何に寛容?
 
 その名は不思議
 寛容な心‐神のいのちの表れ
 2017/5/28(日) 午前 8:14
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28103911.html
 
 
彼シャローム氏は、例によって、ばたばたと政治の転載記事をかぶせてくるようです。そこに書いてある不正への批判が彼自身の首を絞めることさえ気づかずに。ぼろぼろの信仰の記事を覆い隠すためだけに転載が利用されている感があります。彼が政治の記事を理解できているとは思えません。彼はボロクソ節しか書いてこなかったからです。「嘘と謀略にまみれた官邸政治」「官邸の悪あがきと腐敗臭…」ですか。それらの記事を批判する気はありません。今日も、嘘と謀略にまみれたシャローム氏の悪あがきと腐敗臭を批判します。
 
>辞書によれば、寛容とは、「心が広くて、よく人の言動を受け入れること。
>他の罪や欠点などをきびしく責めないこと」とあります。
 
罪や欠点の有害度によっては、野放しでよいはずはありません。
 
>しかし、今の時代、この寛容な心はあまり評価されない傾向があります。
>なぜでしょうか。
>間違いを間違いとせず、そのままになってしまい、
>何が本当なのかがハッキリしなくなると、わたしたちは我慢できません。
 
我慢しなければならないのでしょうか。間違いを間違いと言わないでいいのでしょうか。
 
>もちろん、それは大切な場合もありますが、
>これもアダムが善悪を知る木から取って食べた結果だからでしょうか。
 
大切な場合もあると書きながら、なぜ2行目を書くのでしょう。それは、この人が、やはり何でも寛容が一番良いと言いたいからでしょう。いい加減な作文による詭弁です。
 
>聖書の言葉ではなく、孔子の言葉のようですが、
>「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があります。
>素晴らしい言葉ですが、いくらそのように教えられても、
>実践できるとは限りません。
 
このように、すでに、寛容の実践の話に入っています。自分勝手な人というのは、自分の都合の良いように、話を持ってゆくので、注意が必要です。この人は、間違いを間違いと指摘することを、大切だとは思っていないようです、ということが、流れの中で現れてきます。大嫌いな文章。
 
>寛容な心がなければ難しいことです。
>聖書を見ると、イエスは寛容な心をもっておられたことが分かります。
>罪びと、取税人と言われる人たちと食事を共にし、その寛容な心を示されました。
 
寛容は、決して、何でも、罪でも、偽善でも、反信仰でも、ゆるすことではありません。キリストが、取税人と言われる人たちと交わったのは、寛容不寛容という問題ではなく、彼らを救う意思があったからです。この人は、すり替えをするのが好きなようです。だから、なおさら、理解からは程遠くなるのです。
 
>マルコ2:16
>「パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと食事を共にしておられるのを見て、弟子たちに言った、『なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか』」(口語訳)

 
 (マルコによる福音書、口語訳)
2:16
パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと食事を共にしておられるのを見て、弟子たちに言った、「なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
2:17
イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
 (マルコ2:16―17、新約聖書)
 
このように、彼らに対する、キリストの救済の意思が、はっきり向けられていることが分かります。
 
>当時の宗教家たちは、そのイエスの寛容な心、御霊の実が見えず、批判しました。
>社会的に見下されている取税人や罪人と言われる人たちと、接触し、
>親しくする人は、その人も同じように見られると思って、
>律法学者たちはその人たちに近づこうとしなかったようです。
>しかし、イエスがその人たちと一緒に食事をして、
>親しい交わりをもっていたのは、その寛容な心からだと言えます。
>取税人のかしらザアカイが今までの生き方を悔い改め、変えられたのは、
>イエスの寛容な心に接したからでした。
 
それ以上に、キリストが彼らを救うためです。取税人は、ローマへの税金を徴収するものとして、軽蔑され、罪人というレッテルを押されて、彼ら自身も、それを弁えていないと生きてゆけなかったからでしょう。
 
>イエスのたとえ話の中で、「放蕩息子」のお話がありますが、
>放蕩の限りを尽くして家に帰ってきた弟息子を大手を広げて迎え入れた、
>その父親の姿は、寛容な心をもっておられる父なる神を表しています。
>一方で、兄息子は、とてもとてもそのような寛容な心をもてませんでした。
>ですから、兄は怒って家に入ろうとしませんでした。
>寛容な心、それは父なる神のいのちの表れと言えます。
>このような心がほしいと思いますか。
 
この父親は神を喩えているでしょうし、上のキリストといい、ここでの寛容は、信仰の核心に触れるところの、愛、なのです。寛容、寛容、と言い続けることは、不適切です。愛は、寛容であり、というパウロの愛の讃歌にもあります。聖書は、まあ、ゆるしてあげましょう、というような、気安い寛容を説いてはいないのです。
 
寛容を説く記事を引用して、シャローム氏は、不寛容に批判する者を責めたいのでしょう。しかし、上にも書いたように、あからさまなすり替えをしている文章ですから、シャローム氏の文章と同じように、これも、また、詭弁だったか、と気づくことになるわけです。私は、真っ直ぐに批判しているのに、シャロームは、真っ直ぐに答えられないために、人の記事を挙げて、ほのめかすことしか出来ません。このような卑怯なやり方を見るたびに、批判をやめてはいけないことを肝に銘じます。
 
>今、神のいのちの表れについて書かれています。
>見えないけれど実在し、神のかたちに造られた私たちに、また全被造物に対して
>どのようにかかわっておられる方かについて書かれています。
 
つまり、彼シャローム氏と引用元は、気安い寛容が信仰であり神の命の表れだ、と受け取られかねない、ということになります。そう受け取らせて、自分のことをうるさく言っている者、つまり批判者を見くびって、あざ笑っているようです。
 
>神のいのちの表れを八つの聖霊の実と述べられています。
>「 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、
> 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。]
>(新約・ガラテヤ5:22~23節)
 
これは、前に書きました。9つ、いずれも、シャローム氏にはないものです。
 
 「愛なき信仰」 2017/5/14(日) 午前 0:03
 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/19168279.html
 
>すでに愛、喜び、平和について書かれましたが、今日は寛容です。
>だれもが聖霊の実はすばらしい実だと思われるでしょう。
>だから、これらを否定する律法はないと書かれているのですね。
 
言葉面しか書けないシャローム氏は、これらが、別々の言葉だから、別々の意味を持っていて、別々に話すものだと思っているようです。意味を深く考えないという、彼の習性が表れています。大切なものは一つだという言葉もあります。9つ全部、オーバーラップしていて、関連している言葉です。
 
>どんなに素晴らしく、良いことで、必要な実だと理解できても、
>自分にはなかなか無いな、少ないなぁと思われる方が多いのではないでしょうか。
>しかし、心配無用です。自分を裁ないでいいのです。
 
心配無用と書いているシャローム氏は、今、彼だけが知らない執念の地獄にいます。自分を全く見ようとしないからです。このペテン師の口車に乗ってはいけません。彼は、安心を語っているつもりでも、内臓からの臭い汚物を振りまくことになります。自分を全く見ようとしないからです。
 
>精霊の実はすべて神のいのちの表れであって、人の肉のわざ、実ではないからです。
>ガラテヤ5:19節~21節に肉の働きについてメニューが書かれています。
>「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、
>偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、
>ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、
>今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。」
 
この中の、好色と泥酔と宴楽以外は、全部、シャローム氏に当てはまると思います。今まで書いてきましたし、都合の悪いことは削除と隠蔽、相手には侮辱、それで、全部当てはまるでしょう。自分に当てはめることなく、こういうことを平気で書いてくるシャローム氏、今に始まったことではないのです。
 
>聖霊の実より、肉の働きの方が身近な感じがしてしまいますが、どうでしょうか。
>だれでも神が食べてはならない、それを食べると死んでしまいます、と言われた
>善悪を知る木の実を食べると、肉の働きが私たちの心と生き方を支配してしまうのです。
 
シャローム氏には、肉の働きしか見えてきません。聖なる御方をも欺いているからです。そして、肉の働きの原因を、彼は、善悪を知る木の実、という、超常神話に持ってゆくのです。どうでしょう。この責任感と現実感のなさ。
 
彼は、聖書も神も聖霊もキリストも人間も信仰も、どれをとっても、少しも理解していないと思います。彼にとって、神聖は、罪と書いたちり紙を、お団子のように備える場所でしかないのでしょう。笑う偽善者です。そのうち、顎が外れるでしょう。
 
彼がどんなに人を侮り、あざ笑っても、私は笑ってはいない、大方、怒りを集中力に変えて、批判を書いてゆく。
 
>イエスさまの生き方、生涯を見ると、豊かな聖霊の実、
>神のいのちの表れを見ることが出来ます。
>聖霊の実は神の恵みによってイエスさまに対する信仰によって
>与えられる恵みの賜物なのです。
>ですから、イエスさまは「私につながっていなさい。
>そうすれば豊かな実を結ぶことが出来ます。」と言われ、
 
このキリストからの賜物を、自らの欲望のために、無にして、しかも、それを正当化して、人に広めようとしているのが、シャローム氏に他なりません。信仰を解説するのに、豊かな聖霊の実、こういう、一見よさそうなだけの言葉面の飾りを付けて、何が伝わるでしょう。解説できない者が、人々を煙に巻く言い方としか思えません。
 
彼は、実に安易に聖なる言葉をつないだ聖書語で、人々を、信仰に見せかけるペテンに掛けてきたのです。それで、やっていける、と思ってきたのでしょう。聖霊だけだと豊かではないのか、聖霊だけだと実にならないとでも言うのか。知ったかぶりで、余計な意味の強め方でごまかす説教より、分からない共感のほうが、信仰者として相応しいことを覚えてください。いつも分かった風味の詭弁を投げてくる彼は、それが出来ない人なのです。
 
彼はキリストにつながっているとは思えません。彼の罪と偽善と隠し事が証拠です。キリストにつながっている者なら出来ないことをしてきました。彼は、出会った罪と、ことごとく仲良しになってきたのです。弁えのない信仰は、口酸っぱく賛美すればするほど、それに増して酸っぱい腐れものを貪ることになるでしょう。
 
>さらに「私につながっていなければ
>決して実を結ぶことが出来ない。 」と言われたのです。
 
その通り、彼は、繋がりを拒んで、自らの偽善貫徹の道を歩んでいます。
 
>私たちの理性や知性、能力ではわからない、本当に不思議な言葉ですね。
>「不思議」とは読んで字のごとく、思考、思慮、議論ではわからないことです。
>ですから、聖書には神の名を「その名は不思議」と記され、
>ブログのタイトルとしています。
 
理性や知性、能力では分からない者を、気安く分かったかのように今まで語って来たのが、シャローム氏です。今日は、彼の言葉が、彼を断罪しています。思考、思慮、議論ではわからないこと、と言って、一切の思考を停止させ、自分の罪も偽善も考えなくなったのが、シャローム氏です。
 
分からないと言いながら、分からない者に相応しい信仰の態度と姿勢を全く持たないのが、シャローム氏です。不思議と言いながら、神の啓示とばかり、預言者に成り上がって、大仰に語り、不思議を裏切って、神を裏切って、人を裏切ってきたのが、心のない魔性として世にはだかる、シャローム氏です。
 
>私たちは聖霊の実をあらわすことが出来なくても、
>イエスさまにつながり、委ねていると、
>イエスさまご自身が寛容という実もあらわしてくださるのです。
>「主を待ち望む者は新たなる力を得、鷲のように翼を張って、のぼることができる。
> 走っても疲れることなく、あるいてもよわることがない。」
> (旧約・イザヤ書40章31節)
 
神に対する誉め言葉の安売りで、信仰だと神が勘違いして、良きに計らってくださると思っているシャローム氏です。讃美の安売りに気をつけてください。以下、同章より
 
 (イザヤ書、口語訳)
40:5
こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。これは主の口が語られたのである」。
40:6
声が聞える、「呼ばわれ」。わたしは言った、「なんと呼ばわりましょうか」。「人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。
40:7
主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。
40:8
草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」。
 ・・・
40:17
主のみ前には、もろもろの国民は無きにひとしい。彼らは主によって、無きもののように、むなしいもののように思われる。
40:18
それで、あなたがたは神をだれとくらべ、どんな像と比較しようとするのか。
40:19
偶像は細工人が鋳て造り、鍛冶が、金をもって、それをおおい、また、これがために銀の鎖を造る。
40:20
貧しい者は、ささげ物として朽ちることのない木を選び、巧みな細工人を求めて、動くことのない像を立たせる。
40:21
あなたがたは知らなかったか。あなたがたは聞かなかったか。初めから、あなたがたに伝えられなかったか。地の基をおいた時から、あなたがたは悟らなかったか。
40:22
主は地球のはるか上に座して、地に住む者をいなごのように見られる。主は天を幕のようにひろげ、これを住むべき天幕のように張り、
40:23
また、もろもろの君を無きものとせられ、地のつかさたちを、むなしくされる。
40:24
彼らは、かろうじて植えられ、かろうじてまかれ、その幹がかろうじて地に根をおろしたとき、神がその上を吹かれると、彼らは枯れて、わらのように、つむじ風にまき去られる。
40:25
聖者は言われる、「それで、あなたがたは、わたしをだれにくらべ、わたしは、だれにひとしいというのか」。
 (イザヤ40章抜粋、旧約聖書)
 
私たちは、全能の神を恐れるけれども、残念ながら、世をも恐れ、人をも恐れ、人を欺く偽善者をも恐れ、自らをも恐れるゆえに、キリストの救いを求めて、正直に告白し、祈り願うのである。偽善者を退かせてください。
 
>暑い、快晴の日が続いています。
>脱水に気を付けながら、気持ちの良い風を感じながら、
>ここ数日、30kmほどクロスバイクでポタリングを楽しんでいます。
>きのうは娘と連れ合いと買い物を兼ねてドライブをして、
>久しぶりに娘宅で凛ちゃんと息子も加わり
>少しお酒を飲んでダベリングを楽しむことが出来ました。
 
こういう記事に、こういう状況で、こういうことを書いて、恵まれているので心配ないという余裕を見せつけようとするアンバランスを平気で過ごしてしまう近況の安心事が、これまでの流れから言って、しなかった後悔をまとめてするような目に遭うことはないのさ、と、それこそ挑発的に、神に向かって言っているのと同じだ、ということに気づかない人です。イザヤ書の、美味しいところだけ引用して、彼が引用しなかった部分の、ここに私が引用した聖句の、恐るべき神を、あざ笑うかのようです。
 
私たちが、乏しいながら、知っていることとして、神は、神御自身を恐れず侮る者を、決して見逃しはしなかったし、赦しもしなかったということがあります。何を勘違いして、幸福そうに見える刹那の成り行きを、静かな祈りのうちに感謝するにとどめないで、人の言葉にして見せびらかそうとするのでしょう。
 
讃美しておけばよいのだからと安穏として、ここまで神を恐れず、これだけ神を舐めてかかる人も珍しいでしょう。駄弁はしても、まじめな告白はしない、自分に最も寛容なシャローム氏です。記事は、自分を讃えるために書いた、ということが分かります。
 
二千年前、キリストの敵であり、キリストを殺したのは、神の名を権威としていた偽善者たちでした。神の名を讃えながら、あわれみも、悲しみも、理解できず、戒律の文言の形式的理解という言葉面に固執して、偉そうに上から説教を垂れていた者たちでした。
 
そして、現代においても、キリストの言葉を骨抜きにし、とんでもない無罪信仰を広めようとしているのは、やはり、キリストの名で、訂正不能の妄想を信仰として、人を侮りながら、不感不応で、記事を何度も書いてくる偽善者なのです。
 
 
(2017年05月30日)
 
 
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