言うべきものになります。
 
そこに嘘があったり、思い上がりがあったりすると、この記事のように、大仰な書き方の断定表現になり、これは、彼、シャローム氏の好む書き方なので、彼の、罪は悔い改めなくても救われる、という無罪信仰にぴったりの破滅的な反キリスト信仰になってゆくでしょう。いろいろなところが彼に似ています。
 
彼は、聖書的教理的な言葉つまり聖書語と丁寧語で、聖職者として世渡りをしてきました。彼は、古いボス猿タイプで、人より上に立って教えを垂れる姿勢を、根拠もなく、資格もなく、主張し続けています。人間としての資格さえ危うい偽善の罪を犯して、バレなければよい、という、とても卑劣な世俗的な根性で、コメント欄を廃止し続けています。この世の名誉という立場に何とかしがみついて留まろうと、賛同者以外の意見を遮断して、保身の反復運動をしているのです。シャローム氏は、謙虚さは丁寧語だけ、教えることは聖書語だけ、ああなったら、もう戻れないかもしれません。
 
 
神とキリストを自分の狭い了見に閉じ込めて、これが啓示だと目一杯背伸びしている異形のセンチメンタリズムは、感動できないときにも、感動がいっぱいというふりをすることが信仰とばかり、見栄を張っている痩せガエルに過ぎない。ならば、なぜ、痩せガエルの存在を隠そうとするのか。欠けを隠すことが信仰という勘違いから、このような信仰?のつもりは、ついには、偽りの善を装うものになってしまう危惧を感じる。キリスト者は、いつまで独居房のような徳に留まることを強いられるのだろうか。
 
 
信仰は、聖書の言葉や教理を並べることではありません。それらは言葉面だけになりやすいのです。聖書において、キリストに救われた人々は、神も教理も分かっていたとは思えません。彼らが救われたのは、ただキリストの前に低くならざるを得ないがゆえに偽らなかったということです。言ってみれば、それが信仰なのです。言葉面をだらだら並べる人にならないでほしいものです。
 
 
(2017年02月03日、同日一部修正)
 
盃(さかずき)
言葉面(ことばづら)