悪貨と良貨
 
 
驚くべき神のみわざである奇跡については大仰に語り讃美するけれど、驚くべき自らの罪と偽善と偽装と隠蔽については、ひた隠しにしてバレないように証拠を隠滅することに熱心な者がいます。一方で讃美、もう一方で偽善の罪を犯し続ける、という相反することを同時にやっている、これを人間離れ技と呼んでいます。人間に出来るとは思えないからです。
 
獣のような乱暴なことをしながら、それを隠して、信仰の模範となるような人と思われようと偽装の柔和な人格芝居をする白々しさと厚かましさとを続けている者には、やはり単純な罪ではなく、明らかに作為的な偽善の名を当てる他はありません。
 
その者は、偽善も罪だから、偽善も罪と同様に、悔い改めなくても救われる、と言っていました。結果を考えれば明らかに間違っています。総ての人がこのような信仰?を持ったらどうなるでしょう。罪も偽善も悔い改める必要がない、これが正しいなら、その成就の結果が、偽善者と乱暴者だらけの世界になってしまうのです。
 
つまり前に書いたように「悔い改めなくていい」も「偽善も救われる」も、とんでもない背教にしかならないということです。その者は、無思考に陥り、自分のいかなる非も認めない信仰?だから、狂ったようなことを、姑息的な言い訳として、言い続けてきたに過ぎません。
 
 (テサロニケ人への第一の手紙、口語訳)
5:17
絶えず祈りなさい。
5:18
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。
5:19
御霊を消してはいけない。
5:20
預言を軽んじてはならない。
5:21
すべてのものを識別して、良いものを守り、 5:22あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。
 (テサロニケ5:17―20、新約聖書)
 
いつも喜び、すべてのことについて感謝する、出来るでしょうか。不自然だと思います。聖句がこのように言っているのは、今日明日のうちに命が奪われるかもしれない迫害の時代で、死が近いかもしれない今こそ、逆に、感謝を示すべきだと言って、結束を強めるためなのかもしれませんが。
 
この聖句も、やはり、迫害によって殺される、という、悪が神の名によって行われていたという特殊な時代背景を考慮して読むべきことだと思います。迫害者が人間離れした神がかりだから、尋常の覚悟ではいけないと考えたのでしょうか。
 
この聖句のような何でも感謝することも、幼子のようであることも、他には、いつも讃美すること・・なども、出来の悪い聖職者が、説明できなくなって、めんどくさくなったときに、聖書に書いてあるという言葉面の根拠?だけで吐いてしまった、逃げ口上であり、実質、捨て台詞に過ぎない文言です。
 
こういうことは、人間性を考えれば、このまま一般的に受け取ってはならないことだと、無思考でない人なら分かるのです。説教が出来ないのに、人の上に立って説教することをやめない傲慢な者だけが、言葉面を振り回して、聖書に書いてある、と主張すれば通る、という、安易な短絡道に住んでいるのです。
 
聖職者がいつも優れた説教をする、と思っている信徒は、そうはいないと思います。そう思っている信徒は、自分で修正しなくてはなりません。つまり、聖職者であっても、いや、聖職者であればなおさら、出来ない、分からないと、はっきり言うことが、いかに大事かということになります。その共感の上に立てば、話し合いの機会を持ち、ともに掘り下げて修正してゆく、という道が開かれるでしょう。
 
人が不全だということは何度も書いてきましたが、信仰の芯として、信仰の弁えとして、何よりも大切なことですし、このことは、不全の共感から、弱さの共感、罪深さの共感、ということに、一対一で結びついてゆくことなのです。
 
ここを人間として考えて理解し受け入れない限り、人騒がせな、いや、それ以上に、有害な脅威となり得る自分信仰や無罪信仰は、広き門から、近道の短絡道路を突っ走って、いつの間にか生まれて、最悪の場合、主流になる可能性さえもあると考えるべきでしょう。悪貨は良貨を駆逐するとも言われます。
 
そして、いつの日も、聖書の言葉面は利用されます。
 
私が書いてきた批判記事もそうでない信仰の記事も、多くは、信仰の言葉面以外、受けようとしない、感じようとしない、考えようとしない、ということを、こともあろうに、信仰によって正当化してしまった結果の危惧と実例なのです。
 
偽物は本物に似せた言葉面を使い、本物より優しく易しいと思わせるものです。その優しさは言葉面だけ聖書に因む丁寧な言葉で、その易しさは鵜呑みの安易と気安さに過ぎません。信仰は一度に結論の出るテーマではありません。誰も、今、結論など持ってはいません。結論も結果も真理は神のものです。
 
真理は、神のみの持ち物です。私たちに与えられる様々なものの中で、神の領域のものは人には理解できないもので、神の専権に属するものです。私たちは、私たちが対象と出来る人間性において共感できるものを、出来る範囲で考えるべきです。
 
いつも感謝して笑っているような不自然で一面的な情意にならないために
 
いつも讃美しているからと模範的信仰者を自負することにならないために
 
幼子のように逆らわず鵜呑みにして騙されやすい信仰者にならないために
 
いつも自分を自分で神に結びつけて非を認めない者にならないために
 
聖書を読んで教会にも行くから大丈夫などと思わずに、自分の頭と心と魂を使って、信仰について、人の意見も聞いて、よく感じて、よく考えて、日々、信仰とその糧を、新しくいただけるように、修正可能で学習可能な思慮と情感を心に用意して、この地上を歩んでゆくことが大切だと思います。
 
 
(2017年02月22日)
 
駆逐(くちく) 
騙す(だます)