強欲と厚顔
 
 その名は不思議
 いのちの道と死の道
 2017/5/27(土) 午前 11:39
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28102810.html
 
 死の道といのちの道
 2015/11/24(火) 午前 7:59
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27085856.html
 
 二つの道
 2012/7/23(月) 午後 3:16
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/23145068.html
 
 
味も素っ気もない、何やら仕掛けのある謎解きのクイズのような話を、シャローム氏は、好んで書いてきます。そして、解いて見せたつもりで得意がるのですが、ことごとく的外れになってしまいます。
 
>そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。
>シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」
> (新約・マタイ16:15~16)
 
>弟子たちがイエスに対して初めて信仰を告白した時の言葉です。
>ところが、ご自分に対する信仰告白を聞かれたその時、
>「そのとき、イエスは、
>自分がキリストであることをだれにも言ってはいけない」と、
>弟子たちを戒められ、更に続けて
>「この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、
>長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、
>そして三日目によみがえるべきことを、
>弟子たちに示しはじめられた。」と言うのです。
 
弟子たちに、贖いと復活の話が通じないことをキリストはご存知でした。
 
>弟子たちはイエスの言葉に驚きました。
>弟子たちが信じているキリストはイスラエルを
>ローマの支配から解放する救い主でした。
>それが神が約束された救いだと信じていたのです。
>ところがイエスの言葉はそのような弟子たちが信じていることではなく、
>「イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、
>長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、
>殺され、そして三日目によみがえる」と言うのです。
 
弟子たちには、贖いのための十字架の死と復活の話は通じないことを、キリストはご存知でした。
 
>イエスに死なれては弟子たちの信じていることは元も子もないのです。
>イエスが「三日目によみがえる」と言われたことは理解できないばかりか、
>弟子たちの耳にも心にも届かなかったのです。
 
理解できない弟子たちは、また、同時に、キリストの命の心配をしているのです。シャロームのボロクソ節には、その気持ちが耳にも心にも届かなかったようです。
 
この弟子たちは、私たちキリスト者でもあります。耳にも心にも届かなかったと書いて、愚かな弟子たちと言いたげですが、キリストは、この弟子たちを最後まで愛しました。そして、彼らは、訂正可能でしたから、自らを改革し、使徒として成長したのです。
 
彼シャローム氏は、削除と侮辱という罪を犯し隠蔽という偽善を施しながら、今も訂正不能です。感情と理性が信仰の名によって放棄された精神で、揺さぶられることのない者は、また変わる可能性をも自ら否定してきた者です。よって、変わることによる成長など眼中にないということです。それはそのまま、変わる必要がなく、今が完成だという自己満足の世界に埋没してゆく穢土の悪臭と暗色に染まってゆく者なのです。
 
信仰についてのどんな話も、罪の話も、贖いの話も、悔い改めの話も、通じないのが、彼シャローム氏なのです。彼が返すのは、無視と侮辱だけでした。
 
>そこで、「ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、
>主よ、とんでもないことです。
>そんなことがあるはずはございません」と言ったのです。
> (新約・マタイによる福音書16章21~22節)
 
これは、師が死ぬと言えば、弟子は驚き心配して、とんでもない、ということくらい言うだろうということでしょう。言ったのです、というほど驚くことではありません。彼シャローム氏は、「言ったのです。」と書いていますが、聖句(口語訳)は「言った。」と書いてあります。他の訳でも「言ったのです。」という強調はしていません。自分の主観を聖句に込めてはいけません。シャローム氏は、慎みも弁えも分からないので、自分の勝手にしているだけです。
 
口語訳1955
16:22 すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。
新共同訳1987
16:22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」
新改訳1970
16:22 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
http://bbbible.com/bbb/bbbmt16a.html#mt16.21-23
より
 
>イエスに「あなたこそ、生ける神の子キリストです。」と信仰を告白しながら、
>ペテロはイエスの言葉を退け、イエスをいさめて「主よ、とんでもないことです。
>そんなことがあるはずはございません」と言ったのです。
 
キリストの意図を理解していない弟子なら言っても無理はないと思われることを、シャローム氏は、信仰を告白しながら(わかっていない、信じていない)と、書いています。彼シャローム氏は、聖書を読み、キリストについて学んだはずですが、平気で、罪と偽善を隠しています。彼に弟子たちのことをとやかく言う資格はありません。
 
>このペテロの姿に私たちの神に対する私たちの姿を見ることができます。
>それは神を自分の思いや期待に合わせて信じ、自分の都合や納得できなければ、
>「そんなことがあるはずはございません」と言うのです。
 
彼にこれを言う資格はありません。彼は、自分の都合で、キリストも神も利用して、隠し事の罪と偽善を正当化しています。その上でこの記事を書いている彼には、弟子たちどころではない厚顔を感じるだけです。彼はこの白々しさで「わたしは何をしても救われないはずはございません、エッヘッヘ」と笑っているようなものなのですから。
 
>これが神が食べてはならない、それを食べると死ぬでしょうと言われた
>「善悪を知る木の実」を食べたアダムとエバの末裔である私たちの姿です。
 
彼は、罪と偽善をたらふく食べて、何回、死んだのでしょう、いまだに、見当違いの世迷言を信仰話にして書いて見せては、罪の戸口の前で、フラフラしているのです。
 
>そのようなペテロに対してイエスは振り向いて、
>「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。
>あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と言われたのです。
 
>その善悪を知る木の実は今も
>「それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましい」と
>アダムとエバの末裔である私たちの心を誘うのです。
 
彼にとって、罪と偽善は、食べるによく、目には美しく、賢くなるには好ましい、と感じたのでしょうか。人のことを考えないシャローム氏は、いったい、何の末裔なのでしょう。こういうことを考えるのが嫌になりますが、彼が同じようなことを書いてくるので、返すしかありません。誰かを、彼が彼の善悪を知らなくなる木の実に誘わないように。
 
>イエスは弟子たちをはじめ人々の、否、私たちの期待を知りながらも、
>その期待が失望と怒りに変わってしまうことを知りながらも、
>イエスは十字架の道を歩もうとしておられるのです。
 
>なぜでしょうか?
>私たちの前にはいつもいのちに至る道と死に至る道があります。
>弟子たちはイエスがいのちに至る道を歩まれる方だと信じ、期待していたのです。
>しかし、イエスは死の道を歩むと言われたのです。その道が命に至る道だからです。
>なぜなら、弟子たちがいのちの道だと信じている道は死の道であるからです。
 
彼が誘う道は、人間でなくなる道です。そして、その道が滅びに至る道です。その道を行くと、嘘をつくようになり、隠し事をするようになり、人を侮るようになり、神を侮るようになります。彼の書いたものから、既に実証済みで、実際に今、現れていることです。
 
>私たちの前には今も死の道といのちの道があります。
>私たちにはどの道を選ぶか、選らぶことができます。
>しかし、その結果を選ぶことはできません。
 
選ぶことは出来るのに、結果を選ぶことは出来ないとは、道を選ぶことが結果を選ぶことではないような書き方です。彼は、キリストの十字架に至る道など選ばず、生き意地だけの道を選びます。その結果、彼が滅びるだけでなく、彼に、逆らう者、巻き込まれる者、従う者に対して、いずれも、彼は、滅ぼそうとする道を進んでいます。それだけはやめてくれ、と言いたいことを、彼は、わざとするのです。
 
>ですからイエスは次のように語っておられます。
>それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、
>自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
>自分の命を救おうと思う者はそれを失い、
>わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。
>たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。
>また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。
> (新約・マタイ16:24~27)
 
彼シャローム氏は、彼の十字架を負わず、人のせいにして、キリストに従わず、世俗の名誉欲にしがみついて、自らの欲と立場を救おうとして、人間の心をモノ化して、聖書をモノ化して、心のない自分に善しとして、全世界をもうけたかのように大仰に、神話の超常救い話と無罪信仰を、壊れたレコード盤のように繰り返す堂々巡りを続けています。既に否定され、彼が言い返せなかったことを、繰り言のように、また言うのが信仰だと思い込んでいるからです。その慢心において、彼は、笑う偽善者です。
 
彼は、代価を払えないばかりか、買い戻すことも、売ることも出来ず、代わりに、人を誘って、売り渡すのでしょう。キリストさえ裏切って、罪と偽善を隠して、義を得られると思っている人ですから。そういえば、ユダも、心の中で、キリストを空想し、キリストを決めつけ、期待通りのキリストの幻想を追うために、売り渡したのです。その結果、彼の情感のない心と、思慮のない頭からは、今も、彼が行った偽善のように絶え間なく、はらわたが流れ出しているのです。それを、シャローム氏に、奇しくも今、眺めている気がします。
 
>神の平安がありますように!
 
嫌がらせのように書いてきます。
 
彼シャローム氏は、罪は悔いなくていい、改めなくていい、告白しなくていい、それで偽善も罪だから赦される、と言って、訂正していません。だから、善悪の判断をするな、とも言っています。善悪の判断そのものを神に委ねよと言って、人が懸命に感じて考えることをするな、と言っているのです。残るのは、シャローム氏のように、欲望だけです。彼は、その通り、欲望のままに、言い換えると、自分のしたことを神の名のもとに正当化して、悔いることがありません。
 
ありのまま救われる、は、彼に言わせると、悔い改めないまま救われる、という意味だ、とも言っています。ということは、彼の信じている神は、恐らく、無制限に欲望と悪と罪と偽善を許可し続ける神なのです。つまり、人に、神のごとく、訂正不能に、無反省に振る舞うことを勧める神なのです。これを私は、キリスト信仰ではなく、自分信仰の一つとして無罪信仰と呼んでいます。
 
このような信仰?だから、彼は、平気で、記事を書き続けるのです。彼は、真顔で書いてきます。読む者が驚いても、彼は気にせず、まるで、嫌がらせのように繰り返して、ニヤニヤ、ヘラヘラ、または、アハァ、アハァ、と笑っているような印象さえ受けてしまいます。彼は、キリスト信仰の破壊者として、恐らく、一生変わらないのでしょう。
 
彼が福音と呼んでいるのは、人格破壊と背教です。彼は、神のことを全く思わないで、人のことも思わないで、自分のことだけを思って、思って気持ちのよい好都合な神を捏造しているのです。猫に小判、豚に真珠、シャロームに聖書、つまり、彼は恣意的な詭弁の曲解しかしない人です。彼の丁寧語による見かけの穏やかさと熱心そうに見える聖書語に騙されることのないように、祈っています。
 
法律も聖書も、解釈次第で、頭ではどうにでもなり、それを持ち出された場合、頭で考えただけでは、なかなか白黒が表れにくい、という特徴が表れてきます。つまり、解釈次第で、どの方向にも変わる、ということを申し上げたいです。この記事のように、多くの人が否定しないような美辞麗句を並べる者を、どうか警戒してください。
 
そういう恣意的に曲げられた解釈をする者は、いかにも、これ、当たり前ですよね、という言葉面の顔を持ってくるのです。その魂胆は、独裁者の煽動とすり込みと、陰謀に満ちています。そして、そういう者は、他者の誰かをぼろくそに言うけれども、何よりも、自らが責められるのを最も嫌う、という、共通の性質を持っているのです。悲しみと罪悪感を持ち得ない者が書いているのです。恨みと侮りとあざ笑いしか持てない者が書いているのです。
 
 
(2017年05月28日)
(2017年06月02日、一部修正)
 
穢土(えど)
侮る(あなどる)
捏造(ねつぞう)
 
 
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