魂の悪用
 
 文言だけ参考にした記事:
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27968697.html
 http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27967468.html
 http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27967465.html
 http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27966519.html
 http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27965501.html
 http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27964452.html
 http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27964252.html
 http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27963601.html
 
 
どういうつもりだろう。彼、シャローム氏は、戦争の正当化を嘆く記事を転載しておきながら、自らの失態を隠蔽して、偽善も罪だから赦される、と正当化したことについて、反省もせず嘆きもせず、信仰?の美辞麗句を並べて、反対する者を「神との関係と交わりを失っている」などと決めつけて、自己正当化、他者悪者化、を続けている。
 
今回は、少々乱暴だが、彼の政治関連の転載記事の言葉を拾って、彼、シャローム氏の無責任と非道ぶりを形容してみた。一種のパロディだが、彼に対する批判という意味では真剣だ。なので、それぞれの転載元記事の文言は、シャローム氏をめぐる偽善問題とは関係がないことをお断りしておく。
 
民主主義を愚弄するのもいい加減にしてほしい。彼、シャローム氏は、前には、神主主義などという幼稚な造語を本気で載せてきて、それで何か解決したかのような気分になる軽薄な宗教人だ。彼には、こういう記事のこういう文言に恥じるところはないのか、という言い換えが私のこの記事である。
 
 
嫌なことには目を向けたくない習性が、人間にはあります。嫌なことを忘れることによって、人間は生き延び得るのかもしれません。しかし、彼、シャローム氏は、どこまでも自分を正当化する作業をやめません。
 
ねじれにねじれた失態後の彼の在り様こそが、実相を、直視することから目をそらしてきた結果としてあるのです。ヘドが出そうです。
 
他者の記事の転載においては、そこに批判されていることが、まさに、彼、シャローム氏の悪行と不法を批判することになるでしょう。彼は、まともな意見だと載せたのかもしれないが、そのまともさこそが、まともでない彼、シャローム氏の行いを際立たせるでしょう。
 
なぜ、この不法に対して、キリスト者は及び腰なのか。彼、シャローム氏のブログは、当初「聖書の聴き語り」という名で、次に「讃美の家」となり、さらに「その名は不思議」というブログタイトル名になっている。「讃美の家」から「その名は不思議」までの間に、彼が私の書いているコメントを承認制によってブロックする、というトラブルがあった。何らかのトラブルがあって名称を変更したのではないかと推測している。それに対して、名前を変えることで解決した気になっている彼、シャローム氏がいるのである。次は何だろう。「シャローム記念小学校」とでも・・?
 
彼の記事を過去にさかのぼってみていると、同じような名前や内容の記事が繰り返されているのが分かる。愚かなことも繰り返すと、聞いた人々はだんだん本気にする、という、独裁者が用いた大衆煽動術みたいなことを利用しているのか。そのうちに、キリスト者は、ああ、罪はいつでも赦される、悔い改めなんか必要ない、ああ、うるわしい教祖様、・・と歌うようになることを彼の信仰?の成就としているのか。
 
シャローム氏が、愛の教育を重んじるのも、しつけのためならば良いかと思ったけれど、こんなに陰謀じみていたとは・・。戦前よりひどい独裁国家になるような、他者の反対意見の削除ぶりである。
 
シャローム氏は、掘り出した過去記事や他者の記事を投稿欄に埋め戻し、再録であることも書かず、転載とともに、読者の目を誤魔化そうとしています。
 
言い訳や言い逃れをするというのも、「・・もやりとりが・・あ、あった中においてですね」「・・的には、なるべくですね、え~、ま、」「ま、しかし、これはまさに、え~、ま、名誉ということで受け入れたわけでございますが、え~、」と、何やら丸出しの人もいれば、彼、シャローム氏のように、黙ったまま、他者のせいにして削除し、自分は美味しいことだけを書き続ける、というのもあるわけです。
 
バカのひとつ覚えで横並びの感謝と讃美、公共のブログとネットを使って野放図に垂れ流すこと自体、国を憂える善良な日本国民とキリスト信仰者にとっては全く迷惑でしかない、ということが分からない、彼、シャローム氏のようだ。
 
「その名は不思議」カルト小学校の異常性と不法性。隠蔽か?・・批判対象シャローム氏と、批判者の、コメント交渉記録は、記事投稿成立とともに削除によって廃棄とのこと。徹底してます。
 
シャローム氏の偽善と隠蔽問題では、詭弁家の関与なしに起こりえない、と考えられる。これは、ひどく汚い陰謀であります。民主主義の記事を転載しながら、実際は、自分の名誉欲の判断で勝手にコメント削除、という民主主義破壊は、結局、こういう腐敗信仰と信仰衰退を横行させるのです。
 
コメント不承認並びに削除で、反対者を廃棄をしているという事だと思います。「隠蔽と言われても仕方がない」「適正でも何でもない」ということになります。
 
今すぐキリスト教の世界を牛耳るというような大それた意図がなかったとしても、不作為の積み重ねによるファシズムが顕在化してきた。それが、シャローム氏の権威主義、ということ、それが現状ではないでしょうか。
 
シャローム氏は、神に任せるのがいちばんなんです、と知らぬふりを決め込みたいようだが、幕引きどころか、もう幕はガラ開きだ。陰謀罪の彼など復活させることに手を貸すな。これ以上、悪に手を染めるな。
 
シャローム氏は厚かましいので、今日このように自分のブログの偽善と隠蔽偽装の罪が明らかになっても、「関係していたとなれば、ブログも意見発表も辞める」などとは、言わない人なのです。
 
 
シャローム氏にとって、転載記事であっても、他者が書いた記事で自分に責任はないということではなく、転載者シャローム氏が偽善者であれば、記事の色彩が変容するということ、先入観の自己正当化とバイアスの懸かった精神の信仰などは、こいつがこんなことに賛成できる身分か、偽善者め、ということになるのである。
 
>「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、
>今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」
> (新約・ヨハネによる福音書9章41節)
 
もし、彼、シャローム氏が、分からない愚かさを認めていたら、罪はなかったであろう。しかし、今、彼が、いかにも分かっているふうに、神の目を持ち出し、信仰も政治も見えると言い張るところに、彼の罪と偽善がある。
 
 
(2017年02月28日、同日一部修正)