多幸気分の霧?
 
 世界史地図 (2009.3.9)
 2017/3/28(火) 午後 9:56
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28013026.html
 
 
無反応で無礼な人たちを見ていると、手応えのなさに心を病みそうで、前回、少なからず乱れて、殆ど呪いみたいになってしまいました。失礼。
 
少し気を取り直して、今回、彼、シャローム氏のほうは、転載記事ですが、転載元に記事が見当たりません。内容的には、何だか呑気な記事のようです。
 
>1949-50年ころ、守屋美都雄先生に声をかけられ、
>国立国会図書館に勤めながら、週1回、夜、先生のお宅にうかがい、
>高校の世界史の教科書に沿って歴史地図を作っていった。
>そのため、西洋と東洋の歴史をつなぐ大きな年表をまずつくった。
>わたしはそのとき、初めて「世界史」が理解できた。
 
世界史が分かったことを伝えたいのでしょうか。そして、何が分かったか、書かないのでしょうか。彼、シャローム氏のように、あんなに栄えた国も、永続はせず、衰えたり滅びたりする、という、自分を傍観者として見下げるボロクソ節を言いたいのでしょうか。
 
>「大日本帝国」は半世紀あまりで消滅したが、
>これからの日本は、英国のような「ふつうの国」になればいい。
 
ふつうの国とはどういう国でしょう。平和の国なら、なればいい、ではなく、多くの困難があるのですが、ふつうの国になればいい、というのが、いったい、どういう有益な結論になり得るのでしょうか。
 
>気張ることはない。世界に誇れる平和憲法をもっているし、
>エコ技術も世界最先端をゆくという。身の丈にあった充実の国がいい。
>世界史地図がそれを教える。
 
日本は、気張っているのでしょうか。平和憲法は、危うくなっているのではないでしょうか。エコ技術は、十分発揮されているでしょうか。身の丈に合った充実の国がいい?・・ずいぶんと、のんびりした意見のようだが、これを、わざわざ、書く必要があったでしょうか。
 
彼、シャローム氏は、なぜ、この記事を転載したのでしょう。意図が分かりません。何も書けない者だから、転載の選択も、いい加減になっているのでしょうか。読んでみて、全く、この記事を載せる必然を感じないのですが。
 
>キリスト教会も、大きさを競わず、
>これまた、身の丈にあった充実の教会がいい。
>「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい」
> (第1テサロニケ4・11)
 
キリスト教会は大きさを競っているのでしょうか。彼、シャローム氏にとって、そのことが、どれほど問題だというのでしょうか。彼は、教会のことを心配している余裕はないはずです。彼は、ずっと、信仰から外れたところにいることを指摘してきました。それを茶化すために、彼、シャローム氏は、このような記事を載せたのでしょうか。聖句の引用も肩透かしのような気がします。全体に怠くて、薄い多幸症の霧のような鈍麻を感じます。転載元に記事がない、というのは、転載元が削除したのでしょうか。しかし、彼、シャローム氏は、何らかの形でその記事を持っていて、だとすれば、いかなる感動か関心か興味があって転載したのでしょう。
 
 (テサロニケ人への第一の手紙、口語訳)
4:11
そして、あなたがたに命じておいたように、つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身をいれ、手ずから働きなさい。
4:12
そうすれば、外部の人々に対して品位を保ち、まただれの世話にもならずに、生活できるであろう。
4:13
兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。
4:14
わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。
4:15
わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。
 (1テサロニケ4:11―15、新約聖書)
 
聖書を勉強しようと思うなら、13~15節のほうが興味深いように思うのですが、今も少し取り乱している私としては、ネットから引用してみることにしました。以下の引用、終末における復活のことを言っているのでしょうか、私には、よく分からないところでもありますが・・。
 
引用)
13節でパウロは、「眠った人々のことについては」と語り出す。…これは、ようするに「死んでしまった人々」のことです。
13節。「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。」
死に対する一つの態度は、「望みなく悲しみに沈む」ということです。
愛する者を奪って行く死。大切な人を遠くへと隔ててしまう死。・・・人間の力ではどうすることも出来ません。・・・どうすることも出来ないからと、どうするのでしょうか。・・・諦めるのか。絶望するのか。何か感情的な慰めや心理的な処理をして、気を紛らわすのか。
しかしここでパウロは、そうではない。死の問題には、解決があるのだ、と言うのです。・・・死に対する二つ目の態度は、今日の箇所に教えられている、クリスチャンの態度です。
望みが無いのではなくてあるのだ。絶望ではなくて希望があるのだ。悲しみに沈むのではなくて慰めがあるのだと言うのです。
 そして、18節で、「こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」・・・と結ばれます。
つまり、この箇所で教えられていることは、死んでしまった人々のことについて、私達には、そんな、死によっても失われない確実な慰めがあるのだと確かめようではないか、ということです。
さて、これを書いたのは使徒パウロという人ですが、なぜパウロはこの教えを書いて、テサロニケの教会へ送ったのでしょうか。
それは、テサロニケの教会に、この教えを必要とする状況があったからです。
それはどのような状況であったでしょうか。・・・教会の仲間達が死んでしまった、という状況です。
http://www.imcj.org/message/monthly/monthly9811.html
(引用終わり)
 
先に死んでいった人々も、いずれ死ぬ私たちも、死ぬのではなく眠るのだと、しかも、死者はただ、今、眠っているに過ぎないのだと言うのでしょうか、いつか、いっしょになって、この世にいるとき以上に親しく、ぎくしゃくすることもなく、いつか、ともに集うて、永遠と呼ばれる命に生かされるのでしょうか、もはや、時の長さを問うこともなく、地を争うこともなく、地上よりも、はるかに広いところに、本当の平安を得るのでしょうか。
 
失礼いたしました。
 
 
(2017年03月30日)
 
呑気(のんき、暢気)