異土を走る者
 
 その名は不思議
 運動競技と信仰の歩み
 2017/5/24(水) 午後 9:41
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28099357.html
 
 類似の過去記事:
 わたしたちのオリンピック
 2012/6/8(金) 午後 4:40
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/22910800.html
 
 
冒頭の聖句は、新約・へブル人への手紙1章1~3節ではなく、以下の12章のようです。シャローム氏は、聖句の引用箇所を間違えたのでしょうか。私が聖書に詳しくないことを知っているので、批判を書きにくいように、わざと、嘘をついているのでしょうか。
 
 (へブル人への手紙、口語訳)
12:1
こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。
12:2
信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。
12:3
あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。
12:4
あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。
12:5
また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、
「わたしの子よ、
主の訓練を軽んじてはいけない。
主に責められるとき、弱り果ててはならない。
12:6
主は愛する者を訓練し、
受けいれるすべての子を、
むち打たれるのである」。
 (へブル12:1―6、新約聖書)
 
罪をかなぐり捨てることも、神の前に正直に告白することも出来ず、シャローム氏は、どういう競争に参加するつもりなのでしょうか。彼は、ただ安易に、罪悪感という重荷だけを、自分で、かなぐり捨てて、無罪を装いながら、神を讃美しているのです。
 
主の訓練を一切無視して、訓練を拒み、鞭打たれないように、身のまわりの不快な刺激を人為的に遮断して、安穏の沼に、どっぷりつかって、どうして、神に受け入れられようと言うのでしょうか。そこは、信仰の、重い病理の沼なのに。
 
近況、そして、オリンピックの話、彼が、神を裏切り続けながら、こういう話を平気でしていられることが、驚きと脅威であります。
 
>信仰生活もそんな運動競技に似ているようです。
>信仰生活は生ける神の恵みによって生かされる生活ですが、
>そこには試練もあります。
>恵みの中の試練を通して鍛えられ、ゴールまで走りぬくのです。
 
裏切りの世界に住んでいる、彼は、どこかの異土を走っています。彼は、それが信仰の世界だと思い込んでいるので、裏切りを平気で続けながら、信仰?の話を書けるのでしょう。はっきり言って、彼の話は、試練という試練を、自分の強制力で排除した後の廃墟で、独り、わめいている痩せたカラスの鳴き声のようなものとしてしか、受け取れないのです。おぞましく、わあ、わあ、と鳴けば、お前はァ、お前はァ、と木霊が返ってくるだけなのです。彼は、都合の悪いことをすべて完璧に隠したつもりなので、彼の罪と偽善が、まだバレていない前提だから、日々わめきに来るのです。
 
>途中でやはりへなへなと座り込んでしなうことも度々経験します。
 
強制力で、コメントも、コメント欄も、平気で削除した人が言っています。弱さを装う偽りも、彼の生業として続いているのです。
 
>しかし、み言葉に支えられ、祈りに励まされ、信仰の交わりに力を与えられ、
>何とか走りぬくことができるのです。
>そのようにして、苦しみや困難も試練も神の恵みだと知ることは
>大きな喜びであり生きる力です。
 
このように、自分には神がついているから、走る抜くことができると、神を自分に有利に決めつけてきます。どんなことがあっても、何をしても、神が自分を愛するという無条件の無節操の被愛妄想からの訂正不能の不感不応から、神の恵みを喜ぶのが、変わらぬ彼の筆致です。だから気楽に、試練に耐えたことなどないくせに、言葉面だけで、試練を神の恵みだと言ってしまうのです。
 
>試練によって自分の心の硬い殻を砕かれ、
>イエスさまによって与えられた生ける命の水が心をうるおし、
>すべてのことを益としてくださる神の恵みを体験できるのです。
 
彼は、今も、硬い殻の表面に、社交の丁寧語と、信仰があるかのように装うベタな聖書語を浮かせて、神の恵みを体験できると嘘をついて、誰かが引っ掛かるのを待っています。総てを益とする、という、益は、神が判断する益でありますが、彼は、彼の体裁と牧師としての名誉を、彼が何をしても、悔い改めることなく赦されるから、与えられる有形無形の世俗の益を欲望して、そういう、彼の言うとおりになる神を讃美しまくるのです。
 
>イエスがご自分の死を前にして、弟子たちに約束された言葉は真実です。
>「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、
>それはただ一粒のままである。しかし、
>もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」
> (新約・ヨハネによる福音書12章24節)
 
キリストは、ご自身の死の意義について伝えているのですが、シャローム氏は、キリストの言葉を、遺言と言って、キリストを故人のように語ったことがあります。彼は、それを、まだ、訂正していません。彼は、キリストの言葉に重さを感じていないのでしょう。ただ自分は救われるんだ、ということだけに固執して、そこしか眼中になく、そのために、キリストを利用しているだけなのです。その罪がどんなに重いか、考える気もないようです。彼は、実に、ふつう見えることも見えないのです。だから罪が重く、口が軽いのです。
 
私たち信仰者が、彼シャローム氏と違って、キリストの言葉を、うっかり遺言などと言わないのは、私たちにとって、キリストが、毎日のように祈っている相手だからです。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
12:24
よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。
12:25
自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。
 (ヨハネ書12:24―25、新約聖書)
 
キリストは、25節のような命を賭する覚悟を、自ら示して言われているのに、彼の言説には、微塵の重さも感じられません。彼は、うるおされることだけを願って思い込んでいるのでしょう。彼から伝えられる言葉は、人を、言葉面だけの空約束と無罪妄想の理不尽へ導くだけですから、誰も影響を受けないでほしいと思います。
 
>エジプトで発見された数千年間もミイラの手に握られていた麦の種も、
>地に蒔かれ、天からの雨に干からびた麦の殻が破られて
>豊かに麦の穂を実らせたように。
 
背き続けて干からびてゆく彼、シャローム氏は、罪と偽善を実らせることにしかならない者に相応しく、言うに事欠いて、また、超常奇跡の非現実話を、実際あったのだからと、ここで豪語しています。これも神に対する決めつけです。彼は、前にも、どこか外国で死体がよみがえった話を、事実確認できるはずもないのに、嬉しそうに吹聴していました。
 
>かつて迫害者であった使徒パウロはイエスを信じる信仰のゆえに
>体験した数々の試練や困難をとおしてあらわされた神のみわざを
>次のように書き記しています。
 
パウロは、元パリサイ人で、律法に詳しい知識人でしたから、信仰に目覚めてからは、理を説くのはもちろん、それだけでなく、温もりと潤いを大事にして、愛の讃歌なども書いています。温もりと潤いを求めず、言葉上の奇跡だけをだらだら並べる彼、シャローム氏が、パウロの言ったことを理解したとは、到底、思えません。彼の知ったかぶりは、信仰の芯となるところを書けないので、聖句を挙げたり誉めたりして逃げるだけです。それが彼の説教なのです。おそらく過去の30年も。
 
>「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。
>その測り知れない力は神のものであって、
>わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。
 
彼がこの聖句を挙げたのは、宝は神のものであって、人からではないから、ということから、救いは人からは出ないからと、人を侮り、神が奇跡を起こすのを待っているのです。彼が日々実践していること、すなわち、考えないこと、鵜呑みにして信じ込むこと、罪を気にしないこと、などを正当化するためだと思います。このように、彼は、聖句の言葉面だけを利用し続けているカルト的自分信仰者なのです。彼の引用は、彼のインチキの解釈を通してのものですから、大きく聖句を曲げたものです。
 
>わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。
>途方にくれても行き詰まらない。
>迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。
>いつもイエスの死をこの身に負うている。
>それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
>わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。
>それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。」
> (新約・コリント人への題の手紙4章7~11節)
 
このように、彼は、さも自分が迫害に耐えている立派なキリスト者であるかのように、この聖句を利用します。同時に、批判者を呪うために。
 
彼シャローム氏は、この聖句に相応しい行いではなく、ずるい偽善者の行いである嘘をつき、隠し事をする毎日を気にも留めません。つまり、彼は、罪悪感を祈りにつなげることもしないで、自動的に何をしても赦される無罪信仰によって、山と積まれた罪と偽善を気にせず、この世の価値だけを求める行為を為し得るという妄想信仰です。
 
彼シャローム氏は、聖句を真っ向から裏切る日常に慣れてしまっているのでしょう。信仰の目的外の聖句の引用や、ずっと続いてきた自分の言葉の仰々しい豪語の遠慮のなさは、信仰に何の実感も持てない者が、それを補うかのように、さらに、恨みと悪意によって人を裁くときに見られます。こういう含み味の悪意によって、偽善は増し加わり、さらに罪は彼にしがみつくでしょう。
 
彼の嘘は極限に達して改めようもなく、彼は、もう、自分が何をしているかも考えもせず、やたら、笑っているか、わめいているかの印象だけを惜しみなく与えてきています。そして、涙は果てしなく乾いてゆくのです。露骨な背教の果てに、何も負わない彼は、いったい、何に向かって耐え、何に向かって讃美し、何に向かって悦び、何に向かって渡されてゆくのでしょう。
 
>神の平安がありますように!
 
だから、彼のこの最後の一言に、いつも吐き気を覚えるのです。前には、仏教や哲学関係の人も関わっていましたが、彼に関わった者は、ある人は、彼のことを「頭がおかしい」と言い、そうでないほうも、正体を知って呆れて去っていったと思われます。いっぱいあった彼らのコメントは、私のコメントと同様、今、一つも残っていません。
 
 
(2017年05月26日、同日一部修正)
 
異土(いど)=異国の土地、外国。
 ここでは何度か書いてきた超常魔界妄想世界の病理とでも。
 ただし薬では決して治りません。
木霊(こだま、谺)
生業(なりわい)
 
 
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