平凡と退屈
 
 「平凡をもって貴し」となす (2012.4.16)
 2017/4/26(水) 午後 6:10
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28057648.html
 
 転載元:shirasagikaraの日記
 転載元記事:2012-04-16 「平凡をもって貴し」となす
 
http://d.hatena.ne.jp/shirasagikara/20120416
 
 
今回の転載記事は、興味深い部分を含んでいると思ったら、考えているうちに、違ってきました。彼、シャローム氏は、恐らく、自分を決めつけるな・・というような意味で載せたのかもしれませんが、自分で弁明することはしないのです。人を、敵、味方、と決めつけて、その意見を削除したり、世辞で褒め上げたりするのが、習癖になっているところの、彼、シャローム氏の、転載意図など考えながら書いてみます。
 
>「朝日新聞」は4月12日(木)夕刊で、
>9日付け夕刊に関西電力関係記事に誤報があったと謝罪した。
>テレビや新聞は、日本や世界の出来事を報道する。
>その報道は事実を伝えようと努力する。
>しかし、ときには誤報もあるし、その事実にも二つの問題がある。
>ひとつは公平な報道といいながら、記者やデスクの主観がはいること。
>もう一つは、事件性がないと面白くないから、
>平凡なことは無視されるということだ。
 
>むかし国会議員相手に仕事をしていたころ、議員会館のその部屋に呼ばれて、
>議員から当時の進歩的文化人と言われた学者、評論家100名ばかりのリストを
>わたされた。
>そして、このうちだれが左翼か、最左翼か、中間かマークしてくれといわれた。
>わたしは「立場上できません」と辞退し上司に報告して了承を得た。
>人を左右に色分けすることは、自分自身が計られることだ。
>「この方は左翼でない」といえば、わたし自身左がかっていると見られ。
>「この方は右です」といえば、わたし自身左の立場になる。
>新聞も公正な報道といいながら、記者やデスクの主観で取材の取捨大小が異なる。
 
これは、人間としての立場や考えの相対性を言っています。右か左かは、それなりの活動の実態から推測するわけでしょうけれど、避けがたい人脈の柵もあるかもしれないし、決め付けてはいけないだろうし、また人間が変わらないとも限らないのです。こういうことはしないで、平凡に過ごしなさい、という教えならば、否でありますが、安易な決めつけ、つまりレッテル貼りを戒めているのでしょう。
 
ここで申し上げておきますが、彼、シャローム氏は、批判者に対して、精神の病という決めつけで、去らせようとしてきたことがあります。
 
例えば、私に対しては、幼児期の虐待によって虐待者になっていると言いました。私は、虐待を受けたことはありませんし、また何より、彼に、私の幼児期のことなど話したこともありません。
 
また、私が彼に依存していて、依存に自分が答えないことを恨んでいる、というようなことも言いました。聖書に詳しいのだろうと彼を信頼していた数年間がありますが、冗談じゃありません。彼は、いったいどれだけ自分が依存されるような、頼りがいのある人物に見られていると思っているのでしょう。その頃、数年前、私は50代後半でしたし、これはとても気持ちの悪いことでした。事例としては、他にもありますが、この辺にしておきます。私の怒りは、彼の反信仰です。彼は、異常です。
 
シャローム氏は、依存の問題に興味があるようです。推測ですが、それは、彼の教えの異常さに気づく人が過去にも結構いたからではないかと推測します。そこで、彼は、それを反省することなく相手のせいにして、相手のどこが問題かを分かりもしないのに付け焼刃で決めつけてしまったのでしょう。・・ここに何が欠けているか・・、彼は、依存されてしまったという思い込みの意識において、自分の失敗について考えない、つまり、彼は、自分のどこに問題があるかを、全く考えない人なのです。
 
彼は、神に対しても人に対しても、非を認めません、罪を認めません、本気で謝罪することがありません。彼の祈りは、彼の記事と同様、救われた感謝と讃美だけと言ってもいいでしょう。それが、彼の思い込みの無罪信仰なのです。
 
シャローム氏は、自分が決め付けられていると思っているのでしょうか。政治的には、彼は、右でも左でもありません。ただの気分屋という印象です。思想を構築するような節度のある思考を、彼は、その強烈な思い込みによって失ってしまったのでしょう。
 
だから、シャローム氏は、以前は、この世の悪をボロクソに言って、あらゆる政治的問題に、その悪が生じる根源を、自分と同じキリスト信仰?を持っていないからだ、という短絡的結論を、何度も何度も貼り付けていたのです。書いてどうなるんだと言いたくなるような、それが彼の見解なのです。自分を、あらゆる悪から、きっぱり除外しています。ここまで、自分の悪と罪を、無視できるとは、いったい、何様のつもりだろう、と思ったのを記憶しています。
 
>一方、家庭にしても、会社や学校にしても、主婦や、社員や、先生が、
>コツコツ努力を積み重ねていることは、ありふれて、平凡で、
>面白くも、なんともない。新聞ネタにならない。
>しかし毎日、社会を支えているのはこの平凡な営みだ。
>しかもそれが社会の営みの圧倒的な部分を占める。
>地震、津波、原発事故で、シコシコ一所懸命に努力している平凡な方たちは
>話題にならない。しかし平凡が日本と世界を支えている。
 
平凡が尊い、と言いたいのでしょうか。平凡はつまらない、ということに対する戒めなのでしょうか。では、平凡でないことは、異常でしょうか。志のために、平凡な人生を犠牲にしている人もいるわけですが。平凡と、平凡に見えることを、混同してはいないでしょうか。日本と世界を支えている、と言うのなら、それは日々の努力であって、平凡という言葉では表せないはずです。
 
また、災害からの立ち直りは平凡でしょうか。いったい何を平凡で尊いと言うのでしょう。そんなに平凡というのが、ちょっと見ただけで簡単に分かるのでしょうか。平凡を見つけることは、転載元にとって、同意して転載しているシャローム氏にとって、そんなに、たやすいのでしょうか。人は、意図せず、しばしば、非凡にならざるを得ないことさえあるのですが。
 
日頃、説教や記事で、大仰に、キリストやパウロや、驚くべき奇跡の話をしていながら、お前たちは、文句を言わず平凡に働け、とでも言うつもりでしょうか。前の「愚痴る牧師たち」といい、この転載元は、相当、傲慢な感じがします。
 
>教会活動もその通り。牧師の説教や、奏楽者の演奏は目につくが、
>会計事務や、会堂の清掃、会食の準備、印刷物の発送など
>さまざまな雑用がわんさかある。それを何事もなかったかのように、
>静かに毎週つづけられる平凡な働きがあって、教会活動は進むのだ。
 
それは、日常の務めであって、毎日やっているからといって、平凡の枠に入れることは出来ないと思います。いわゆるマンネリに感じることであって、平凡にしないための努力を怠っているのではないか、という感じさえします。
 
例えば、信仰に不可欠な、祈りは平凡でしょうか。型通りの祈りしかしていない人にとっては、平凡というより、退屈かもしれません。神に捧げる自分の正直な言葉を失っている人は、祈っても、説教しても、記事を書いても、転載しても、退屈という名の平凡になるのでしょう。それを尊い、という前に、努めることがあるとは考えないのでしょうか。
 
>キリスト信徒の生活もそうだ。毎日の繰り返しの平凡のなかに、
>神のただならぬ恩寵を見つけるのだ。「平凡をもって貴し」としよう。
 
平凡の中に平凡でないことを見つける、という妙なことを言っているようですが、神のただならぬ恩寵を見つけるのなら、それは平凡ではないはずです。望みを得ることが長びくときは、心を悩ます、ということか、ただ、平凡に、また、退屈に感じて、倦怠しているのでしょう。いかに、変化も成長もない世界に埋没しているか、ということでしょう。
 
 (箴言、口語訳)
13:10
高ぶりはただ争いを生じる、
勧告をきく者は知恵がある。
13:11
急いで得た富は減る、
少しずつたくわえる者はそれを増すことができる。
13:12
望みを得ることが長びくときは、心を悩ます、
願いがかなうときは、命の木を得たようだ。
 (箴言13:10―12、旧約聖書)
 
彼、シャローム氏の唱える世界は、何も文句を言わず、何も考えず、何も感じないで、いつも感謝し絶えず讃美することを強いているわけだから、大方、退屈さを、神の平安と呼んで、平凡が大事、などと思い込むしかなくなるのでしょう。祈りで神に世辞ばかり言って、正直な祈りを知らない者の言だと思います。
 
>「平穏で落ち着いた生活を送る」
>(第1テモテ2・2)
 
これは、平凡なのでしょうか。戦争と迫害の時代を生きた信仰者たちは、平穏で落ち着いた生活を送ることは悲願であり、少なくとも、平凡ではなかったと思いますが。
 
新共同訳1987
2:2 王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。
新改訳1970
2:2 それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。
口語訳1955
2:2 それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。
http://bbbible.com/bbb/bbb1t02.html#1tm2.1-7
 
平凡とは書いていませんね。政治と社会の収束する目標と言うべきだと私が思っているところの、生存権の恒久的実現は、すべての時代において悲願であります。それが侵されてきたのが、人類の歴史なのです。転載者は、いったい、いかなる時代の、いかなる国に、生きているのでしょうか。平凡などではなく、転載者も、シャローム氏も、信仰における怠慢を、信仰のせいにして、その合理化のために、平凡が大切などと言っているようです。
 
 (テモテの第一の手紙、口語訳)
2:1
そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。
2:2
それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。
2:3
これは、わたしたちの救主である神のみまえに良いことであり、また、みこころにかなうことである。
2:4
神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。
2:5
神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。
2:6
彼は、すべての人のあがないとしてご自身をささげられたが、それは、定められた時になされたあかしにほかならない。
2:7
そのために、わたしは立てられて宣教者、使徒となり(わたしは真実を言っている、偽ってはいない)、また異邦人に信仰と真理とを教える教師となったのである。
 (1テモテ2:2-7、新約聖書)
 
神が望んでおられること、仲保者であるキリストの贖いが証しであること、使徒の役目が書いてあります。言っておきますが、贖いが証しとは、贖いが済んで今は無罪という意味ではありません。二千年前に贖われたから、あとずっと、今の信仰者の生涯も罪を気にしなくていい、ということでは決してありません。証しとは、証拠です。キリストは罪を贖う主である、という証拠です。それぞれの人とキリストの関係は、それぞれの時に築かれて、導きによって、成長を期待されているのです。
 
聖書には、平凡という言葉は見つからなかったのですが、私の持っている聖書には載っていなくて、ネット検索してみると、外典?になっているらしいマカバイ記という名の書に、次のようなことが書いてあるそうです。なんか、身につまされる感じなので引用しておきます。
 
(1:マカバイ記二/ 15章 38節)
もしこの物語の編集が巧みで要領を得ているなら、それはわたしの喜ぶところである。しかし、つたなく平凡であるとすれば、それはわたしの力が及ばなかったのである。
 
努力が及ばない、というより、努力する気もなく、的外れの盲信の訂正不能を、無視の力による不感不応で、自分の無罪を唱えて信仰だと思ってしまうような、彼、シャローム氏の書いた文章を、どうぞ読んでください。ただ、決して好意的に関わってはいけません。受け入れてしまうと、退屈を尊い信仰と呼ぶことになりかねません。
 
 
(2017年04月27日、同日一部修正)
 
柵(しがらみ)
 
 
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