ペロッと舌を出すような
 
 その名は不思議
 百歳も、きのうのごとし (2009.5.11)
 2017/5/12(金) 午前 7:31
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28081134.html
 
 転載元:shirasagikaraの日記
 転載元記事:2009-05-11 百歳も、きのうのごとし
 
http://d.hatena.ne.jp/shirasagikara/20090511
 
 
シャローム氏は、この記事を転載して、いったい、何が言いたいのでしょう。何かを言いたいのではなく、何も文句を言われないような空虚な記事を選んだのでしょうか。転載元の、戦時中の思い出話が大部分で、結びに、いい加減な讃美、すごい、の一言です。
 
>むかし日本陸軍にいて、完全武装で背嚢や小銃など30キロほどを担いで
>強行軍をした。とちゅう立ったままの小休止があった。
>そのときわたしが「きのうまた、かくてありけり」と、
>島崎藤村の「千曲川旅情のうた」の2番の切り出しを口ずさむと、
>すぐとなりの戦友が「きょうもまた、かくてありなん」とつづけた。
>ふたりは顔を見合わせてて笑い、
>「このいのち、なにをあくせく、あすをのみ、思いわずろう」と声を合わせた。
>その詩の最後は
>「いにし世を静かに思え、ももとせ(百歳)も、きのうのごとし」で結ばれる。
>若かったころ「ももとせも」と口ずさみつつ、100年は長いと感じた。
>当時、戦争でもうすぐ死ぬと覚悟していたから、
 
戦時中の従軍兵士の話は、壮絶な内容を持っています。しかし、ここに信仰の話は、まだ、ありません。ひょっとして、シャローム氏は、戦後生まれは批評できないだろう、ということでこの記事を載せたのでしょうか。だとすれば、信仰の話、福音伝道の話、という目的を、もう、放棄したいのでしょうか。ここに信仰の話は、まだ、ありません。
 
>100年はとてつもない長さだった。しかしこの正月、106歳の母を天に送って、
>100年も身近に考えられるようになった。
>「ああ100年前か、母が小学校入学のころだ」というふうに。
>たしかに100年は、長いようだが、ものごとの区切りとしてつかみやすい。
 
100年という長い歳月のことを語っています。私にとって、百年前は、母が生まれる6年前です。私が生まれる37年前です。長いですね・・。亡父は・・、計算が面倒なので、省略します。こういう話を聞くと、信徒は、先生が言ったのだからと、神妙になります。神妙ついでに、軽薄な讃美でも、頷くようになるのでしょう。シャローム氏は、そういうやり方を、今、使っているのでしょうか。信仰の話は、まだ、ありません。
 
>むかし百歳は、人間の寿命の上限と見られた。だから「上寿」とも呼んだ。
>しかしいまの日本は、どんどんこの限界を突破して、
>わが母のように106歳を越える方々が急増している。
>まさに「ももとせも、きのうのごとし」となった。
>100年を頭の中のことでなく、身近な区切りとしとらえられるのはいいことだ。
 
いいこととは、どのように、いいことなのでしょう。従軍の話は、話のネタに過ぎなかったようです。きのうのごとし、・・長いもんだ、の次は、早いもんだ、と書いて、・・、信仰の話は、まだ、ありません。
 
>歴史を100年単位でつかんでゆく。
>「20世紀初頭、イギリスが世界に覇をとなえたが、
>20世紀後半はアメリカとソ連が世界の雄となった。
>そして21世紀は」というふうに。すると日本と世界が別の風景に見える。
 
ここで歴史の話をしています。100年を2行だけ、そして、別の風景に見えると言って、あとは書かない。こういう、いい加減さを、どう読んだのか、シャローム氏は、継続的に溺愛しているようです。よほど、世話になったのでしょうか。転載元と、シャローム氏とは、体質的に、奇妙に酷似している。やはり、師なのでしょうか。
 
>グローバル化で世界のどこかで風邪がはやると世界中が感染し、
>長い100年も短くなった。
 
世界中が感染したでしょうか。そうでしょうか。疫病が世界的に広まる可能性もある、ということではないでしょうか。いたずらな誇張ではないでしょうか。それで、どうして、長い100年が短くなるのでしょう。100年で、こんなに変わるということでしょうか。交通手段が進歩して、旅行が容易になって、世界が狭くなったから、ということでしょうか。書いた目的は何なのでしょう。ここまで、信仰の話のない記事です。次は、もう結びになるのですが。
 
>しかし聖書は、天地創造から世界の終末までの見取り図を画いている。
>100年どころか億万年をひとつかみにしている。すごい本だ。
 
>「 そこには、もはや若死にする者も、年老いて長寿を満たさない者もなくなる。
>百歳で死ぬ者は若者とされ、百歳に達しない者は呪われた者とされる」
>(イザヤ65・20)
 
たった2行で、それも、すごい、という讃美だけで、最後に、それだけでは夢物語にしかならないような聖句をぽろっと書いて、読まず聞かず、言うだけは言う、今日も言うだけは言った、ということにして、シャローム氏は、福音伝道の義務を果たしたことにして、あとは、刺激をシャットアウトした環境で、神の平安のうちに過ごしています、とでも言うつもりでしょうか。いい加減なことを書いて、いい加減さを人に向けるよりは、書かないほうがマシだったのではないでしょうか。
 
信仰の話をしたつもりのようですが、天地創造から終末までを見取ることが出来るか、すでに見取って知っているかのような書き方です。今回の記事は、説明不十分と誇張が、目立つという感想です。すごい本だと、安易に聖書を讃えて、福音伝道でしょうか。書く必要があったでしょうか。転載する必要があったでしょうか。これによって、シャローム氏の、信仰の表現に対する態度が知れてくるでしょう。・・めんどくさいか、苦し紛れなのか、ペロッと舌を出すような信仰の話。
 
上の聖書の箇所を、もう少し見てみることにします。改行を省略してあります。
 
 (イザヤ書、口語訳)
65:1
わたしはわたしを求めなかった者に問われることを喜び、わたしを尋ねなかった者に見いだされることを喜んだ。わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、「わたしはここにいる、わたしはここにいる」と。
65:2
よからぬ道に歩み、自分の思いに従うそむける民に、わたしはひねもす手を伸べて招いた。
65:3
この民はまのあたり常にわたしを怒らせ、園の中で犠牲をささげ、かわらの上で香をたき、
65:4
墓場にすわり、ひそかな所にやどり、豚の肉を食らい、憎むべき物の、あつものをその器に盛って、
65:5
言う、「あなたはそこに立って、わたしに近づいてはならない。わたしはあなたと区別されたものだから」と。これらはわが鼻の煙、ひねもす燃える火である。
65:6
見よ、この事はわが前にしるされた、「わたしは黙っていないで報い返す。そうだ、わたしは彼らのふところに、
65:7
彼らの不義と、彼らの先祖たちの不義とを共に報い返す。彼らが山の上で香をたき、丘の上でわたしをそしったゆえ、わたしは彼らのさきのわざを量って、そのふところに返す」と主は言われる。
 ・・・
65:11
しかし主を捨て、わが聖なる山を忘れ、机を禍福の神に供え、混ぜ合わせた酒を盛って運命の神にささげるあなたがたよ、
65:12
わたしは、あなたがたをつるぎに渡すことに定めた。あなたがたは皆かがんでほふられる。あなたがたはわたしが呼んだときに答えず、わたしが語ったときに聞かず、わたしの目に悪い事をおこない、わたしの好まなかった事を選んだからだ」。
65:14
見よ、わがしもべたちは心の楽しみによって歌う、しかし、あなたがたは心の苦しみによって叫び、たましいの悩みによって泣き叫ぶ。
65:15
あなたがたの残す名はわが選んだ者には、のろいの文句となり、主なる神はあなたがたを殺される。しかし、おのれのしもべたちを、ほかの名をもって呼ばれる。
65:16
それゆえ、地にあっておのれのために祝福を求める者は、真実の神によっておのれの祝福を求め、地にあって誓う者は、真実の神をさして誓う。さきの悩みは忘れられて、とわが目から隠れうせるからである。
65:17
見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない。
 ・・・
65:20
わずか数日で死ぬみどりごと、おのが命の日を満たさない老人とは、もはやその中にいない。百歳で死ぬ者も、なお若い者とせられ、百歳で死ぬ者は、のろわれた罪びととされる。
 (イザヤ65:1―20抜粋、旧約聖書)
 
このように、夢みたいな楽園の話ではなく、その前に、従えばまた救うが、背けば懲らしめる、という、不義に対する戒めの神の厳しい言葉が語られている、ということが分かると思います。シャローム氏と、その仲間たちは、戒めの神も、懲らしめの神も、試練を与える神も、信じないので書かず、都合の良い、おめでたい箇所だけを引用して、すごい、と言うことが、信仰だと思っているようです。神を恐れず、不全の自覚と共感のない者は、無理に力むことしか出来ないのです。
 
 
シャローム氏の信仰は、結局、自己憐憫だと思えてきました。だから、傲慢が通用する間は、偉そうに振る舞い、通用しなくなると、批判される自分を憐れんで、時代錯誤的な少女趣味的な虐待被害者を自分に当てはめ、神が憐れんでくださると信じるのでしょう。だから、どんな失態を演じても、結局、自分がどこまでも被害者であると思い込んで、神との?密会?に慰めを得るという自慰なのでしょう。実際は、事あるごとに、神なき自我領域で、身勝手な自問をし、夢のような自答をして、ありがたや、ありがたや、と頷くことに、結び付けるのでしょう。それこそが大失態なのですが。
 
だから、その過程で、後ろを向いて、てへっと笑って、ペロッと舌を出すような、ふざけた行為も、他者を何とも思わなくて、恥とも思わなくて、できるのでしょうし、すべて、神の名のもとに、少女が軽い嘘をつくような乗りで、趣味的に、おふざけで、正当化できてしまうのでしょう。自立した心の個を持つ信仰ではなく、何かにすがり依存していないと何もできない老人が、内緒で、神におねだりしているような、情景を・・思い浮かべないほうがいいです・・。
 
 
(2017年05月13日、同日一部修正)
 
頷く(うなずく)
讃える(たたえる)
 
 
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