黒い罠
 
 
 第二百六十回
 2017/3/27(月) 午後 0:00
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28010592.html
 
 転載元:永遠のいのち
 記事:第二百六十回
 2017/3/27(月) 午前 9:40
 
http://blogs.yahoo.co.jp/gonchanoosaka/14345122.html
 
 
彼、シャローム氏が、この話を転載した貪欲な理由を私は書いてゆきます。彼は、自分で書くと、批判される、というより、批判されない記事を書くことが出来ないから、人の記事に頼って、責任を逃れたいのでしょう。
 
科学者は宇宙に神の存在を想像し、芸術家は至高の作品または目指すものを神と呼ぶこともあるでしょう。そのよう天才たちの言葉を、さらに障害を持った人の鋭い感性を、自らの煤だらけの信仰観に結び付けてはならない、ということにこそ、キリスト者の持っているべき、神の前に遜る敬虔を発揮するべきなのです。
 
それとは逆のことをして、彼は信仰がある、クリスチャンだ、と言いふらしたのでは、はっきり言って、神が個人に与えた役割としての才能と気づきを、その人の心をよく分かりもしない人が、身の程を弁えずに、宣伝に利用する行為であり、神も芸術も人間も、けがす行為になりかねませんが、彼、シャローム氏は、そういうのが大好きなので、無罪信仰によって自分の罪も欠点も分からないまま、転載している、ということでしょう。
 

この方は自分はクリスチャンだとは書いておられませんが、書いておられる内容と参考文献として挙げておられるものから、キリスト者であろうと思います。自分ではクリスチャンではないと思われているのかもしれません。でも神とイエス様の愛と憐れみがこの方に溢れるほどに注がれていることがわかります。

 
このような推測をしても、自らのキリスト教の信仰をべったり貼り付けるようなことはしないのが、キリスト者の役目だ、とは思わないのが、彼、シャローム氏ですが、レッテル貼りは、キリスト者の仕事ではありません。すばらしい言葉に対しては、聞くにとどめ、称賛するにとどめることが、キリスト者の敬虔なのです。
 
神にも通じるような気がします・・くらいのことは言ってもよいでしょうが、きっと彼はキリスト信仰者です、などと神の御心を読んだ気になって、彼、シャローム氏は、その確信で大仰に讃美したいがために、この記事を転載したのでしょう。
 
キリスト者の何たるかを自分は知っているという前提に立っている信仰全能?の興ざめな所業に過ぎないのに、彼、シャローム氏は、遠慮も思慮もありません。それは、この世において、信仰者にとっても、とても迷惑なことです。
 

「『光』が認識につながり、『音』が感情につながるとすれば、『言葉』は魂と結びつく働きをするのだと思う。私が幽閉された『暗黒の真空』から私を解放してくれたものが『言葉』であり、私の魂に命を吹き込んでくれたのも『言葉』だった。」

 
これが聖書の話に似ているからということで取り上げたのでしょうか。音や言葉や芸術が魂に結び付いて、人を自由にする、・・それは、感性の賜物であり、そこから神へ通じるかどうかは、本人が語るべきことであって、そこに、キリスト者が、いわれもない注釈を入れるのは、はっきり言って、無礼であります。優れた言葉は、神の云々・・、優れた絵画や彫刻は、神の云々・・、と言いたくて止まないだろう、彼、シャローム氏のスピーカーの電源を落としてください。
 

ここで、彼が言っている「言葉」には通常の意味での言葉の意味もありますが、イエス様を意味していることでもあると思います。それは、また、本書のタイトルでもある「ぼくの命は言葉とともにある」の言葉にも隠されたイエス様がおられるような気がします。

 
なぜ、聖書の言葉に似ている、に留めないのでしょう。なぜ、命が言葉とともにあるのはキリストがおられる証拠みたいに、自分の信仰観を出してくるのでしょう。彼、シャローム氏においては、頭の中で、命と言葉面や文字面が密着しているからでしょうか、彼にとっては、前言っていたように、聖霊が啓示を与えるから自分は正しく間違いないという確信のレッテルでしょうか。
 
通常の意味を認めながら、この人の心をつぶさに知っているわけでもないのに、さらにキリストの言葉を総て理解しているわけでもないのに、褒めるのは構わないだろうと、イエスの言葉と思う、思うのはいいとしても、それを文章にし発表するのは、これは、・・そうそう、それそれ、それが信仰ですよ・・、と分かりもしないのに突っ込んで、吹聴して回る、カルトの宣伝と同じような胡散臭さを覚えます。
 

この時、著者は高校2年生だったそうです。そのような時に、目が見えず、耳も聞こえない状態になって<宇宙の中で自分が存在しているのは自分の力によってではない>、<超越者とでもいうべき大いなる存在がいるという想定をしないと、私たちの存在は説明できないだろうと>考えていたことは素晴らしいことです。

 
優れた感性を感じるとか、キリスト信仰に似ているかも、に留めておけばよいのです。上に述べたように、神の存在は、いろいろな人が、いろいろな状況や情景の中で、感じることです。そこに、この言葉は、自分の信じるキリストの父なる神への信仰ですと、しゃしゃり出る醜さを覚えてください。
 
その人が、キリスト者であるかどうか、またキリスト者になるかどうかは、その人が信仰を求めるかどうかであって、それは信仰だと、神の導きよりも前に出しゃばって、他者が人に言いふらす愚は、彼、シャローム氏が、奇跡と賛同記事を漁る所業に似て、見苦しいものと心得るべきです。
 

またその苦しみの意味を今はわからなくても、<まず受け止めて、そのうえでどう生きるかが問題なのだろうと意識を転換しました>というのは、私は深い信仰のあらわれだと思いました。さらに<自分の使命を考え>、自分にはこのような苦しみを与えられているが、使命も与えられているはずだというように導かれたということです。

 
その人がキリスト者であるかどうか、また、その人がキリスト者になるかどうか、私は知りません。しかし、このような記事は、実際に、手段を選ばず反対者の意見を封殺して、言いたい放題言っている、彼、シャローム氏のような偽善者によって転載され、その薄っぺらな興味をそそるものです。
 
私が長く偽善者として批判してきた、彼、シャローム氏のような者に、記事のような、そういう人を見つけたらキリスト信仰だと言って褒めて誘おう、という、本来の伝道とは、かけ離れた宣伝に積極的な文章ほど熱心に利用される恐れがあり、実際今回はそうなっているのです。私が長く批判している彼は、人間同士の付き合いなど求めないばかりか、共感する必要はないと言って、人間同士が守るべき節操を何も分かっていない者です。そして、彼自身は意見を言うが、彼に意見する者、特に反対する者のコメントをことごとく削除してきたのです。
 
障害を抱えながら生きている人が語る言葉を、その人がキリスト信仰の信仰告白をしたわけでもないのに、信仰と決めつけて、讃えるにとどまらず、また、異教のことなど気に求めず、これこそ我が信仰と同じだとばかりに誰かに、信仰の友扱いを受けたなら、ふつうの神経を持っている人であれば、あの人追い出して、と思いたくなるでしょう。
 
人間は、人に決めつけられるのを嫌う、これは、当然のことです。他者を誉めることで、それが分かる自分を高めている、これは、よくある自己顕示なのです。その典型のような、彼、シャローム氏は、まさに、神を、そして賛同者を、誉め上げ、誉め上げ、それが分かる自分を、神の執行官であるかのように高めようとします。
 

このような導き、恵みは今も生きて働いておられる超越者がなさってくださらなければ、到底あり得ないことだと思われます。

 
超越者がなさったと思うならば、なおさら、心も口も慎むべきことなのです。それを宣伝にしてしまうのは、彼、シャローム氏のような、人間としての身の程を弁えない者が、誉めてるんだからいいだろう、という気安さで、神を讃美するという正当化をもって、自分の発見を自慢することに等しいのです。
 
こういう話は、信仰を讃美する話として、彼、シャローム氏などが、最も好むかもしれません。しかしながら、これは、神が人に与える感性と知性を舐めている者が、自らはろくな感性も知性も持っていないにもかかわらず、陥りやすい罠なのです。
 
その罠に自らかかり、罠を自ら営み、人をも陥れようとする、彼、シャローム氏のような者は、自分の知らないような驚くべき人間を評価する記事に出会うと、すぐにこれは神の賜物そして奇跡に違いないと、下種な心で、言葉ではなく、言葉面で、奇跡扱いして、宣伝に利用しようと考えるわけです。しかも、その神なる存在は、言葉について何も弁えもない幼稚な彼の狭小で貧弱な精神の中に収まっている貧乏神が威張っている姿に過ぎないと来ては、これほど、情けない話はないのです。
 
彼、シャローム氏のような、モノや肉体に起こる奇跡を信仰だと思っている人は、その分、人間の魂に起こる奇跡を軽んじます。つまり、人間に興味がないのです。だから、人間性というものを信仰について考えることを最も嫌います。彼にとって、信仰は、いつも驚くべき超常でなければ気が済まないのです。
 
だから、信仰というと、神が、神が、人知を超えた神が・・云々、と言うのですが、そう言ってる自分は人知でしかないという当たり前のことを弁えず、結果、人知においても疎かで欠乏して粗雑な様態を示していることを自覚しないのです。それで、日常の人間関係に必要な、温度や潤い、情緒や悲しみ、という人間性について大方が無思考で気の使い方を知らない、というより、丁寧語を使えば足りると思い込んでいて、真心を使う気がないのだろうと思います。
 
人が信仰を実感するのは、その人自身が生きるうえで心に響いたからです。そういう信仰者は、まず、自分が信仰を語り尽くせないことを学習しているはずです。また、自分には自分の導きがあり、それは否定できないとしても、人には神の別の導きがあり、自分はそれを知っているわけではないことを弁えるはずです。
 
信仰者もそうでない人も、安っぽい宣伝をする伝道者気取りを警戒してください。この記事で気をよくしている、彼、シャローム氏に教えてあげてください。人間の感性と知性は、ときに、神の賜物ではないかというほどの驚くべき出来を見せるけれども、それに、しみったれた根性で、とても卑怯な真似を続けている偽善者が、軽薄な信仰観の煤か灰か埃のような物をかぶせて、鼻の穴を黒くするような真似は止めてくださいと。
 
 
(その名は不思議ブログ
  
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/MYBLOG/yblog.html
 キリスト信仰を装うサイトです。
 実際に約30年も牧師だったというから
 世辞で褒め上げて引き寄せるプロなのでしょう。
 
 コメントとコメント欄は、ほぼすべて、削除~閉鎖されています。
 コメントに社交以上に答える意思は見られません。
 社交の世辞によって褒められて味方する者もいるようですが
 そこに正当と思われる文脈は一筋もないことから
 無条件に贔屓してくれる人を求めているようです。
 
 逆らうとだんだん軽視と無視と軽蔑と侮辱を返してきます。
 でありながらキリスト信仰の福音伝道を装っているサイトです。
 
 彼自身のインテリ気取りで記事を書くと
 偏狭な宗教思想にしか結論し得ない自意識がバレるので
 しばしば信仰の記事も政治の記事も次々に
 かぶせるように転載しています。
 
 不備と罪と偽善を指摘する反対意見を次から次に葬り去って、
 罪は悔いることなく改めることなく赦されるから
 罪を気にしなくていい、という無罪信仰をキリスト信仰だと唱え、
 削除や隠蔽という不実、と同時に、神を讃美する、
 という二律背反の同時進行の信仰を臆面もなく言い張り続けています。
 
 もはや彼の言うことで真に受けられることは一つもないと思っています。
 
 読むことがあっても
 決して好意的に関わってはいけないブログです。)
 
 
(2017年03月28日、同日一部修正)
(2017年03月31日、一部修正)
 
今日は、歯が痛いものだから、いつもより乱暴な書き方になっているような気がします。いつも乱暴というか辛辣ではありますが・・。
 
罠(わな)
遜る(へりくだる、謙る)
陥れる(おとしいれる、落とし入れる)
煤(すす)
埃(ほこり)
褒める(ほめる、誉める)
舐める(なめる、嘗める)
漁る(あさる)