愛なき信仰
 
 その名は不思議
 ハンドルネーム:shalom
 人間の根本的な必要は・・・
 2017/5/13(土) 午前 8:11
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28082661.html
 
 
愛についての転載記事のようですが、人は、そして、自分は、しばしば愛することが出来ないでいる、ということが、大事です。これは、愛と信仰を考える上で、人の不全として、罪の自覚として、キリスト信仰に不可欠なことです。そこに言及しない説教というのは、信仰を説いたことにはならず、愛を書いたのではなく、愛を欠いたということになるでしょう。高らかに、または、やさしそうに、愛を唱える文章を、わざとらしく白々しい綺麗ごとのように感じたことのある人は多いと思います。
 
愛と信仰については、コリントの愛の讃歌から、私の次の記事にも書いています。
 
 「最後まで残るもの」
 2017/1/31(火) 午前 0:15
 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/18986629.html
 
少し引用しておきます。
 
>いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つだと言う。
>信仰には愛が必要で、希望にも愛が必要だから、
>このうちで最も大いなるものは、愛である、と思う。
 
信仰には、福音のストーリーがあります。そこには、罪の贖いという教理があります。そこにだけ、こだわった者は、教理を振り回しているうちに、温かい息と、瑞々しい潤いを、失ってゆきます。それは、愛を失うときの人の有様です。聖書の言葉を引用して、口を酸っぱくして、唱えても、そこに愛がなければ、すべては空しいと、パウロは言っています。
 
愛には、理屈は付きません。信仰の愛は、キリスト御自身からの愛において一致するのですが、教理の理屈にだけ、しがみつく者がいて、愛を盛んに唱えるけれども、昔読んだ詩の言葉「愛のうたには、なぜか、愛のことだけが書かれていない」という詩句を思い出すことがあります。
 
こうならないために、キリストは宣べ伝え、パウロは書いているのですが、愛の実相を問題としない有頂天超常信仰者は、騒がしいシンバルを盛んに鳴らすのです。
 
>人間の根本的な必要、ニーズは愛されることと、愛することだと言われます。
>子どもでも、高齢者でも愛されることを必要としています。
>また、人を愛することを通して、喜びや満足を得ます。
>人種、国境を超えて、人はそのように創造者によって造られています。
 
言うまでないことですが、総ての罪は、愛とは対立するところから生まれてきます。
 
>ところが、現実には、身近な必要な人から愛をもらえないためなのか、
>その満たされない心を、人は他の方法で満たそうとします。
>他のところに愛や慰めを求める人たちの中で、
>それによって依存症となっていく人たちもいます。
>アルコール依存症、薬物依存症、ギャンブル依存症、そして最近では、スマホ依存症です。
 
ひどいのになると、反対意見を述べる相手を、自分という人格に対する依存だと決めつけて、自分を見つめなさい、と言っただけで、アドバイスした気になる不埒者もいます。実際は、批判されることが嫌で嫌で、相手を怒らせて退かせようとしただけなのです。
 
>前回は、ガラテヤ5:22‐23に記されている御霊の実について見てきました。
>(御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制)
>その実にこそ、神のいのちが目に見えるように表されています。
>この9つの御霊の実は、実は、そのままイエス・キリストご自身を表しています。
>その御霊の実の最初は、なんと愛でした。
>そしてキリストは愛の人でした。
 
愛以外の8つは、愛から生まれてこそ、人を生かすものです。並列した場合、誤解しないようにしたいと思います。言葉を挙げただけで、神の命が目に見える、というのは、人の不全と罪を考えていないからでしょう。同じようにキリストは愛の人、というだけでは、信仰の美辞麗句に過ぎません。
 
>素晴らしい人、立派な人、尊敬できる人を愛することは難しくないかもしれません。
>しかし、イエスは問題もあり、失敗もした弟子たちを最後まで愛し通されました。
>また、ご自身が全人類の罪の贖いの犠牲となり、
>人には真似の出来ない究極の愛を表されました。
 
「問題があり失敗もした弟子たちを、イエスは、最後まで愛し通されました」と書くべきでしょう。それは句読点の問題に過ぎませんが、問題があり失敗もした弟子たち、というのは、また、私たちのことでもあります。自分を罪から除外してはいけません。
 
人には真似のできない、というのは、復活だけを意味しているのではなく、裏切る弟子たちのためにも、人々のためにも、ご自身の命を投げうったキリストの生涯を抜きにしては語れないことです。キリストへの裏切りは、私たちの問題です。弟子たちは愚かだったが、という傍観者からの視点には、決して立てないことを、忘れないでください。
 
愛と信仰を、聖句の言葉面だけで語り吹聴しながら、キリストの肉体の復活が事実だということは絶対に譲れない、などと自作の教理ベッタリで言い張りながら、人間とは思えないような、作為的侮辱によって反対者を退けて、強制力で削除と隠蔽と偽装工作を続けて悔いないままの、彼、シャローム氏のような人は、社交の世辞の丁寧語と言葉面だけの聖書語で無罪信仰を唱えていて、一度たりとも、愛を語ったことはない、ということを、彼の書いたものが明らかにしてきました。
 
>「過越の祭の前に、イエスは、
>この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、
>世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された」
>(新約・ヨハネによる福音書13章1節口語訳)
 
>愛とは何か。そうです。
>父なる神こそ、いのちの源であり、愛の源ですが、
>その愛がイエス・キリストに表されました。
>更に、その愛がイエス・キリストを通して、
>わたしたちイエスを信じる者にとどいてきました。
 
キリストの愛は、求める限り、拒否しない限り、私にも届いたと思っているから、総ての人に届き得るものなのでしょう。最も早い恵みは、他者からの自由、世間体や社会通念や強迫観念からの自由、祈ることによる絶対孤独からの自由です。
 
しかし、神からも、キリストからも、都合の良い美味しいところだけを受け取って、戒めや懲らしめの神を無視している、という信仰サイコパス的な自己中心の、ありがたや信仰の一つが、十字架の贖いによって罪は悔い改めなくても自動的に赦されているから気にしなくていい、という無罪信仰なのです。こういうことには、洗礼をうけかどうかは問題ではありません。聖なる体験の主張は、多くの場合、言い分けであることが多いために、根拠とは思わないほうがよいのです。
 
>父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。
>わたしの愛のうちにいなさい。(ヨハネ 15:9 口語訳)
 
このことを、邪心から、自分の内にはキリストがいるから正しいという確信に肥大化させ、あらゆる批判を、神の敵として葬り去って、素知らぬ顔で今もブログを書いているのが、彼、シャローム氏です。
 
>そして、希望は失望に終ることはない。
>なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、
>神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。(ロ-マ 5:5口語訳)
 
このことを、邪心から、自分は聖霊を体験を通して、聖霊の導きによって、神の啓示を受けているから、議論は無用であり、批判されるなどあり得ないと、訂正不能に確信して、不感不応の病的な境地を、神の平安だと言って、ありがたがっているのが、シャローム氏であります。これらのことは、今までにも述べてきましたが、批判の中心なので、これからも書くでしょう。
 
>本来自分にない、この条件つきでない愛を、
>主イエスを信じておられるあなたも経験されたと思います。
>ハレルヤです。
 
だから大丈夫、ということでは決してないことを、シャローム氏が、その言動によって証ししています。彼は、一生涯、そのままであり続ける可能性が高いようです。どうか、丁寧語と聖書語に騙されないように、どうか好意的に関わることのないようにしてください。非常に残念なことに、彼には、理路や説得というものが、通用しなくなっているようです。
 
この記事に賛同して転載している彼にとって、何が、ハレルヤ、なのでしょう。讃美は勝つ、信仰があるから勝つ、とでも思っているのでしょうか。神を疑わない、ということが、自分の信じ方の正しさを疑わない、という、自分の確信と同一になっている曲解の実例なのです。不感不応もここまで行ってしまう人というのは、そう多くないような気もしますが、神が救ってくださることに安穏として自分を固定することからは、いつでも、そうなるような気もします。
 
私たちの信仰も、言うまでもなく私の信仰も、そういう誤解は、原罪のように、あるということです。信仰者には、何か言われて、まるで、信仰の立場を守るかのように、言い張ることがあるだろう、ということを考えておくべきなのです。私たちも、このシャローム氏を反面教師として学び、神の真実から与えられる信仰を、人が思い込みの頭と心で、決して修正不能にしてはならない、ということを学ぶべきだと思います。修正可能であれば、また間違っても戻れること、じっくり考えて、反省もして、成長も可能になること、これが、不全の人間が、絶対の神を信じるという道を歩むために不可欠な節操なのです。
 
 
(2017年05月14日、同日一部修正)
 
不埒者(ふらちもの)
 
 
[[img(https://poem.blogmura.com/darkpoem/img/darkpoem88_31.gif)]]
[
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
 
[[img(https://philosophy.blogmura.com/thought/img/thought88_31.gif)]]
[
https://philosophy.blogmura.com/thought/ranking.html にほんブログ村 哲学・思想ブログ 思想へ(文字をクリック)]
 
[[img(https://philosophy.blogmura.com/christian/img/christian88_31.gif)]]
[
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]