奥義?
 
 その名は不思議
 福音はキリスト・イエス ロマ16:25~27
 2017/5/10(水) 午前 9:40
 https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28078205.html
 
 転載元:生活の中の聖書
 転載元記事:ローマ16:25~27ー福音はキリスト・イエス!
 2010/12/14(火) 午後 0:50
 https://blogs.yahoo.co.jp/jc_brother/26771756.html
 
 
無罪信仰の過ちを認めず、神への反逆が見え見えになっていても、それが神の義だという妄想に陶酔して訂正不能の彼、シャローム氏が、転載記事を選べば、否応なしに、讃美一辺倒の甘い記事になるという必然があります。シャローム氏にとっては、自分が考えることが出来ないものだから、信仰において、そこに人間の思慮があってはならないという教義?なのです。その無思慮の不感不応の讃美こそが、シャローム氏の無罪妄想の本質だからです。したがって、彼の記事は、讃美だけの信仰の記事、誰も文句が言えないことを狙った難しい記事、政治にも関心があると知識人に見せかける政治の記事、というところが、今の彼のブログの特徴になっています。
 
何度も言ってきたように、彼は、キリスト者ではありません。キリスト信仰に見せかけた自分信仰者です。また、彼は、自己中心の権威主義者であり、決して民主主義者ではありません。彼は、議論が出来ません。彼は、文脈の考察が出来ません。彼は、言葉の深い意味が理解できません。彼は、受けて書くということが一切できません。
 
彼は、勝手なことを言うだけの自己満悦なので、おびただしいコメントを平気で削除し、結局、すべてのコメント欄を平気で閉鎖しています。批判されても、揺るがないのは、受け止める人間性がないからです。彼の近くに寄ってはいけません。彼に触れてはいけません。彼の偽善は伝染性です。丁寧語と聖書語を武器にして惑わします。この記事の転載元も、転載を断ろうとしないようですから、感染した一人なのかもしれません。
 

私の福音とイエス・キリストの宣教によって、すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが、今や現わされて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを堅く立たせることができる方、知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン。

 
これは、転載元の祈りではなく、タイトルに示されている聖句、パウロの書簡の末尾です。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
16:25 16:26
願わくは、わたしの福音とイエス・キリストの宣教とにより、かつ、長き世々にわたって、隠されていたが、今やあらわされ、預言の書をとおして、永遠の神の命令に従い、信仰の従順に至らせるために、もろもろの国人に告げ知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを力づけることのできるかた、16:27
すなわち、唯一の知恵深き神に、イエス・キリストにより、栄光が永遠より永遠にあるように、アァメン。
 (ローマ16:25,26、新約聖書)
 
今回の記事には、特に、コメントするところが、今のところ見つかりません。何故なら、教理通り、聖書のストーリーを、なぞっているだけだからです。前の記事のブーバーのところで述べたように、ブーバーを理解できるわけではありませんが、私の見方として、神について書くときに、人間を書かないところには、人間に理解可能ないかなる神聖に関わることも表されては来ない、と書いた通りです。
 
人間として考えるということを通して、信じ仰ぐ主体である人間を書かない限り、すなわち、救いを求める人間を書かない限り、信じ仰ぐ対象であり、救いの主体である神は表れないのです。神を、口酸っぱく何度も讃美して書くのが、偽善者シャローム氏の筆致ですが、その分、自分を見ることが出来ず、罪を見つめることも認めることも出来ず、よって、祈りによって、自分の、遜った在り方、という、神に捧げる最も大事な捧げものが台無しになっているのです。文字通り、捧げものを置く台が無いのです。捧げものとは、祈る私たち自身であり、その信仰と、その結果のことです。
 
シャローム氏に、信仰の体質が似ている者たちは、神を、やたら、ほめたたえる讃美が多いという特徴を持ちます。それは、深く掘り下げる思考を持たず、神の言葉だからと、信仰に関する言葉や聖句についても、超常の言葉面を分かりもせず、分からないとも言えず、考えもなしに肯定して、鵜呑みにしているところから来ています。そうなると、人間に関心がなくなり、神について書こうと思っても、自分の本当の気持ちではなく、自分で勝手に、これは言ってはいけない、というのを決めつけていて、神に対して、本音を書かずに、自分はこんなに信じています、ということを言いたくて、こともあろうに、神に対するお世辞を語ることになり、つまるところ、讃美しか書けなくなる必然があるからです。それよりは、まだ、自分を思い、人を思い、いたたまれずに、神に向かって叫んでいるほうが、よほど信仰らしい行為なのです。
 
神に対して、優等生になろうとするところには、偽善が入り込みやすい。求めてゆくものを、与えられたかのような予定調和の感謝に置き換えてしまうからだ。それは、神に対して世辞を当てるようなものだ。または、日々起こっていることを、超常話の奇跡に置き換えてしまうことになるからだ。そこには恐ろしいほどの神についての決めつけがある。
(日々の、衣食住や出会いなどの具体的な糧について感謝することは、話が別です)
 
使徒であり預言者であるパウロが奥義と言っていることを、読めば分かるような書物の主旨などと同様に扱ってはいけない。ここには神の啓示が直接に関わっていることを思い、恐れるべきである。神の前で、奥義を得た、などと言える者は一般の信徒にはいない。私たちは、神の下に平等な一般の民であって、使徒にも預言者にも及んではいない。
 
自分を、神によって特別の寵愛でも受けているかのように語る者を警戒するべきである。そういう者は、奇跡と同様、滅多に顕れないからだ。そのような、自分を神にとって特別と思っている偽善者の場合の特徴は、特別ではないのに、特別を装う言動である。異言、預言、啓示、聖霊体験、などの超常体験を振り回し、信仰の奥義なるものを語りたがるが、その実、その言葉に何の説得力もなく、隠れて罪を犯しているような場合である。キリスト教とキリスト信仰に見せかける者が蔓延っている。近づいて好意的に関わってはいけない。
 
 
さて、他者の信仰と信仰観を批判している者を、紛れもなく私はその一人だが、どう考えるかだが、そのような批判をする者も信徒の一人であることに変わりはない。したがって、神の絶対は、そこにはない。したがって、その者が行う批判の正しさは相対的であって、その者に対して、説得力のある反論が為された場合には、その者は、修正可能をもって訂正し、革新し成長しなくてはならない。つまり、批判者は、人間であるから、交わりの双方向によって、いわば民主主義的に、修正可能、訂正可能、学習可能、成長可能であり、その者の意見の正しさは、その時点において、納得させる反論がないことによって、保たれる。それと、その者本人もまた、神の民の一人に過ぎないのだから、神によって義とされるかどうかは、最終的な神の裁きに委ねられることは言うまでもない。
 
 
(2017年05月12日)
 
奥義(おうぎ)
遜る(へりくだる、謙る)
 
 
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