あかしのまやかし
 
 神のいのちのあかし
 2017/4/23(日) 午前 7:27
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28052344.html
 
 
今回は、彼、シャローム氏が、いかなる狙いでこの転載記事を載せたかを考えます。艱難を受けても窮しない、という聖句を引用していますが、自業自得の艱難を受けても、罪を気にせず、罪を認めず、その本質を知ろうともせず、艱難と艱難があることを、全部見えないように、ひた隠しにして、動じない、揺るがない、窮しない、と言い張るわけです。もう、牧師格など、地に堕ちて虚しいのに、彼、シャローム氏は、地を這う虫のように、やって来ては、糞を残してゆくようです。それが、彼の最近の経過で、これは、彼の不応不感と無関心無反応の結果が、だらしなく続いているということに他なりません。
 
>前回は、小さな水鳥の姿に、
>また寒さの中に美しい花を咲かせている梅の木の姿に、いのちの表われを見ました。
>また、神のいのちの表れを神の独り子イエス・キリストの
>地上での人生の中に見ることが出来るという話をしてきました。
>ただ、神のいのちについて定義づけされ、詳しく説明されたからといって、
>知識としては分かっても、
>感動をもって分かるのとはまた違います。その点、聖書には詳しい説明ではなく、
>むしろ、体験的なあかしや誰かに宛てた手紙を通して、神のいのちがあかしされています。
 
ずさんな言葉遣いと断定によって、神の命を証明したかのように語って、今回は、感動をもって分かるのとは違うと言っています。要するに、感動をもって分かるのではなかった前回の理解は、考える糧に過ぎなくて、証しにも理解にもなっていなかったということです。
 
>その一つの例をあげると、パウロの手紙です。
>パウロの手紙は、まとまった何かの論文や教えの本ではなく、
>当時の教会の具体的な問題に対して書かれたものです。
>しかし、そこには単なる手紙以上に
>深い霊的な真理や体験的なあかしがちりばめられています。
 
それを、誰か特別な個人が、牧師であったとしても、断定的に理解できるわけではありません。
 
>今、わたしたちは神のいのちというテーマを追っています。
>神のいのちがどのようなものであるかについて、
>パウロの手紙にはあちこちにそのあかしを通して見ることができます。
>その一つを紹介しましょう。
>パウロは自分たちがマケドニアに着いた時の大変な状態を語っています。
>こんな言い方をしています。
 
証しは証拠と言う意味のようですが、彼、シャローム氏のような、超常信仰者は、人間の情感や思慮に無関心で、人間としての情感と共感に溢れる魂の奇跡を求めず、奇跡が起こることのみに執着します。彼らの話は、超常話として、権威をもって訂正不能に語られますが、共感がないことは、説得力がないことを意味しています。
 
それでも、聖書語をちりばめると、なんだかもっともらしく聞こえるものだから、先生が教えるのだからと、鵜呑みにしてしまう傾向が信徒にはあります。分からないと言える共感に至るまで、私などは、牧師を質問攻めにしたらいい、とか、乱暴に思ってしまいます。そうしたときの、彼、シャローム氏の言い訳がましい話は、信仰の話としては、聞けたものではなかったからです。
 
>「わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。
>外には戦い、内には恐れがありました」
>ところが、一方では、このように言っています。
>「わたしは慰めに満たされており、
>どんな苦難のうちにあっても喜びに満ちあふれています」
 
>この手紙は西暦57年頃に
>開拓後約6年くらいと言われているコリントの教会に宛てて書かれたものです。
>厳しい周囲の状況の中で苦しい思いをしながら、
>同時に喜びに満ちあふれていると言っていますが、
>これはただ、きれいごとを言っているのでしょうか。
>この手紙をよく読んでみると、そうではなく、
>パウロはきわめて正直にありのままを書いていることがよく分かります。
>苦難の中での、その喜びこそ、まさに神のいのちです。
>ただし、その喜びは単なる霊的な心の喜びではありませんでした。
>それは極めて、現実的な喜びでした。
 
綺麗ごとを言うのは、彼、シャローム氏のような、自分信仰の偽牧師がすることです。暴かれると、他の人々にばれないように、コメントもコメント欄も削除してしまうのです。そういう牧師に出会ってしまうことは、信仰を求める者にとって不運としか言いようがないです。
 
 (コリント人への第二の手紙、口語訳)
7:5
さて、マケドニヤに着いたとき、わたしたちの身に少しの休みもなく、さまざまの患難に会い、外には戦い、内には恐れがあった。
7:6
しかるに、うちしおれている者を慰める神は、テトスの到来によって、わたしたちを慰めて下さった。
7:7
ただ彼の到来によるばかりではなく、彼があなたがたから受けたその慰めをもって、慰めて下さった。すなわち、あなたがたがわたしを慕っていること、嘆いていること、またわたしに対して熱心であることを知らせてくれたので、わたしの喜びはいよいよ増し加わったのである。
7:8
そこで、たとい、あの手紙であなたがたを悲しませたとしても、わたしはそれを悔いていない。あの手紙がしばらくの間ではあるが、あなたがたを悲しませたのを見て悔いたとしても、
7:9
今は喜んでいる。それは、あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めるに至ったからである。あなたがたがそのように悲しんだのは、神のみこころに添うたことであって、わたしたちからはなんの損害も受けなかったのである。
7:10
神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。
7:11
見よ、神のみこころに添うたその悲しみが、どんなにか熱情をあなたがたに起させたことか。また、弁明、義憤、恐れ、愛慕、熱意、それから処罰に至らせたことか。あなたがたはあの問題については、すべての点において潔白であることを証明したのである。
7:12
だから、わたしがあなたがたに書きおくったのは、不義をした人のためでも、不義を受けた人のためでもなく、わたしたちに対するあなたがたの熱情が、神の前にあなたがたの間で明らかになるためである。
7:13
こういうわけで、わたしたちは慰められたのである。これらの慰めの上にテトスの喜びが加わって、わたしたちはなおいっそう喜んだ。彼があなたがた一同によって安心させられたからである。 7
 (2コリント7:5―13、新約聖書)
 
パウロは、苦難を苦難として書いています。そして、それが慰められたことを具体的に書いて、喜びを表しています。一方、今まで、彼、シャローム氏の文章は、まるで、下手な演出のように、喜びであるために苦難であることが前提なので、苦難の多くを隠して、ぼかして書き、終わりはいつも、信仰があればこうなるとばかり、深みのないハッピーエンドの美辞麗句の讃美にしてしまうのです。
 
最初から、幸福が前提となっていると分かる、例えば、水戸黄門のようなワンパターンを何よりも好んで描くのです。だから、当然、信仰の現実においては、書けないことがいっぱいあります。そこを、書くことをしなかったことのために、彼は、救いでも平安でもなく、偽善と隠蔽による捏造された平安に堕ちてきたのです。
 
 (コリント人への第二の手紙、口語訳)
4:7
しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。
4:8
わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。
4:9
迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。
4:10
いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
4:11
わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。
 (2コリント4:7―11、新約聖書)
 
土の器というのも、人間を比喩した言葉で、深い意味があるのだろうけれど、それは、これからも求めてゆく問題だろうと思っています。求める姿勢を語ることが大切なのに、すでに獲得した話をしたがるのが、彼、シャローム氏です。だから、求め方を間違っていることにも気づかず、何を語っても、与えられた土の器とは、かけ離れたものになってゆくのです。
 
彼、シャローム氏の土の器は、とうに割れてしまっていると思います。何故なら、信仰者の歩みとっして不可欠な、反省をせず、双方向の遣り取りも捨て、非を認める器を壊し、罪を認める器を壊して、悔い改めなくても救われると繰り返して、ますます離れてしまっているからです。
 
彼の砕け散った土の器は、平安、平安と、念じながら、散らばった欠片だけが、ぴくぴくと痙攣しながら元の器の形骸を幻に見て、追いかけては、拾って、取り憑かれたように、ジグソーパズルのように言葉面の欠片を並べているのです。まるで、自分の罪など気にしなくても、正解の完成形があるかのように。
 
絶えず死に渡されている、という聖句も、彼、シャローム氏は、実感がないのに、十字架で自分も死んだから罪はない、という妄想と同様に、極めて気安く書いてしまうことになります。キリスト信仰の大事なものが、どんどん去ってゆくというのに、なぜか、彼自身だけが気づかないのです。そして、聖句を並べては、悦に入り、聖句フェチとして自己満足してしまうのでしょう。
 
 (コリント人への第二の手紙、口語訳)
4:12
こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。
4:13
「わたしは信じた。それゆえに語った」としるしてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語るのである。
4:14
それは、主イエスをよみがえらせたかたが、わたしたちをもイエスと共によみがえらせ、そして、あなたがたと共にみまえに立たせて下さることを、知っているからである。
4:15
すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。
4:16
だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。
4:17
なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
4:18
わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。
 (2コリント4:12―18、新約聖書)
 
18節の、見えないものに目を注ぐ、とは、逆説的な表現ですが、彼、シャローム氏のような人は、こういう表現さえも、ろくに理解しないで、勢いよく、そのまま、言ってしまうのでしょうね。前に、同じパウロの、弱さを誇る、という聖句と同じように、彼は、自分は弱さを誇るのです、見えないものに目を注ぐのです、などと信仰について、うれしそうに、自分の持ち物を誇るように、見えない隠蔽工作を施すように。
 
迫害の時代のキリスト者が受けた艱難は、軽くはなかったでしょう。しかし、艱難は働いて、永遠の重い栄光を得させることがある、と書いてあります。艱難を試練として受け取れば、その苦悩が恵みに変わることもあるということでしょうが、迫害の時代でもないのに、苦悩など何にも負わないで、罪も気にせず、救われたことばかり、有難がって讃美している彼、シャローム氏のような人は、どうなるのでしょう。
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
4:19
しかし主のみこころであれば、わたしはすぐにでもあなたがたの所に行って、高ぶっている者たちの言葉ではなく、その力を見せてもらおう。
4:20
神の国は言葉ではなく、力である。
4:21
あなたがたは、どちらを望むのか。わたしがむちをもって、あなたがたの所に行くことか、それとも、愛と柔和な心とをもって行くことであるか。
 (1コリント4:19―20、新約聖書)
 
彼、シャローム氏は、高ぶりながら、信仰のつもりの言葉を声高に語るのですが、信仰の力を見せたことがありません。恐らく、信仰の愛と柔和の心なんて知っているとは思えないし、今まで施したこともないと思います。それだけでなく、彼は、信仰の愛と柔和を捨ててきたのだと思います。それに代わる形骸だけをそろえて、愛と柔和のつもりになるから、こうなっているのでしょう。
 
彼が信仰と呼んでいるものは、無罪妄想にしても、悔い改めをしないことについても、信仰と考えると矛盾することばかりで出来ています。それらが前提となっているのです。愛と柔和に見せかけた丁寧語と聖書語のちり紙をねじり、まわし、こすり、やぶりながら、彼は、誰とも意見の遣り取りをせずに、彼にとって苦い意見に対しては、安い力で、気安い力で、無視の虫の力と、無恥の鞭の力で、ただちに排除してきたのです。いずれ、いつか、神の裁きの力が及んで、山を動かすときまで、そうするのでしょう・・。
 
言葉面にこだわる者は、神が、あれ、と言えば、ある、というように、天地創造したのは神の言葉だと言い、また、ここでは、神の国は言葉ではなく、力である、と書いてあるので、救いは力だ、と強調したいのでしょうか。何にも分かっていないということでしょう。超常信仰者たちは、御言葉だからと、言葉面にこだわって、何か特別の秘義や奥義が分かっているかのように、大仰に、聖書の言葉を振り回して、納得しているふりをして見せるのです。
 
誤解してほしくないのは、私は分かっているという意味ではないのです。せいぜい、神の言葉は天地を創造するほどの力であり、神の力は聖書の御言葉になるくらいの言葉であるのだろう、といったところでしょうか。神の言葉である聖書の言葉を、人間はそれほど理解してはいないという自覚が私にはあります。だから、信仰は境地ではなく、信仰は道であり、現在進行形であり、つまり、信仰者の進む姿を神に見てもらうことであります。
 
だからこそ、キリストの言葉は、人々が目の前にいたころも、この地上にいない今も、説得力があるのです。奇跡であってもなくても、こういう人が二千年前にいて、今も見ておられるなら、パリサイ人の偽善を暴き、信仰など分かっていなくても謙る心を持っている人を赦す御方を、私は、甚だ不十分だけれど目一杯、唯一の希望として仰いでゆきたいのです。
 
 
(2017年04月24日)
(2017年04月25日、一部修正)
 
あかし(証し、証)
大仰(おおぎょう)
暴く(あばく)
謙る(へりくだる、遜る)
痙攣(けいれん)
形骸(けいがい)
甚だ(はなはだ)
 
 
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