安楽と平安
 
 
神による平安を主張する自分信仰者が
繰り返し語る言葉はもちろん平安だが、
それは神による平安ではなく
自ら作為した安楽に過ぎないということを私は主張する。
 
平安は、例えば、
考えすぎて病んでしまった心が
神そしてキリストの言葉を心で受け取って
安らぎを得ることである。
つまりその安らぎは、
考えるということを尽くした者に訪れる。
 
考えることを最初から止めている者に訪れるのは
合理化や勘違いによる刺激の遮断にすぎない。
信仰者が、平安、という言葉を使うとき、
注意して見ておく必要がある。
そこに恐ろしい自己正当化が働いていることがある。
 
自分のための自分による自分の正当化、
これが、とても見苦しく、浅ましいものであるのは、
そこに、神を味方にし、神の鎧を身にまとう、
という、神の立場に、
または、自分は神の味方、神は自分の味方、
という断定の自覚に、
成りきっているという逆方向になるからだ。
 
まず、あるときの、安心している心が、神による平安であるか、人は不全なので、確定することは不可能である。一方、自分だけの勝手な安楽であるかどうかは、無思考の前提があるかどうかで、ある程度、判断できることがある。
 
そいういう可能性を考えて、神に対する人間としての不全を弁える者は、迂闊に、神の平安、などと言うことを控えるだろう。
 
その節操を弁えず、安楽を神の与えた平安と言ってしまう者ほど、内省力の乏しい者にかける言葉は、神の平安などと言うあなたは何様のつもりだ、ということで十分であろう。
 
安楽は安穏と言ってもいいが、要は自分の思い込みで安定することを言う。それは、賜った平安ではなく、刺激がなくなって、沈黙だけが続く自分と自分の周りを形容しているに過ぎない。
 
ここにおいて安楽安穏者は、自分に不都合な他者の意見をことごとく葬り去っているから、反対者が見かけ上いなくなるので、全く自己中心に安楽ではあるだろう。嫌なものを見なければ、嫌な刺激を受けて考えることはなくなる、という、とても単純で世俗的な処世を、信仰にすり替えているのである。
 
しかし、このとき、その者は過去のままであり、自分を生かしてくれる、あるいはそのヒントとなる意見をも葬っているのだから、成長のしようのない状態である。こういう最も望ましくない状態にあって、これで、神の平安と言うのは、その者が、いかに自己愛に溺れているかを語っているに過ぎないのである。
 
このように、他者の特に反対意見を無視する者の行く末は、成長がなく、かつ、自己の正しさによって過去のまま引きずられ停滞する不調和と不全の亡者の有り様でしかない。その者は、肉体が生きていても、とうの昔に、亡き者となっている。しかも、それを、生きた人間に、至高の境地のごとく語るのだから、その弊害は、ただの不信心や不信仰どころではないのである。
 
引きずられる者がいるなら、その結果は、亡者の後継者として同じ亡者であるということを知ってほしい。この地上において、信仰者は、感じたことや現象について考え、かつ、苦しみ悩んで耐えることを使命とする。そこにおいてのみ、十字架のキリストの赦しと永遠と言われる同伴者イエスの慰めと癒しの恵みに与るのである。
 
 (ヤコブの手紙、口語訳)
4:9
苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ。
4:10
主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう。
 (ヤコブ4:9―10、新約聖書)
 
「高くして下さる」とは、この世的な立場のことではなく、
主にとって望ましい人間に育てる、という意味だと思う。
 
決して、安易な安楽と安穏に魂を奪われてはいけない。安易なものは人から来る。そしてその者は、神からだと主張するだろう。その者が、神の民に相応しい強さ、ではなく、神の民に相応しい弱さを、共有し共感できるかどうかを見て判断するべきである。
 
神がこの地上に救いをもたらすことには、地上の人の世界においても、地上の人間にとっての大義がある。それは、神が地上の人間を救うということであり、地上の人間を、神ご自身の民として見ておられる、という、人には終末まで理解できない神の、人間に向けた祝福である。
 
同時に、民に相応しい人間であれ、という、神に近づいて他者より強くなることではなく、神の下で弱さを共有し共感できる敬虔を弁える、という、人の考える意味よりも遥かに深い節操を教えるメッセージである。それは、神の懐に包まれる場を賜って、神の民という、あくまで人間として生きることの、ときには、魂の奇跡として、死とその恐怖をも超える平安につながるだろう。
 
 
(その名は不思議
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/MYBLOG/yblog.html
 キリスト信仰の福音伝道を装っているサイトです。
 罪と偽善を指摘する反対意見を次から次に葬り去って、
 悔いることなく改めることなく赦されるから
 罪を気にしなくていい、という、
 不実を行って、同時に、神を讃美する、という、 
 二律背反の同時進行をしているような信仰を
 どうして受け入れられるでしょうか。
 読んでも決して好意的に関わってはいけないブログです。)
 
 
(2017年02月27日)
 
鎧(よろい)
迂闊(うかつ)
与る(あずかる)
懐(ふところ)