ファンタジー信仰
 
 その名は不思議
 あとで利いてくる教育(2011.6.13)
 2017/5/26(金) 午前 7:16
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28101173.html
 
 転載元:shirasagikaraの日記
 2011-06-13 「あとで利いて来る教育」をした教師たち
 
http://d.hatena.ne.jp/shirasagikara/20110613
 
 
低い自分を書きたい、という動機ではないようです。彼の性分として、こういう身の上話を書くときに表れてくるのは、現実的には恵まれなかったが、驚くべき神によって恵まれて、このようにも救われて、福音伝道者になっている、という神話的神秘的に高ぶった話に持っていくことが多いようです。神話でも神秘的でも何でもなく、彼という個人が俗の卑劣な汚いことを好きなようにやってきて後悔することさえ忘れているのに、今さら何を言っているのでしょう。
 
>私の人生はその高校での一人の先生との出会いで決まったのです。
>我が家は経済的にも精神的にもがたがた続きでしたが、
>担任の先生がクリスチャンで、
>私を家族のように受け容れ、よく食事に呼ばれたり、
>また家庭集会に誘われたりしました。
>私がその高校を卒業した後、よく高校の経営者と教職員との間に争いが絶えず、
>私の担当だった先生が教頭になられ、苦労されましたが、
>ついに廃校になってしまったのです。
>山形の独立学園のことは聞いていましたが、
>教育はやはり人との出会いだと思わされます。
>私は公立高校は不合格、評判の良くない高校入学でしたが、
>ひとりのクリスチャン教師との出会い、
>さらにイエス・キリストとの出会いに導かれる、
>赤い糸に結ばれた見えざる生ける神が備えられた最善の道だったのです。
 
シャローム氏は、ときどき身の上話をします。かわいそうですね偽善者だなんて、と同情を引きたいのでしょうか。人との出会いを大事にするようなことを書いていますが、人間のことを呆れるほど軽視~無視しているのが、シャローム氏です。大事にするのは彼を褒めてくれる人との出会いだけなのでしょう。現実は、それどころではない状況ですから、その前に、悔いたらどうだ、改めたらどうだ、反省したらどうだ、と私は思います。彼は、目を逸らしたいのでしょう。
 
表現上、赤い糸は、男女の恋愛に使われることが多いようだから、運命の糸、とでも書いたほうがいいでしょう。身の上話にも、彼シャローム氏の、自称キリスト者の自分信仰らしい決めつけが書かれています。自分の信仰は、神に運命づけられた最善の道だと豪語しているのです。つまり、ここでも、神を決めつけていて、そのせいで、神の道を外れた自分、ということが認識できないのです。
 
誰よりも自分を大事にし、神よりも自分を大事にし、キリストよりも自分を大事にし、自分と神を赤い糸で結びつけて、そのせいで訂正不能になっている、彼、シャローム氏であります。傲慢も、神がかっています。
 
(引用)運命の赤い糸
いつか結ばれる男と女は、足首を見えない赤い糸(赤い縄)で結ばれているとされる。この赤い糸をつかさどるのは月下老人(中国語版)(「月老(ユエラオ)」とも)という老人で、結婚や縁結びなどの神だという。『太平広記』に記載されたこの神にまつわる奇談『定婚店』から[1]、仲人や結婚の仲立ちをする者を指す者を「月下老」というようになった(後述)。日本では、「足首の赤い縄」から、「手の小指の赤い糸」へと変わっている。[要出典]
赤い糸に力があるという考えは世界各地に見られる。ユダヤ人の間では、邪視のもたらす災いから身を守る為に赤い毛糸を左手首に巻くという習慣(セグラ segula)があり、アメリカなどにも幸運のお守りとして広まっている。トーラーやハラーハー、あるいはカバラにもこうした習慣への直接の言及はないが、一般にはカバラに基づいた伝承とされ、ベツレヘム近郊のラケルの墓所には今も参拝者が巻いた赤い糸が多数見られる。また仏教国の中には、右手首に赤い糸をお守りとして巻くところもある。日本では千人針に赤い糸が使われた。[要出典]
決して切れることのない「運命の赤い糸」は、現在でも西洋での「双子の炎」(twin flame, 運命で決められた二人のそれぞれの中で燃えている火)や「魂の伴侶」(soulmate, ソウルメイト)などの言い伝えと同じ様に東アジアで言い伝えられている[要出典]。日本や他の東アジア諸国でも、テレビドラマやアニメなど大衆文化の中に「赤い糸」は頻出する[要出典]。特に少女漫画では定番のモチーフとなっている[2]。
「見えない」のに「赤い」のは形容矛盾であり、類似した例に見えざるピンクのユニコーンがある。
(ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8B%E5%91%BD%E3%81%AE%E8%B5%A4%E3%81%84%E7%B3%B8より)
 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%90%E3%83%A9
カバラ( qabbalah, Kabbala, Cabbala)、カバラーとは、ユダヤ教の伝統に基づいた創造論、終末論、メシア論を伴う神秘主義思想である。独特の宇宙観を持っていることから、しばしば仏教における密教との類似性を指摘されることがある。しかし、これはもっぱら積極的な教義開示を行わないという類似性であって、教義や起源等の類似性のことではない。
伝説では、アブラハムがメルキゼデクから伝授された天界の秘密だとも、モーセが律法(トーラー)に記し切れなかった部分を口伝として後世に伝えたものだともいう。しかし、3世紀から6世紀頃に始まり、16世紀頃にほぼ現在の体系が完成したとされる。
カバラは大きくユダヤ・カバラとクリスチャン・カバラに分類される。前者が本来のカバラであり、ユダヤ教徒が旧約聖書の解釈に用いるものである。後者はユダヤ・カバラをキリスト教に応用するために考えられたが、後に近代西洋魔術の理論的根拠にされた。クリスチャン・カバラは生命の樹の活用を中心に成り立っている。
(ウィキペディアより)
 
赤い糸には、東洋から西洋まで、多彩な起源と、多彩な色付けと、多彩な影響があるようです。ユダヤ教とキリスト教の関連もあったとは知りませんでした。古今東西を問わず、人は運命に翻弄される、ということでしょうか。
 
 (使徒行伝、口語訳)
12:11
その時ペテロはわれにかえって言った、「今はじめて、ほんとうのことがわかった。主が御使をつかわして、ヘロデの手から、またユダヤ人たちの待ちもうけていたあらゆる災から、わたしを救い出して下さったのだ」。
 (使徒12:11、新約聖書)
 
ペテロが、迫害から、奇跡によって救われる話です。御使いが表れて、ペテロは何もしないのに、鎖が外れて、門が開いて、という奇跡です。彼シャローム氏は、迫害と思っているところの、実は自業自得の困難から、奇跡によって救われる自分を、また、高ぶって語るのです。すごいです、彼の傲慢が。
 
複雑な起源と因縁が絡まっていそうな赤い糸を用いて、運命の赤い糸で神と恋仲になりたいシャローム氏は、現実が大嫌いで、現実にもかかわらず奇跡によって救われるという現実離れした話を、こよなく愛していて、この記事において、彼は、神話作りに励んでいます。彼は、彼が作った神話の中で、いかに自分が神に特別に愛され、奇跡によって導かれてきたかを主張したいようです。
 
このように、自分神話を作って神を讃える人は、結局、自分を讃えたい動機が見え隠れしています。多くのキリスト者は、控えめに語るか、語らずひっそりと神に感謝するものですが、彼には、奥ゆかしさというものが全くと言っていいほどないので、聖書の登場人物のように、あるいは使徒や預言者のように、特別な自分を出さないではいられないのでしょう。
 
神話好きが神話作りに励んでいるのがなぜ悪いか、ということですが、一つの方向性があるということです。シャローム氏の場合は特に、現実が嫌いで、現実離れしたくてしょうがない、ということです。現実は、神話のみによって、奇跡のみによって、打ち砕かれ、思いもよらない、すごい成り行きで救われて、後ろに見て下に見て、愚かな者たちよ、と他者を含む現実を蔑視したくてたまらないのでしょう。さらに進んで、そうなっている自分を妄想せずにはいられないのです。彼の自己中心は、ファンタジーの世界に、夢を見るだけでなく、実現しているという思い込みによって満たされているのです。
 
現実が嫌いで、つまり、人間が嫌いのようです。表面的に丁寧語を使って取り入ろうとしますが、人間関係の中で生きてくる信仰など考えてもみないようで、人間関係は適当に凌いでゆければよいのでしょう。だから、人間を大切にしません。自分の考え、というより、思いつきと思い込みのファンタジーからしか人間を見ることが出来ず、他者が彼のファンタジーから外れて批判や反対でもしようものなら、もはや、人間として接する気などさらさらなく、処理するべき対象にしかならないのではないかと思います。彼シャローム氏の信仰は、彼の勝手なファンタジーが、現実などお構いなしに、奇跡を成就してゆくことに、全面的に依存しています。
 
ファンタジーは、夢想、空想、幻想、の類です。自分についても、神についても、空想したり想像したりするのは、人の自由であり、私も好きですし、想像力を身につけることは悪いことではありません。いけないのは、それが信仰になって、現実を無視し、現実を壊し始めることです。ファンタジーは、しばしば現実を無視した神話になり、ときに病理に、ときに犯罪に結びつきます。
 
信仰は現実の中で生きてくるものです。信仰は幻想でも空想でも夢想でもありません。この区別をつけることは、ふつうに出来ているはずですが、信仰という、超常の神の関わるところでは、幻想が幻想だけではなくなりやすいという危険性があります。それは、カルトの主張などを聞くときに、首を傾げたくなるような非現実の結論から始まっていたり現実的な考察を経ていなかったりすることから分かるでしょう。
 
信仰や聖書について、想像することは、よくあります。しかし、それは自分の想像~空想に過ぎないことを弁えているのが普通です。その弁えは、結局、地上の人間であるという自覚によって支えられています。人間としての思慮と情感が支えています。それらの、人間が人間であるための性質を人間に与えたのは、紛れもなく、神なのです。そういう神を、私は信じ仰いでいます。
 
幻想を信仰と勘違いしたところには現実離れした人間の身勝手な心だけが活躍するホラーの世界が待っているのです。まさに、彼について、それを見てきた感があります。彼は、今日も、赤い糸で結ばれた神によって超常的に導かれているつもりなのです。
 
正義を、月並みな美辞麗句でしか語れない者には、往々にして、理想的な言葉を語りながら、理想に反する者を責めながら、言葉を実際には理解できないだけでなく、怒って意に介していない自らをひた隠しにしている暗部があるのです。自分は何も分かっていないのに、その不全を信仰によって克服するのではなく、逆に、すべてを分かっているふうを装い、さらに、他者を分かっていない者として、ぼろくそに言うことで、見栄を張り、憂さを晴らしているだけなのです。
 
現実の中で、神は沈黙しているように見えます。幻想の中では、神がかりがどんなに活躍しても、そこに神は存在しないのです。
 
 
(2017年05月28日)
 
褒める(ほめる、誉める)
凌ぐ(しのぐ)
 
 
[[img(https://poem.blogmura.com/darkpoem/img/darkpoem88_31.gif)]]
[
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
 
[[img(https://philosophy.blogmura.com/thought/img/thought88_31.gif)]]
[
https://philosophy.blogmura.com/thought/ranking.html にほんブログ村 哲学・思想ブログ 思想へ(文字をクリック)]
 
[[img(https://philosophy.blogmura.com/christian/img/christian88_31.gif)]]
[
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]