鴨と白鷺
 
 
 おそれ多い「鴨ねぎ」の話
 2017/3/23(木) 午後 0:29
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28004722.html
 
 転載元:
 2010-03-29 人間様が、鴨の鴨にされる
 
http://d.hatena.ne.jp/shirasagikara/20100329
 
 
転載記事です。鴨がネギしょってやってくる、という鴨ネギの話をモチーフに、信仰を語って・・、否、語ろうとして何も語り得ていない話です。
 
>驚いたことに、つぎつぎ4、5羽の鴨が仲間の声を聞きつけてか、
>しりをふって雪の上をやってくる。「そちらにもやって」の声に、
>わたしは、かみ砕いた菓子を新参の鴨にもまいた。ああ、なんのことはない。
>人間様が「鴨の<いい鴨>にされている」のだ。
>それに気づいて笑ったころ、投げる菓子もなくなっていた。
 
鴨に鴨にされるという話は面白いと思うのですが、そこで終わってしまって、それに福音伝道がどう関係しているのか、分からない記事になっています。余談か雑談程度の意味しかないようだが、聖句引用もして、まともを装っているように思えます。
 
>「お人よしが、こちらにとって利益になる材料を持ってやってくること」
>「うまい話が、二重、三重になってやってくること」だ。
>(「ことわざ大辞典」小学館)
>聖書にも「鴨ねぎ」の話がある。
>ナバルの妻アビガエルが、ダビデに救援物資を持ってはせ参じたのもそうだ。
>(「サムエル記上」25章)。
>おそれ多いことながら、イエスさまの十字架も同じだ。
 
アビガエルの信仰の話なのでしょうか。正直言って、私には難解です。長いので引用も控えます。うかつに引用できる話ではないと思います。ナバルの妻アビガエルがダビデの味方をし、ダビデがナバルを滅ぼしたのちにアビガエルを妻にした、という話です。これを、鴨ネギの話だと書いて、信仰とどう関係があるのか書かないでは、ダビデの欲張りにしかならず、全く信仰の糧になっていません。
 
>いまから120年ほど前の明治24年ころ、
>大阪の江藤清助(尚美堂創業者)が福音を聞き、
>「ぼろい話やな」(元手なしの大得の話)と驚き信じたという。
>いかにも大阪商人らしい表現だ。
>「うまい話が、二重、三重になってやってくる」と感じたのだ。
>「ほんまでっか。だまされとんのとちがいまっしゃろな。
>わてのかわりに、エスさんちゅうお方が、十字架に、はりつけにされて
>死なはって、そのエスさんを信じて拝むだけで、
>天国に入れてもらえるんでっか」。
>(藤尾「ほっとしなけりゃ福音じゃない」所収、「ぼろい話」)
>おそれ多い「鴨ねぎ」の話。
 
ぼろい話、うまい話、大阪商人、と分中にもあるように、この世の利益についての話です。こういう話を、補足することもなく出して、福音伝道に持ってくる人の気が知れません。こういう話を、補足して信仰の話にするのではなく、そのまま書いてしまえば、転載元のシラサギさんの話は、白々しい詐欺の話になるのではないかとさえ思われます。信仰は、決して、鴨ネギです、よかったですね、という話ではありません。
 
キリスト信仰が福音であるのは、人間に無理な重荷を負わせないこと、人間性の本来あるべき姿を告げていることにあります。しかし、信仰には信仰の節操というものがあり、神に対する偽りは赦されません。また、信仰の良さというのは、この世の基準で計れるものではないのですから、ちまたに、また、ネットに、鴨ネギ話をばらまいて、鴨ネギを待っているような、詐欺師がいっぱいいる世にあっては、よいことばかりですよ、というような話のまま福音伝道とするべきではないと思います。
 
>「不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、
>その信仰が義と認められます」(ローマ4・5)
 
殆どここだけが、彼、シャローム氏の気に入ったのでしょう。不信心でも信仰が義とされる、という聖句を、彼は、彼の罪と偽善と、罪を悔い改めなくても救われる、という自分信仰に結び付けようとしています。それが狙いの転載・・、全く自分信仰者というのは、聖句を、こんなにも悪用する、という例になります。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
4:2
もしアブラハムが、その行いによって義とされたのであれば、彼は誇ることができよう。しかし、神のみまえでは、できない。
4:3
なぜなら、聖書はなんと言っているか、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。
4:4
いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。
4:5
しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。
4:6
ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次のように言っている、
4:7
「不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである。
4:8
罪を主に認められない人は、さいわいである」。
 (ローマ4:2―8、新約聖書)
 
キリスト信仰は、行いによって義とされるのではない。つまり、労働の対価ではない、と書いてある。
 
信じることによってだけ義とされると書いてある。
 
働きがなくても、義と認められると書いてある。
 
不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである、と書いてある。
 
罪を主に認められない人は、さいわいである、と書いてある。
 
しかし、このことを悪用して、信じるということを非常に気安く考えて、キリストの十字架によって罪から解放されることを罪がなくなったと悪用し、信じると言うだけで信じたことになるという考え方で悪用し、罪はおおわれるから神も罪を見ないのだと悪用し、罪を犯したまま悔い改めなくても救われると悪用し、罪が罪を苦しめるなどと被害者気取りで言って悪用し、罪を気にしなくなったのが救いだと悪用し、平気で人をなきものであるかのように無視して悪用して、神の御言葉の悪用を積み重ねて、神の正しさを自ら決めつけて人をカモにしているとしか思えない稚拙な詭弁と滅裂な理路でいっぱいの記事を並べて、神とキリストを自らの正当化と保身に悪用して、どこまでも整うことのない魔界に誘い続ける、彼、シャローム氏は、このままでは、どこまでも災いです。
 
信じるだけで救われるというのは、カルトでも言っていることです。天国が約束されていることを何よりもの喜びとする人を疑問に思います。天国はいいところなのでしょう。しかし、人は地上に生きている間、天国を知りません。望んではいますが、知らないまま望んでいるのです。それは、すがりつく縁にはなりますが、この世を生きる喜びにはならないと思うのですが。
 
キリスト信仰が負いやすい軛と言われるのは、神よりも遥かに不全である人間としての自分を認め自覚し、ゆえに生きる指針となる価値基準を神に委ね、ゆえに当然、神の御心を知り得ない人間である自分の犯した罪を包み隠さず、祈りによって神の御前に捧げ、悔いて告白し、赦しと癒しと導きを乞い願い、神への態度である信仰を日々新たにしてゆく道に、絶対孤独からの解放が約束されているからです。
 
 
(2017年03月24日、同日一部修正)
(2017年03月27日、一部修正)
 
鴨(かも)
白鷺(しらさぎ)
縁(よすが)
軛(くびき、頸木)