背きを悦ぶ者
 
 その名は不思議
 祈りは感謝の領収書!
 2017/5/25(木) 午前 11:17
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28100030.html
 
 類似過去記事:
 感謝の領収書
 2011/3/6(日) 午前 8:44
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/19227151.html
 
 
感謝の領収書とは、誰が誰に出す領収書なのでしょう。領収書に、祈りの心を表す適切な意味があるでしょうか。信仰に心を感じない者の、不適切な比喩だと思います。
 
都合の良いことについて感謝ばかりする信仰、と言えば、どんなときにも感謝するべきことはある、と言ってきそうな記事です。どうしても、感謝することが信仰で、祈りは感謝だ、と言いたいようです。また、都合の悪いことを辻褄合わせをして、感謝することを見つける、という、自分はいつも神に感謝していますと、神に自慢するような態度が癖になると、感謝できない人に対して、感謝しなさい、という殺人的なことを言ってしまうことになりかねません。人間が分かっていない人の言でしょう。
 
彼シャローム氏は、このような信仰を褒め上げて悦んで引用する人です。人間らしいことをやめて、超人的な感謝を強いるカルトの体質です。祈りが感謝だけなら、それこそ、不幸はないわけですが、実際はそんなことはありませんから、祈りは、決して、感謝と同一ではありません。祈りの主要部分は、罪の告白です。このことが分からない人の話を鵜呑みにしてはいけません。
 
>小さな当たり前と思えることの中にどれほど神様に感謝してもしきれないことが、
>たくさんあることを案外みんな知らないのよね」。
 
>どうも、私たちは、神様に、「これしてください」「あれしてください」と、
>まるで請求書ばかりを出していて、神様に対して、
>心から「ありがとうございます」という感謝の領収書を出していないようですね。
 
お願いばかりせずに、感謝しなさい、と言う人々は、恐らく、感謝以外したくないのでしょう。もう満ち足りているから、お願いすることはないというふうになりなさい、という境地自慢でしょう。こうやって、いつも薄気味悪い薄笑みの陶酔境地をカルト的信仰は増産してゆきます。人間が分からないことの予防線の結末なのです。
 
>聖書はこう記しています。
>「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。
>すべての事について、感謝しなさい。
>これがキリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」
>(新約・テサロニケ人への第1の手紙5章16~18節)
 
前にも書きましたが、迫害の時代という背景があり結束と強い激励が必要な時代に書かれたのが新約聖書です。それに、聖書が言っているのは、神がそう望んで求めておられるということであって、感謝だけになりなさい、それが悟ることだ、それが悟りの境地だ。と言っているのではありません。神は、人に、感謝できない時があることをご存知です。ここにも、人間を分かろうとしない人の、自己中心的誇大妄想的勘違いがあります。
 
>すべての事について感謝しなさい、とわざわざ記されているということは、
>私たちの周りには、感謝すべきことがあふれている、というだと思いませんか。
>私たちは「当たり前」という思いがいつも強くて、
>感謝することを見失っているようですね。
 
宗教的多幸症です。すべての悲しみを、感謝を忘れている、と言うことで済ませる信仰なら、誰にも教えてもらいたくないのです。キリストは、人の悲しみに寄り添う御方であります。キリストは、人が、いつも、おめでたく、ありがたや、ありがたや、と言う人間離れに寄り添う御方ではありません。救いを必要とする人々が、感謝しているというのは、一種のパラドックスであり、何かの勘違いか、十字架以降は、みんな悟ったのだ、とでも言いかねない者たちで、その乱暴で不当な解釈は、人間の現実と、人類の歴史が、否定しています。
 
キリストは、人の悲しみに寄り添う御方であります。
 
>あなたを愛し、あなたの最善を導いてくださる神様へ、
>先ず感謝をささげ、あなたの口に感謝を満たしていきませんか。
>感謝することを探すことも楽しいものですよ。
 
鵜呑みにしないでください。最善というのは、人の分かる最善ではなく、神が判断した最善です。感謝し讃美することを楽しむ者は、神を必要としない者たちです。だから、今の時代に、悲しみを無視して、感謝だらけにしてしまうのです。
 
>《shalomのコメント》
 
コメント削除魔で偽善者であるシャローム氏の記事内コメントです。
 
>感謝することを探すことも楽しいものとありますが、
>ひょっとしたら本当は感謝することは
>探し回ることも必要ないのかもしれませんね。
>いつも喜んでいなさい・・
>すべての事について、感謝しなさいと書かれているのですから。
 
神の心を、勝手に、妄想にして受け取って、神に感謝して、神を讃美して、同時に、他者のコメントを削除し、他者を侮辱して恥じない者、シャローム氏が言っています。・・笑う偽善者はキリストを売りわたす者。
 
>この二つの言葉は「絶えず祈りなさい」という言葉でつながっています。
>それはきっと私たちの良し悪しの判断を超えたことなので、
>自分で良し悪しを判断しないで、今よくわからい、受け容れられないとしても
 
ここに、シャローム氏の無罪信仰の詭弁の悪魔的中心があります。良しあしを判断するなと書いています。人は判断しなければ生きられない生き物です。その判断を絶対化しないのが信仰ですが、分からないと言っておけ、という、非現実の戯言です。彼は、ここまで、良識を破壊しています。彼は、分からないと言えない人です。また、彼は、コメントを削除すると、他者を無視すると、判断し続けているわけです。読む人の良識が破壊されないように、悪魔の誘惑に乗った者から、早く離れてください。
 
>神に祈りなさい、ということかもしれませんね。
 
感謝からつながっている文脈で、祈りなさい、に結び付けるのは、シャローム氏が文脈を作れないか、恣意的な文脈を作ろうとする詭弁、ということになります。キリスト信仰は、祈りが感謝だけで済むような、おめでたい信仰ではありません。深い人間性が必要です。人間性を軽視する者には決して触れることのできない神の賜物です。
 
深い人間性は、誰もが持っています。それは、知能によらず、才能によらず、地位によらず、ただ、砕けた魂で、神に祈る者に与えられ、使われます。一言で言えば、悲しみに共感できる心、とでも言うべきものだと思っています。何気ない一言が胸に沁みたりするのは、そのためでしょう。
 
>なによりも祈りをもって、神を信頼し、ゆだねてみなさい。
>そうすれば神がなぜそうするように望んでおられるかきっとわかります。
 
彼シャローム氏は、罪を悔い改めることをせず、神に委ねると言っていました。おかしいでしょう。だったら、なぜ、コメントを削除するのでしょう。神がコメントを削除することを望んだという文脈になります。幾千幾万の罵詈雑言と辛辣な比喩を書いても、まだ足りないほどの、恐ろしく悪質な詭弁です。
 
>イエスさまは弟子たちに、私が話していることは今はわからないかもしれません。
>しかし、後になればわかりますと言われました。
 
>いつもわからなくしてしまうのは自分の良し悪しの判断を手放さず、
>善悪の木の実を食べて生きているからですよと言われているようです。
 
恐ろしいことです、感謝しない人に、これを言ってきたのでしょうか。善悪の木の実を食べたから判断してしまうのがいけない、何も判断せずに待っていればわかると。自分が、できることをしていないから言っているだけでしょう。そういう、自分の罪を正当化するために、人を操ろうと、判断しないことを勧める卑怯で愚劣な信仰?は、シャローム氏一人の堕落でたくさんです。自分の無理解と罪と偽善に人を巻き込む詭弁のすり込みです。
 
彼は、正しいことを書いたつもりなら、今日書いたようなことを神に祈ればよいのです。適切な時と所で、神が彼を裁く日まで。私は、もう彼のような偽善者のために一文字も書く気にはなりません。誰も巻き添えになることのないように、という願いで書いています。
 
>今まで生きてきて、振り返るとたくさん思い当たります。
 
>イエスさまは十字架の辱め、苦しみ、死をも神の御心として受け入れ歩まれました。
>イエスさまはそれが神による最善の道であり、命の道であると信じておられたのです。
>だから、私の思いではなくあなたのみ心通りになさってくださいと祈られたのです。
 
キリストが死んだのは誰のためでしょう、総ての人のためです。シャローム氏が自分の罪と偽善を神に委ねると言っているのは誰のためでしょう。悔い改める良心的な信仰がないので、ただ自分の世俗の名誉と利益を守ろうとする彼シャローム氏の保身だけのためです。この人は、決して、牧師ではありません、キリスト者でもありません。人間とも思えません。
 
>私たちにとって最善の道は自分の良し悪しの判断を手放すという
>十字架の道であることを示し、その道は決して空しい道ではなく、
>神の恵みに生かされて生きるいのちの道のようです。
 
上にも書いたように、実際は、良し悪しではなく、自分がしたことを利己的に良しと決め付けるという最悪の思い込みに生きているのが、シャローム氏です。それを、創世記を悪用して信仰に見せかけ、良し悪しの判断を手放す、などと書いています。
 
良し悪しの判断を手放して、人は、いったい、何が出来るというのでしょう。彼シャローム氏は、人々にアホになれと言っているようなものです。彼の詭弁は、もはや、人間活動の停止と人間破壊の方向しか持たないようです。何も考えることができない無思慮の彼という自分信仰者、それこそが、判断をしなくなることの結末なのです。今回の記事は、詭弁の罠だらけです。このようになったら、信仰の破壊者にしかならないという増悪ぶりを、彼の自分信仰は示しているのです。壊れに壊れてきました。言わないことではない。
 
>神の平安がありますように!
 
彼の人工の安穏が続きませぬように。恐ろしい詭弁で、罪と偽善を気にしないことを悦びとし、神に委ねることを平気で悪用して正反対の妄想を教えるような者が、暴かれても、なお、同じことを言い続けています。気をつけてください。信仰の病原は、ずっと道連れを求めているようですから。
 
詭弁で神の目を逃れることは出来ません。それゆえ、信仰者は、神を恐れて、折に触れて罪の告白によって信仰を改め、赦しと癒しを乞うのです。そのための信仰であり、そのための聖書であり、そのための祈りなのです。祈りは感謝の領収書、などと言って、御言葉を言葉面に、赦しを自動販売機に、救いを紙切れに、変質させたがる者たちを警戒してください。彼らは、自己中心の自分信仰者です。
 
 
(2017年05月27日)
 
 
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