繰り言信仰
 
 
投げかけた問いと疑問と批判に一切答えることはなく、また、答えとなるような言説の展開もなく、前に言ったことと同じことを平気で言ってくる、神の言葉だから・・と。このような、信仰を、繰り言信仰と呼んでおきます。
 
繰り言信仰と言ったのは、単に、同じことを何度も言ってくるから、ということではありません。私たちは、本となっている聖書から学んでいるのだから、全く同じでなくても、同じようなことを自分の言葉で言う、ということは、珍しくはないのです。しかし、私たちが、少なくとも人間の心と、キリスト者の謙遜を持っているならば、同じことを言うときに、ふと思いがよぎると言うか、自分の心を切るような嘆息を感じます、ふっ、同じこと言ってる・・と。
 
その息のない、その息を感じない者たちの信仰を、繰り言信仰と呼ぶのです。些細なことのように思われるかもしれないし、現象の振幅は実際小さいけれど、そこに、信仰者の恥じらいと不全の自覚、という、信仰告白が、滴となって表れているのです。繰り言信仰者には、それがないのです。
 
繰り言を自覚するとき、私たちは、神の前に小さい自分を感じて恥じ入るのですが、繰り言信仰という自分信仰は、いつものように言うべきことを言ったとばかり満足さえするでしょう。繰り言信仰者の根底に、我は神(の代弁者)なり、という思い上がりがあるから、繰り返しても、恵んでやった根性にしかならないのです。
 
繰り言信仰は、繰り言をする信仰ではなく、繰り言の自覚のない信仰です。
 
広く自分信仰者に共通してみられる特徴として、目覚めを強調する、ということがあります。それは、何か大切なことを覚え、目が覚めたようになること、つまり、気づきです。しかし申し上げますが、自分信仰者には目覚めはありません。彼らの特徴は、既成、既得、完成、完全であることだからです。彼らは、既に完成しているという自覚しかなく、それを強調することしか頭になく、新たな気づきと目覚めは、その自分信仰の始めに否定されているからです。このことは、まさに、キリスト信仰の有無の無を表すと言っても過言ではありません。
 
超常信仰や無罪信仰などの自分信仰を批判するときに、無反省、という言葉を書きました。反省は、思慮による自らの思いを批判することで、情感を伴います。それが出来ない者は、情感と思慮を失ってゆく者です。ゆえに、今まで書いてきたところの、無反省無遠慮、不感不応、と言うのは、同根であります。
 
なぜ、批判されて、弁明を返せなかった信仰観なのに、ただ、しつこく、似たような他者の記事や、別の聖句などを利用して、載せてくるのでしょう。ふつうは、恥ずかしくて、二度と出せないはずです。その繰り言が出来るのは、恥ずかしいところを改めるという普段の営みがないからです。自分の主張に都合の良いことを加えてゆくことだけが営みとなっているからです。
 
シャローム氏の無罪信仰は、仮に、総ての人が救われたら、総ての人が、何を仕出かしても有罪を認めない人になってしまうという言説です。小学生でも分かるような、あり得ないし、あってはならない信仰成就の地獄の世界なのです。しかし、今現在も、非を認めない、罪を認めない、都合の悪い事実を平気で隠す、これだけやりながら同時に、神を讃え、人間に分かるはずのないキリストが言うところの永遠の命を、やたら、ありがたがるのです。
 
むしろ、そういう彼の有り様は、白々しさを知っているだけに、いかにブログ上で神を讃美しても、何度繰り返されても、とても、惨めで、哀れにしか見えません。言い換えると、そこまで、いじけた言い張りをする姿は、偽善者に見えることはあっても、救われた人の姿には全く見えないのです。しかし、彼は讃美し、救われたことを感謝する毎日のようです。
 
ひょっとしたら、シャローム氏は、ふつうの良識を持つ人間が、直感と道理によって学んできたはずの、善悪の判断をしなくなったのではないか。それで、最近の記事にはアダムとエバが善悪を知る木の実を食べて神を裏切った創世期の話が多いのだろうか。創世記をそのまま今の生活に当てはめる人も珍しい、というか、もしそうなら、大きな勘違いであって、呆れるばかりだ。
 
神が信仰を与えたのは、善悪の判断を全くしないようにするためだろうか、断じて、否である。聖書の人々も、キリスト者も、時々の判断をせずには、この地上を生きられないからだ。判断というのは、この地上に生まれて、経験する中で、生けることと同値と言ってもよいだろう。そしてその判断の大部分は善悪の判断を伴っているのである。
 
子供に同じことをやれと言っても出来ないような、善悪の判断の放棄だが、シャローム氏本人は、しているつもりなのだろうか。彼のような、元々感じることも考えることも好きでないような人が、できるはずのないことをするときには、必然的に、欺瞞と自己満足にしかならないのは目に見えている。つまり、信仰からでは決してなく、めんどくさいことをしたくないための、超のつく短絡である。
 
しかも、自分で考えることをやめて、選択をしないならば、大方、発言だけでなく、行為が破綻を来たすはずだ。それでも言い張りそうだな・・とか思うが、彼の場合、これも超の付く無視の力を、彼の体質と信仰から持っているわけだから、それを、今までのように、また、これこそ、神の意志だ、いつも感謝し、絶えず讃美する、とか言い張るのだろう。どんなに恐ろしい結果を招くだろうか、計り知れない。
 
彼は、人間の読み書きそして感性と思考という不全の能力が、それでも、努めて伝えようとする言葉の世界で、とうとう、人間不要の神の国の住人に成りきろうとしているのか。その名は不思議すぎるブログで、それこそ、神の世界へでもブログを書いているのだろうか。ここは、地上なのだが。
 
地上は、人間が住んでいるところで、人間が活動しているところであり、地上にいる限り、神が何を受け取り何を与えるか人には分からないところなのだが、彼は、善悪の判断を自分はしていないから、アダムのようにはならず、いつも正しい神の判断になる、とでも言うのだろうか。
 
善悪の判断をやめれば、自動的に神の判断になるわけではないのに、神の判断を自分の良いように決めつけている。人の信仰としては、呆れた大嘘である。判断しないつもりでも、生きている限り、判断している、という現実が分からないのだろうか。判断しないために考えないならば、判断が、より原始的な快楽原則になるだけである。
 
シャローム氏は、判断をしなくなったゆえに、今は神の言葉と聖霊の導きによって生きていますと言うのだろうか。自分という人間の言葉を交わりへ向けても、自分信仰のために通じなくなった心と頭と言葉で、どうして神の言葉を読み書きできるというのだろう。
 
そのような信仰活動は、活動ではなく、まとまらない慢性混乱状態になり、パニックにも似て、緘黙になれないだろうから、古いつながりの記憶だけが反復されて貼り付けられているような、本人だけが言い得たつもりになるような、単語ごとの表層の意味だけの、文脈を持たない無意味な、比喩的には一種のジャーゴンみたいな世界になるだろう。そういえば、最近、彼の文章には、文脈がないか、極めて乏しい、自分で自分の書いた文脈を把握していないような、へらへら笑いながら書いているような、命の劣化、とでも言いたくなるような傾向が感じられてならない。
 
 

 
緘黙(かんもく)とは、原因によらず、明瞭な言語反応が欠如した状態を指す。
(ウィキペディより)
 
ジャーゴン
失語症者に見られる症状。話していることが支離滅裂で、意味不明な状態。
隠語
(ウィキペディアより)
 
ジャーゴン(jargon)
仲間うちにだけ通じる特殊用語。専門用語。職業用語。転じて、わけのわからない、ちんぷんかんぷんな言葉。
https://kotobank.jp/word/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%B4%E3%83%B3-524388
(コトバンク > デジタル大辞泉 > ジャーゴンとは、より)
 
ジャーゴン(ジャルゴン)
 音の誤りがあまりにも多く、目標語が推定できない
例)「かぼちゃ」と言おうとしたが、「かなめふ」になった
 ・新造語が続いて発話の内容が推定できない場合を音韻性ジャーゴン(新造語ジャーゴン)という
 例)「かなめふが ひるかのに ぎくろまいたよ」
・語性錯語が続いて発話の内容が推定できない場合を意味性ジャーゴンという
 例)「鉛筆が本に泳いでたよ」 
     (これは、必ずしも、おかしいとは言えない場合がありそう ← 私の意見)
・音の羅列としか表現できない場合を未分化ジャーゴンという
 例)「はごくとられねどなうけむさえばこふると」
(これは失語症についてのサイトです)
http://ststudy.web.fc2.com/situgoyougo.html
 
 
(2017年04月23日、同日一部修正)
 
繰り言(くりごと、繰言)
滴(しずく、雫)
欺瞞(ぎまん)
緘黙(かんもく)
 
 
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