豊かさの形骸
 
 その名は不思議
 ハンドルネーム:shalom
 本当の豊かさに導く荒野の道
 2017/5/15(月) 午後 6:27
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28086274.html
 
 
この記事が、彼の書いたものか、転載なのか、厳密には分かりませんし、どちらである証拠もありません。しかし、読んでみると、その安易な考え方は、別の人であっても同類であろうと思われるところが多いので、そのつもりで批判記事を書いています。彼の転載記事から、偽り、思い上がり、思い込み、決めつけ、などの多い信仰は、その書くところも、だんだん個性がなくなり、似たようなものになるのだろうと思います。個人の思考や感性といった多様性がなくなるからです。
 
>アブラハムはバビロンのカルデヤのウルで豊かな生活をしていました。
>ある日アブラハムは旅立ちました。行く先も知らない荒野への旅でした。
>神の民の父祖アブラハムの旅立ちでした。
>な~ぜ?
 
>私たちにとってほんとうの豊かさとはなんでしょうか。
>アブラハムが豊かな生活を捨てて、荒野の旅へと旅立ったように、
>イエスはなぜこの世にお生まれになられたのでしょう。
>イエスもこの世という荒野へおいでになられました。
>イエスのこの世の荒野の歩みの果てには
>恐るべき十字架の死が待ち受けていました。
>な~ぜ?
 
この問いに答えることは、少なくとも、シャローム氏にだけは、できません。彼は、キリストの十字架を、自らの無罪妄想信仰に利用するような、現代のパリサイ人です。そして、ブログを、さも何の問題もないかのように、コメントとコメント欄を削除して偽装している、偽善者です。
 
>イエスは神の民の期待する道ではなく、
>その道を、荒野の道を歩まれました。
>しかし、いのち豊かな道でした。
>神の民と私たちに本当の豊かさとその道を示すために。
 
シャローム氏は、イエスが伝えようとする本当の豊かさを知りません。騙されないでください。彼が、喜ぶのは、愛ではなく、自らの立場の保身と、魔術のように奇跡によって自分が救われることです。既に、彼は、救われることを確信して、自分の無罪妄想に固まって、訂正不能であり、何よりも、彼が求めているのは、神の義ではなく、地上の名誉欲なのです、聖書の先生としての体面なのです。そのために、彼は、都合の悪いコメントを、平気で削除する人なのです。本当の豊かさを知っているなら、神の前に、自分の罪を隠したりしませんが、彼は、悪いことをことごとく人のせいにして、自分の罪を隠しています。
 
>イエスご自身貧しさの中で生まれ、神を汚す罪びととして
>十字架につけられ、短い33年の生涯を終えられました。
>しかし、イエスほど過去も、現在も、また将来も
>人を豊かにしてくださる方はおられません。
 
彼は、キリストが人を豊かにしてくれる、ということを繰り返しています。それを繰り返すしかないからです。本当の祈りが出来ないのです。何故なら、彼は一度も自分の罪を認めたことがありません。罪の贖いにしても、理解できないのです。彼の主張は、罪は悔い改めることなく自動的に赦されるから罪を気にしなくてよい、という、無罪妄想です。彼は、このことについての弁明を一度もしたことがありません。彼はキリスト者ではありません。刺激を遮断して逃げ回り、腹いせの愚痴を言っているだけです。自らの非を認めない者が、キリスト者たることはありません。
 
彼が豊かになったのは、彼の陰謀である隠し事の偽善によって、他者の意見を受け付けないからです。つまり、刺激を遮断して作ったネット環境を、彼は、神の平安と呼んでいるのです。そのような人に、本当の豊かさが分かるわけがありません。彼が分かるのは、社交の世辞と、とにかく讃美しておれば熱心だと思われる、という気安い信条の処世だけなのです。罪について、彼は全く理解していません。彼の信仰と平安は、彼自身の人工の産物です。
 
>イエスは言われました。
>心の貧しい人たちは幸いである。天国は彼らのものである。
>(新約・マタイによる福音書5章3節)
>とてもわかりにくい言葉ですが、大切な真理を教えているようです。
>旧約聖書・創世記11章にバベルの塔の話があります。
 
>それは人間が豊かさを求め続けている姿とその結果を示していると思います。
>人間がほんとうの豊かさの源であるまことの神を見失い、交わりを失うと、
>それを聖書では罪といいますが、必ずバベルの塔を建て始めるのです。
>偽りの豊かさを追い求め、積み上げて、天に届かせようと生きるのです。
 
だから、説教の文章において、神との交わり、という言葉を、平気で書いて見せます。神関連の言葉を使えば熱心だと思われようとすることを処世としているからです。彼の丁寧語と聖書語に騙されないでください。彼のやっていることは、神との交わりではなく、神への裏切りと、神に対する隠し事です。彼こそは、この地上で、高くなることを、誰よりも求めているのです。それを妨げる者の意見や忠告や批判など、聞く耳を持たないのが、シャローム氏です。彼は、天に届かせようとしている、というより、もうすでに、神の世界に住んでいるかのように、自分が罪人であることなど、全く認めようとしません。
 
>しかし、結果はとても惨めな混乱(バビロン)でしかないのです。
>人が互いを物のように取り扱うようになり、心も言葉も通じなくなり、
>孤独と不安、恐れが人の心と社会、世界を支配するようになってしまうのです。
 
いつものように、悪と罪から、自分を除外した上での、ぼろくそ節です。聖書の罪の話は、今生きる総ての信仰者が、自分のこととして考えるべきなのですが、彼はそれが理解できない人なのです。善か悪の、全か無の、決めつけで言うことしか出来ないので、彼は、自分を悪とも、自分に罪があるとも、考えられなくて、キリスト信仰とは逆方向の無罪妄想に陥っているのです。
 
>神への畏れという心の貧しさを喪失した人のおごりは滅びを招くのです。
>“驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し”は平家物語の冒頭の言葉ですが、
>日本のみならず世界の歴史が証明しています。
 
彼は、神に隠し事をしているのだから、神を恐れていません。彼は、神への恐れを理解していません。心の貧しさについて、貧富の貧としか理解していないようです。だから、ここで、富める者たちを、ぼろくそに言うことしか出来ないのです。富める者が驕っているとしか書けず、心の問題を、心が乏しく義に飢えていることも、心に慢心するような材料がなく虚心であることも、彼は、思索の中で理解できないのです。それは、私が彼と6年付き合ってきたことから分かるようになりました。しかも、彼の致命的な欠陥は、その不十分さを、改めようとしないことです。いつの日も、彼は、慢心して、人よりも上にいて、教える立場であることを捨てきれないでいることが、ずっと今に至るまで表れてきたのです。
 
>イエスはそのような人間の罪による的外れな生き方の中で傷つき、
>苦しんでいる私たちを救うために、お生まれになり、十字架につけられたのです。
 
>あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。
>すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。
>それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者となるためである
>(新約・コリント人への第2の手紙8章9節)
 
 (コリント人への第二の手紙、口語訳)
8:7
さて、あなたがたがあらゆる事がらについて富んでいるように、すなわち、信仰にも言葉にも知識にも、あらゆる熱情にも、また、あなたがたに対するわたしたちの愛にも富んでいるように、この恵みのわざにも富んでほしい。
8:8
こう言っても、わたしは命令するのではない。ただ、他の人たちの熱情によって、あなたがたの愛の純真さをためそうとするのである。
8:9
あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである。
 (2コリント8:7―9、新約聖書)
 
この聖句は7,8節を見れば、愛に富むことを語っています。しかし、彼は、それを、書きません。彼は、書けないのだと思います。彼は、愛が分からないのです。だから、財力と力の傲慢を説く流れから書くしかないのです。キリストが貧しくなられたのは、キリストが人々を愛するためです。つまり、心の大きさの話です。キリストは、自ら、罪びとの帰結を受けることで、心を虚しく低くして、人々に最も大切な愛を伝えようとしたのです。
 
愛するため、ということが、彼は分からないので、まるで、キリストが貧乏な暮らしをしたのは、いつか人々の暮らしぶりが救われて豊かになるためだみたいに受け取られそうな文章しか書けないし、そういう意味でしか聖句を引用できません。彼は、ここで、詳しく述べていません。詳しく書くと、ぼろが出るので、聖句を挙げて、誤魔化しているのです。彼には、社交の丁寧語はあるが、誰に対しても、へりくだる姿勢がありません。
 
>物や知識一辺倒になってしまった私たちにはなかなか
>そのことを理解することも信じることもできません。
>しかし、それはイエスをただ幼児のように信じる信仰によってのみ
>体験できる神の恵みなのです。
 
カルト教祖は、しばしば、逆らわず文句を言わず受け入れさせるために、幼子のように、という聖書の話を持ち出してきます。理解できないから黙って信じよ、というわけです。このことは、何度も書いてきたのですが、人の意見を見ない、シャローム氏は、また繰り返しています。ずっと卑怯卑劣のまま変わらないという特徴が自分信仰にはあります。
 
人間らしい共感性があれば、愛について、さらに、キリストの愛について理解できるでしょう。キリストは人間の情感に十分に響く言葉で語っています。ゆえに今も多くの信仰者がいるということです。私たちも、聖書においてキリストに救われた人たちも、それは理解できるはずです。愛は、キリスト信仰において、理解するべき不可欠な芯と言ってもよいくらい、大事なことです。それが彼には分からないから、幼子のように、と執拗に言うのです。
 
彼が、たとえ、愛と言っても、それを信用してはいけません。彼にとって、愛も信仰も、あっと驚く間に総てがよくなる超常奇跡でしかありません。うんざりするほど何度も、人知の及ばない神の奇跡を彼という人知は大仰に語ってきたのですから。
 
>ここからほんとうの豊かさ、感謝に生きる人の道が啓かれる道のようです。
 
理解できないにもかかわらず、かれは、本当の豊かさ、などと言うことを言います。愛の豊かさを知らずに、豊かさを説く、彼、シャローム氏を、信用してはいけません。
 
>今私たちの行く手に荒野の道があるでしょうか。
>それは生ける神がアブラハムの旅へと
>わたしたちを招いておられる時ではないでしょうか。
 
自分は、荒野を歩まず、一番楽な、コメント欄の小細工で恥を逃れる道を選択しておきながら、このような美味しそうなことを平気で言うのは、長い長い嘘つきの履歴が、彼にはあるからでしょう。このような、具体性も現実味もなく空疎な美辞麗句を並べることによって、彼は、この世を凌いできたし、信徒たちに対して権威を示してきたのだと思います。
 
>アブラハムの旅は荒野に湧き出る命の泉を見出す旅でした。
>アブラハムは荒野の旅路において若さも知識も体験も
>手に握り締めていた目に見えるすべての豊かさを手放していくなかで、
>生ける神の愛と真実という見えない神の愛と命の豊かさを体験するのです。
 
大方、キリストの話をしながら、最初と最後だけ、アブラハムの話を入れています。理路が緩んでいるように思われます。もう一度、言いますが、彼は、この世の豊かさを手放していません。神の愛と命の豊かさというのは、彼の言葉面だけの飾りです。彼は、目に見えるお愛想の丁寧さと、並べるだけの聖書の言葉面で、神を褒めまくるだけです。
 
彼は、この世の豊かさにしがみついて、この世に仕え、聖書の先生という立場にしがみついている保身の権化です。彼と信仰について突っ込んだ話をしても、誰とも噛み合わない滅裂な聖書語の羅列を聞かされるだけ、という経過を経験しているのは、恐らく私だけではないと思います。彼は、人間も、神も、キリストも、信仰も、舐めきっています。
 
>「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。
>それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
>神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、
>御子によって、この世が救われるためである。」
>(新約・ヨハネによる福音書3章16~17節)
 
シャローム氏は、また、自分が救われることを確かめたくて、都合の良い聖句を引用したつもりなのでしょう。それで、いい気持ちにもなる人なのでしょう。救われる者は、御子を信じる者です。御子を偽善の言い訳に利用する者、御子の前に隠し事をする者、御子を偽る者、これらの者が悔い改めないまま救われるとは、どこにも書いてありません。
 
>神の平安がありますように!
 
今となっては、彼、シャローム氏が、人の意見を聞かないように改造されたブログの高い塀の中から騒がしく何と言おうとも、彼の決めつけの自己満悦に過ぎない捏造の平安が崩れて、見ないし言わないが言うだけは大げさに言い張るという偽伝道が、一日も早く止むことを願う、としか言いようのないのが現状なのです。どうか、彼、シャローム氏か、そのお仲間かの、聖書語で神を褒めることしか出来ないような、豊かさを失った心の形骸をよくよく見てほしいと思います。
 
 
(2017年05月16日)
 
陥る(おちいる)
塀(へい)
捏造(ねつぞう)
舐める(なめる、嘗める)
 
 
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