狂信と慇懃無礼(2)
 
 何をしているのか自分でわからない
 2017/2/27(月) 午後 5:55
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27967605.html
 
 剣をとる者はみな、剣で滅びる
 2012/7/3(火) 午後 5:34
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/23048616.html
 
 
前の記事に、いくつか追加して述べておきます。「相手」「お前」は、他でもない私のことです。
 
>「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。」
>(新約・マタイによる福音書26章52節)です。
 
私の批判は、あくまで言論です。ただし、彼を傷つけないように、と心遣いする段階は既に過ぎています。有無を言わさず削除という強制力を使っているのは、彼、シャローム氏です。
 
私のブログのコメント欄は開いていて、賛成か反対かにかかわらず、殆どのコメントを承認しています。彼が書いてこないのは、反論する根拠が、彼には、まるで無いからです。信仰上も、彼には説得力が、まるで無いからです。彼は、牧師のみならず、信仰者に相応しい立場というものさえ全く知りません。でありながら、彼は、見ず聞かずでも、言うだけは、言い張り続けるので、実害を及ぼしている可能性があり、実害を及ぼすであろう可能性は大であると判断しています。
 
サーバーは、ブログ管理人に削除など、設定をする権利を与えていますが、権利には義務が付いてくるのが当然のことです。迷惑メールをサーバーが削除する代わりに、管理人にそれを与えているわけですから、管理人は横暴なことをしない、という縛りを受けて当然なのです。迷惑コメントというのは、詐欺や無関係なことや誹謗中傷だけを目的として、罵詈雑言などを書くコメントのことです。私も攻撃されたことがあります。
 
議論のコメントの目的は、根拠を示して、矛盾などを指摘することにあります。彼、シャローム氏は、いっぱい書くから荒らしです、などといい、これからも削除すると言いましたが、これからもずっと削除することには全く合理性がありません。彼は、自分の気に入らないコメントを削除しているだけです。横暴そのままです。
 
剣は強制力、ペンは言論であることを忘れて、または、知りもしないで、ペンに対して剣すなわち強制力を好きなように限りなく振るっているのが、彼、シャローム氏です。だから、彼には言論の場に意見を出す資格はないと思っています。
 
>また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。
>得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、
>自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。
 
彼は、相手のことを、間違った動機で批判していると言いたいようですが、根拠は書いていません。これが、彼のやり方です。結論だけしか書けないのです。
 
>人が争う時には自分の自尊心や利益を守るための言い分があります。
 
自尊心に最もしがみついているのは、彼、シャローム氏のほうです。彼は信仰によって書いているのではありません。信仰によって書いているなら、一度、返せず、何も言えなかったことを改めることなく書いたりはしません。相手を不快にして、怒らせて、去らせるため、としか考えられないのです。これが、彼のやり方です。
 
>人は神によって命を与えられ、愛され、生かされているのです。
>私たちの自尊心は神との関係と交わりによって支えられているのです。
 
彼は自尊心を自分で守ろうと必死です。彼の勝手な、いつどんなときでも、自分は神に愛されている、という身勝手な被愛妄想が信仰になっています。なぜこれが間違っているのかというと、神が自分を愛しているということに、信仰者である相手を愛しているということが、スコーンと抜けているからです。つまり彼の信仰は、自分だけが神に愛されているという妄想に過ぎないのです。これほど身勝手な信仰、・・成り立つわけがないでしょう。
 
こういう全く筋の通らないことを前提に彼の信仰は出来ています。彼は自分の信仰の正しさを、神の啓示だから議論の対象にならない、と言っています。ではどうでしょう、同様に、相手の信仰は啓示ではないのか、ということになります。
 
つまりここにも、彼の、優越意識が働いているわけです。お前などに文句を言われる筋合いはない、という、傲慢によって、自分のは啓示だが、お前のは違うという固定した自分正義の結論が前提になっているのです。おかしいでしょう。啓示かどうかは分からないが、どちらが妥当であるかは、議論~話し合いのテーマなのです。テーマについて説明するのに、結論を最初に持ってきているのです。
 
このように、彼は、話の通じない人です。しかし、被愛妄想と自分正義妄想によって、彼は書くのですから、話し合いになるわけがないのです。そこを長いこと指摘してきたようなものです。それに反応できないのは、彼の思考力も感受性も狂信によって失われているのだろうと思っています。彼という人間が人間として最低限の整合性さえも持たなくなっているのでしょう。
 
こういうのは残念なことに、神がかり、人間離れとして、少ないが見られることなのです。こういう信仰のあり方を説いている人に対して、人それぞれだから、自由じゃないですか、などと言っててよいのでしょうか。そんな逃げ道を神が与えてくれるのでしょうか。彼は元牧師ですが、教会組織というところには、実におかしなことが、まかり通っているようです。
 
>ここに一つの原則があります。
>それは人の目に正しいことではなく、神の目による正しさです。
> 
>神は全知全能であり、聖、愛、義なる方であって、人はそうではありません。
 
神の目が分かるのでしょうか。人はそうではないと、人の不全を認めながら、彼の不全は、いったいどこに書かれているのでしょう。どうして、相手は神の敵で、自分は神の味方で、神は自分の味方、という前提で書けるのでしょう。神を言う前に、既に、神の敵の決めつけがある、ということが分からないのでしょうか。狂信に至ると、小中学校レベルで分かるような思考の整合性も、分からなくなるという実例です。
 
自分の使っている剣を棚に上げて、妄想仕立ての教理を振り回して、持ち前の丁寧語と聖書語で飾って、いくら長々とうんざりするような文章を書いても、愚かな文章は、どこまでも愚かなのです。彼は、異常者でないと言うなら、自分の愚かさを知るべきなのです。どこまで、無反応無反省の記事を書き続けるのか。
 
>私たちは争い、自分の正しさによって
>互いに相手を十字架につけようとしているのです。
 
こういったことを、自分を自分で救うために書くのが、偽善者である彼、シャローム氏の特徴であり、今では体質というしかないことです。おぞましいかぎりです。
 
>しかし、イエスは神のみが正しく、神を信じ、信頼し、委ねることだけが
>いのちの道であり、平和の道であることを私たちに証しされたのです。
 
神を信じているなら、なぜ、自分で人の反対意見を削除するのでしょうか。なぜ、神に任せないのでしょう。何度も書いてきたと思いますが、彼は、信仰風味?、つまり一見信仰に見えること、しか分からないので、信仰の話をしても通じません。そういう彼に対して、今も批判を続けることは、彼の反省を促す目的では意味がないかもしれません。今そして将来の実害があると判断したから、批判を続けています。彼のブログのアクセスが「1」なら書く必要はないのです。彼の社交の言葉に騙される人が現れることを危惧します。
 
こういう人は、都合の良いところだけ、神に任せることを説きます。しかし上に書いたように神に任せることを彼はしていません。彼の言いたいことは、ほっといてくれ、ということだけでしょう。彼は、人が自分の記事の穏やかさに好意を持ち賛同してくれて、いい気分になりたいのです。それを神の平安と呼びたいのです。彼のようになってしまう偽信仰を放置することは断じて出来ません。
 
>「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。
>しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、
>あなたがたの罪がある。」
>(新約・ヨハネによる福音書9章41節)
 
よくこの聖句を引用できると思います。彼が何度、神について決めつけて語ってきたか、ということです。今回も記事も同様です。彼は、盲人の自覚ではなく、「見える」と言い張るパリサイ人の自覚しか持っていません。
 
>それは「キリスト教」という宗教を信じなければならない
>ということでは決してありません。
>それはキリスト教の歴史、今も世界の現実を見るならわかります。
 
ここに彼の危険性が表れています。キリスト教を信じなくてもいいとは、彼の言うキリスト信仰?を信じよ、ということです。彼は、この世を救うべき偉大な信仰を自分は弁えていると言っているわけです。敬虔も、神への恐れも、欠片もないのが、彼、シャローム氏、というカルト的無罪信仰の教祖ということになります。
 
>自分を正しいとする私たちの神を畏れ信頼しない罪を明らかにし、
>その罪をあがない、赦しを与え、生ける神との関係と交わりを回復するために、
>罪なき身を十字架の上に命をささげ、
>よみがえり、生きておられるイエスご自身を信じることです。
 
彼は何を捧げてきたでしょう。自分の思うとおりに働いてくれる神?に、ひたすら讃美を捧げてきたのです。神を恐れない彼の無罪信仰は、キリストの十字架によって、罪はいつでも赦されていて、今は罪を気にしなくてよい、自分を一切責めなくていい、というほどに、自分を正しいとしています。そのために、キリストも、聖霊も、神も、道具のように持ち出して語るのです。
 
そして彼は、キリストの肉体にばかり目を向け、キリストの肉体の復活を史実として信じていることを、誇るように、強く言い張るのですが、キリストの、優れた共感力も、鋭い洞察力も、味わい受けて感じている気配はなく、つまり、文章のどこにも書いてないのです。彼は、大仰な書き方をしますが、大仰なのは、彼の思い上がりであり、彼自身なのです。
 
>人は「自分のための」神を造ることによって「自分を神としている」のです。
 
偶像というのは、物体としての像だけではありません。物体としての像というのは、場合によって、どこ向いて拝んだらよいのかの目安に過ぎなかったりもしますから、それよりも、人の心の中の偶像のほうが、よほど厄介な問題になります。彼のように、自前の矛盾だらけの独善教理が訂正不能にあって信仰となっておれば、明らかにそれは偶像です。
 
どうしてこんな人がキリスト者として認められたのだろう、どうして、こともあろうに牧師にまでなってしまったのだろう、と思います。彼が通った教会や神学校がそもそも間違いを教えているのだろうか、教会に違和感を覚えて行かなくなって約20年の私には分かりません。今、信仰について、彼に出来ることは、もはや、何も書かないことしかないのではないかと思います。早く、悪質な自分信仰である彼の無罪信仰が目に触れないように、ネットの公平な言論の場から出て去って、再び現れることのないようにしてほしいです。魂を焼かれるよりはマシでしょう。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
18:7
この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである。
18:8
もしあなたの片手または片足が、罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。両手、両足がそろったままで、永遠の火に投げ込まれるよりは、片手、片足になって命に入る方がよい。
 (マタイ18:7―9、新約聖書)
 
彼はそれはお前だと答えるでしょう。私としても、御心は測り難いので、分かりません。しかし、私は、根拠を示して指摘はするし、どうなんだ、と問い詰めたりもしますが、自分を神の善の中心にして他者を悪と決めつける文章など、気色悪くて書けません。彼の文章を読むたびに、その嘘の白々しさに気分も体調も悪くなります。そういう中で批判を書いているので、特に今回、あまりの酷い文章に、上の聖句を引用しました。この聖句について自戒している感じが彼の文章には微塵も見られません。
 
キリストは、罪びとを赦したが、偽善者を赦さなかった。何故なら、偽善は善を装う分、悔い改めをしないと宣言しているに等しいからだ。つまり、罪について、悔い改めは必要ないと言うことは、それだけ、悔いもせず改めないが赦せ、と神に言っているに等しく、恐ろしく高ぶっていて、神の民に相応しい位置にいない、という証拠だからだ。その結果、偽善者は、キリストの肉体を殺す、という役割しか担わなかった。
 
彼、シャローム氏の過去の反論は、すべて、無意味な言い逃れだった。彼は今、反論しない。反省もしない。代わりにコメント欄を削除している。
 
 
(2017年03月01日、同日一部修正)