信仰のツボ
 
 
ヨブ記においては、ヨブが神に弁明し抗議したところを隠し、ヨブが神を讃美したところだけを書く。バラバについては、パリサイ人などが煽動して民衆がピラトにバラバを赦免しろと言ったことを知らずに、バラバも神に救われたと言ってしまう。彼が、これらの解釈において、パリサイ人の肩を持ったという証拠であり、聖書を歪曲していることの証拠でもあります。
 
上の前者には、神に抗議して神に一喝されたヨブの姿が、後者には十字架上で悔い新ためてキリストに赦された別の犯罪人の姿が印象に残っています。そこから、聖書は、都合の良い美味しいことだけを書いている書物ではなく、人間のありのままを書いている、という印象が残っていて、そこを読んでいて、キリスト者になる切っ掛けの一つになっている人は、そこを間違えません。聖書には、分からないところがいっぱいあります。しかし、自分が感動し目覚めた芯となるところを人は忘れません。
 
信仰を本気で考えず社交で済ませてきた者は、神とキリストと聖霊の聖三位については、とにかく褒める、というスタンスしか持たないのでしょう。聖書解釈のツボとなる所を知らないのでしょう。それで、たやすく勘違いをして、あるいは曲解して、体よく書いたつもりが馬脚を露す結果になるのです。彼が熱心なのは、信仰ではなく、世間体における自らの聖なる位置だからです。
 
逆らう批判者に対して、反論の代わりに侮辱を返し、それでも批判する者には、無視とコメント削除によって足跡を消して隠蔽によって保身を謀る者でも、それが信仰だと思い込んでいる場合は、過ちを徹底的に隠して、丁寧な言い回しや聖書に因む言葉によって、一定の賛同者を獲得します。彼には、それが必要だからです。必要とは、自分と同じ信仰?を次の世代に残すことを確認することで快楽を得るからでしょう。そのことが最も災いであり、賛同者のままだと、当然、その人も、後輩に同じような信仰?を同じようなやり方で広めてゆくからです。
 
それでも、偽物は、神によって駆逐されるだろうから、関わらずに、神に委ねましょう、というのは、人の身勝手な思い込みか言い逃れの可能性があり、出来ることを怠っている場合があります。
 
私たちは、人間として出来ることがあり、それしかありません。出来るのか出来ないのか、批判は出来なくても出来ることがあるのか、そこをよく考えないと、そのような信仰のあり方は、別の安易な現実逃避の信仰をもたらしてしまうでしょう。それも、神に委ねて直してもらって・・などと考えることが重なると、何もしなくてもいいんです、という信仰?を育てることになるでしょう。それは、何をしても赦されるからいいんです、という無罪信仰とそっくりな結果を招くことになるのです。
 
信仰は決して難しいものではありません。しかし、人生をともにする信仰は同時に、安易なものでもありません。結局、信仰の正邪を決めるツボは、自分をどれだけ神に対して謙る者と出来るか、ということになります。謙ることが出来るというのは、いかに人間として、神との知識と能力の決定的な違いを弁えられるか、ということになります。したがって、全能の神に対して、不全の人が大事にするべきことは、人間であること、それゆえに、自らを悪から除外できないほど、いかに罪深い本性に囚われているかを知ることに他ならないのです。
 
つまり、信仰ゆえに行うところの信仰告白も不信仰告白も、安易な訂正不能の不変の信仰の讃美などではなく、自らの囚われからの解放を、現象としては内省を心掛けて、時々に悔い改めて、新しくしていただく、祈りの信仰であります。平安は決して常在ではなく、解放のたびごとに祈りに答えて与えられるものです。
 
 
(その名は不思議
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/MYBLOG/yblog.html
 キリスト信仰の福音伝道を装っているサイトです。
 罪と偽善を指摘する反対意見を次から次に葬り去って、
 悔いることなく改めることなく赦され、罪を気にしない、
 そんなキリスト信仰をどうして受け入れられるでしょうか。
 読んでも決して好意的に関わってはいけないブログです。)
 
 
(2017年02月25日)
 
謙る(へりくだる、遜る)