ちんぷんかんぷん
 
 その名は不思議
 永遠の〈なんじ〉に接して〈われ〉となる
 2017/5/9(火) 午前 7:35
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28076752.html
 
 転載元:永遠のいのち
 転載元記事;第二百六十六回
 冒頭:神学、宗教哲学(4) ブーバー(2)
 2017/5/8(月) 午前 9:51
 
https://blogs.yahoo.co.jp/gonchanoosaka
 
 
マルティン・ブーバー(Martin Buber, 1878年2月8日 - 1965年6月13日)はオーストリア出身のユダヤ系宗教哲学者、社会学者。1923年に主著となる『我と汝』を上梓した。1938年にエルサレムに移住しヘブライ大学で人類学と社会学を講じた。(ウィキペディアより抜粋)
 
シャローム氏というのは、恐ろしい人で、分からないことを分かったふうに言って、誉めて、笑って、いかにも聖職者であるかのように、余裕ありげに振る舞うことで、処世してきた人です。このように、偽りの顔を持っている者は、牧師という職責には、誰よりも不適であると言えるでしょう。今回の哲学的文章は、彼には、ちんぷんかんぷんでしょう。誉めれば相手は許容してくれることを知っているのです。煙に巻く、という、煙、として、利用しているだけなのです。彼が、この記事について説明することはないでしょう。もしあったら、誰にも分からない、ちんぷんかんぷん、を出してくるだけになるでしょう。ちんぷんかんぷん、さえも利用するのです。
 
私はと言えば、この文章は難解ですし、難解だぞ、と文章が言っているような気さえします。こうやって、私は、この文章を説明を試み、シャローム氏の意図を明らかにしたいのですが、うち続く、彼の無遠慮な投稿によって、私は、ちんぷんかんぷんになるかもしれません。
 

われわれの世界にあって、それぞれの〈なんじ〉が〈それ〉とならなければならないということ、これはわれわれの運命の高貴な悲しみである。〈なんじ〉は直接の関係の中で絶対的に現存しようとも、この関係が完全に能力を発揮し終わるか、または間接的な手段がはいってくるとともに、〈なんじ〉は諸対象の中の一対象となってしまう。

 
高貴な悲しみを、下種の勘繰りに変えてしまうのが、彼、シャローム氏です。彼は、自分にとって都合の良いものを何でも利用します。呆れるほど逆方向のシンプルな詭弁によって、聖書の言葉を悪用して、自らの無罪妄想を正当化しようとする、彼、シャローム氏は、はっきり言って、哲学を理解できるとは思えません。基本的なキリスト教の教理さえも、理解できず、曲げてしまって、言い張る男です。しかも、始末が悪いのは、それを、牧師然として装って、神のために、人に伝えることが出来ると思っていることです。
 
そういう者は、人の言葉で表そうとすると、神が諸対象の中の一対象となってしまうことを、永遠に理解しないでしょう。彼は、自分を見ようとしないし、人間を見ようとしないし、人間の言葉の性質を考えようとしないのです。だから、彼は、この転載記事を、呪文のように受け取るでしょう。真摯に理解に努める謙虚な姿勢など、まるで持っていないのに、見栄だけは張りたいのです。
 

むろん相当重要な対象となることもあろうが、しかし、一定の標準と限界とに限定された一対象となるのである。作品の実現は、別の意味で、作品の現実喪失を意味する。純粋直観はきわめて短い。

 
感動して、分かったと思う瞬間は、あまりにも短いのです。信仰についても、感動は過ぎ去り、そのときの言葉は、しがみつけば、しがみつくほどに、信じる者に無味を与えます。ここで、そんなはずはない、と思ってしまうような、シャローム氏のような偽信仰者は、その事実を受け入れず、感動を、実感のない言葉面だけで捏造し、安い讃美に変えてしまうのです。そのとき、無味は、現実を喪失して、魔界の呪文と化して、人に従順を強いるでしょう。彼ほど、偽善によって文章をおとしめる人はいないと思います。
 

交互活動の神秘の中で瞬間的にわたしに打ち明けられた自然的存在の本質は、ふたたび記述し、分析し、分類できるものとなり、交差する無数の法則の一点となる。愛すらも直接の関係を保ちがたい。愛は持続する、しかし、現実性と可能性の交替の中に持続する。

 
双方向の神秘との遣り取りは、再び記述し、分析し、分類できるものとなるでしょうか。この文は、交互活動の神秘を信じることを一見肯定しているように見えますが、実は、肯定してはいないと思います。もし肯定なら、信仰は、交差する無数の法則の一点となってよいのでしょうか、否であります。これは、甚だ疑問です。
 
愛すらも直接の関係を保ちがたい、と言っているのに、シャローム氏は、神が自分をストーカーのように愛すると言っていました。そして、被愛妄想の無罪信仰をでっちあげているのです。現実性と可能性の後退の中に持続する、というのは、可能性に過ぎないものを、現実だと言い張ると、シャロームのような妄想家になってしまうということでしょう。
 

現実的にあるのではないが、現存し、経験できるものではないが、ただ触れることのできるものであった唯一独自の〈なんじ〉としての相手が、今や再び〈彼〉あるいは〈彼女〉となり、個性の総体と形状をもつ一定の量に変わる。今やわたしは、相手の人間から、再び髪の色や話しぶり、人柄などを取り出すことができるようになる。しかし、わたしがそうしているかぎり、その相手はもはやわたしの〈なんじ〉ではなく、また〈なんじ〉となることもない。

 
神を言葉で表し讃美しまくる、ということも可能だ、しかし、その相手は、もはや神ではない対象になっている、という意味に受け取っておきます。
 
>この世におけるすべての〈なんじ〉は、本質上、
>ものとなり、あるいは、ものとならなければならぬように定まっている。
 
これは、シャローム氏がするように、神をモノ化することによって、自由にモノとして利用し、自らの悪の正当化の道具としていることを言っていると・・一応、思っておきます。別の言い方をすれば、神を、概念化、または、イメージ化して、信じれば、それは人の持ち物になるが、持ち物は、もはや、自分に語りかけ、あるとき、感動させたところの神ではない、ということです。
 

客観的表現をとっていうならば、この世のすべてのものは、ものとなる以前か以後に、〈なんじ〉として〈われ〉に現れるのである。しかし、このような客観的表現は、真の生活の断片を一瞥するにすぎない。

 
これは、分かりにくいことを言っています。人と神の根源語において、客観的表現は、一瞥、瞬間であるに過ぎない、ということ、つまり、捉えがたい、という言葉を使っておきます。それが、人の住んでいる世界であり、真の生活とは一線を画すものなのでしょう。
 

〈それ〉は永遠の蛹(さなぎ)であり、〈なんじ〉は永遠の蝶である。ただ双方がかならずしも、明確に交替するとはきまっておらず、時おり二重にもつれ合った現象を呈することがある

 
人は永遠の蛹であり、神は永遠の蝶である、という比喩を用いています。その関係は、モノ化したとき、永遠に到達できないだけでなく、シャローム氏の信仰の分かったつもりの常態のように、人間らしい理解にとっては、有害な曲解にしかなりえず、もつれ合った現象となっても整っていると言い張るようになるのです。
 

そして<〈なんじ〉として〈われ〉に現れる>のは、一瞥であり、その<純粋直観はきわめて短い>とも言います。確かにこの世は物質の世界ですから大部分の時間では、私たちにとって〈なんじ〉は、人間であれ動物・植物であれ、ものである〈それ〉であり、〈なんじ〉となるのは、すなわち、私たちが人格的な関係を実感できるのは、ほんの一瞬ということなのでしょう。

 
概念化、イメージ化、という、人の避けられない操作によって、神は、モノ化し、最悪の場合、偶像と化してゆくのです。その後の現象は、シャローム氏について書いた、私の批判記事を参照してほしいのですが、神とは、おおよそ、異なった妄想が信条となってゆくでしょう。それを、改めるのは、一時のことでは、できません。つまり、日頃から偶像の存在を認めて、折に触れて、感動も、感動しない自分も、見つめなければならず、そうしても、それは、客観に到達できるということではなく、ただ、不全なる人間としての努力になるでしょう。修正可能、これが、人間にとって、信仰を思考するうえでの唯一のエッセンスであります。そして、訂正不能、これが、信仰の致命的な猛毒なのです。
 

「人間は〈なんじ〉に接して〈われ〉となる。向かい合う相手は現われて、消えてゆく。関係の出来事が集っては、散ってゆく」とあります。ここでは〈われ〉というものも、客観的に見るということなのでしょう。

 
これは、われというものを、客観的に見ることは出来ない、ということだと思います。
 

そして私たちは「やがて〈われ〉を自己の所有物として把握し、それ以後、意識的に自己自身との関係にはいるようになるのである」とブーバーは言います。

 
そんなに簡単な説明で納得できるでしょうか。ここにも、何かできる、という書き方にしようと思っている人がいるようです。われを自己の所有物としたつもりでも、それは成っておらず、われを把握することは出来ないのです。そんなことで、意識的に自己自身との関係に入ることなど、できないと思いますよ。
 

ごんチャンは、このようにこの世では一瞬でしか感じられない〈なんじ〉と〈われ〉の関係を永続させるために、イエス様は一つになるということを言われたのだと思いました。

 
信仰を哲学で語る、という無謀な方法を取る人は、どこかで折り合いを付けようとする意図が見え見えになっています。キリストは、哲学を語りましたか、哲学が理解できる人だけに、福音を宣べ伝えましたか。
 

「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。(ヨハネ一七・21)」。これが永遠の命の最終的な姿なのでしょうね。

 
哲学を気取って、哲学風に語って、結論として、神と人が一体になる、みたいな聖句に結び付ける・・・あざといのです、強引だということです。哲学は、キリスト教のためにあるのではありません。人の知恵としての哲学は、キリストを語るためにあるのではありません。人間に可能な存在認識の限界へ向かって、危ない橋であろうと、安易な処世であろうと、折り目正しく切っては、口で言える言語にしてゆく作業は、聖書の神秘を語るためにあるのではありません。思い上がった辻褄合わせでしょう。
 
哲学は、人を見るための知恵、自分を見るための知恵です。哲学の立場から神を見ることは出来ません。哲学の立場から信仰を見ることが出来るのは、哲学が人のいろいろな嘘を見つけて表すのに有用だから、という理由によるのです。また、信仰の立場から、哲学を覗くことも、同様の理由のみによるでしょう。それ以外は、哲学的言辞を用いても、信仰を飾ることにしかならないと思います。
 
 
(2017年05月11日、同日一部修正)
 
褒める(ほめる、誉める)
捏造(ねつぞう)
蛹(さなぎ)
 
 
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