何を蒔こうとするのか
 
 その名は不思議
 イエスさまは地にまかれた命の種
 2017/6/18(日) 午後 5:33
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28134213.html
 
 
今となっては狼狽と呼ぶしかないような彼シャローム氏は、今となっても、自分を省みることなく、妄想がかける迷惑を考えもせず、人の意見を聞くこともなく、説教の押し売りをしてきます。殆ど内容は同じです。つまり、お前らは間違っている、自分は正しいから教えてやる、というスタンスのボロクソ節しか持ち合わせていません。
 
聖なる者気取りの見苦しさで、聖書の、耳ある者は聞くがよいという態度を、罪と偽善の告白も悔い改めもしないで平気でいられる者が、真似をすると、このように醜い有り様にしかならない、ということを覚えてください。
 
>御子イエスを信じる者は御子を持つ者であり、
>御子を持つ者はいのちを持っているのです。
>御子を持つとは、言い換えれば、御子イエスにつながっていることです。
>御子イエスとの深い関係を持っていることです。
>その関係とつながりをもつ人は、御子のいのちが流れてきて、
>その結果として実を結びます。
 
引用では説明がついていますが、御子を持つ、さらに、自分の中にはキリストがおられる、というような表現は、恐らく、自分信仰者が好んで悪用する恐れのある言葉です。言い換えれば、この言葉を好んで使う者は、彼シャローム氏のように、自己絶対の自分信仰からの妄想を欲望して人間の節操を失う危惧を考えない人かもしれません。
 
>ヨハネ15:5
>わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。
>もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、
>その人は実を豊かに結ぶようになる。
>わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。(口語訳)
 
この段落には、次のような聖句が続きます。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
15:6
人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。
 (ヨハネ書15:6、新約聖書)
 
引用元は、6節を引用していませんが、たぶん、厳しい言葉だからでしょう。だから彼シャローム氏は引用したのでしょう。しかし、人が神を無視するか神に成り上がる傲慢に対しては神はどこまでも厳しい、ということをパスしてはいけないのです。
 
神は、いくら人が、失敗しても、悪いことをしても、悪いことを言っても、力がなくて何も出来なくても、それを正直に認めて告白し救いを求める人には、限りない慈愛を示すことを聖書は語っています。それが信仰の節操です。6節の厳しさは、同時に、神の慈愛を示すものなのです。
 
>素晴らしいみ言葉ですね。
>多くのクリスチャンがよく知っているみ言葉です。
>主イエスにつながって実を結ぶというのは、
>人が努力して結果を出すのとは少し違います。
 
何もしないで神の義を与えられる安売りでもありません。上に書いた節操だけが条件になるのです。彼シャローム氏がこれを引用した企みは、新たな偽善と罪になるだけです。
 
>人が努力して、頑張って、ある程度の実績を出すということは、
>分かりやすく、多くの人に注目されやすいのですが、
>こちらはミカンやリンゴの実を結ぶという場合と同じで、
>いのちの結果として表される実です。
>そして、こちらのいのちの結果としての実の方は、
>意外と無視されやすいようです。
>無視されるというのは、あまり評価されないということです。
 
このような、何もしなくていいんだよ、神がやってくれるから、というような説教文句は、彼シャローム氏が最も好む説教です。そして、彼は、節操を守るということを一切せず、妄想に溺れて、自己正当化のために、節操に背くことばかり続けています。そして、それを書いて発表して広めようとさえしてきます。彼の罪は、一対一で対応すると言ってもよいくらい、偽善性が高く、続けている限り、信仰からは遠くなるばかりなのです。
 
>私は果物好きですが、残念ながらカリウム摂取コントロールのために、
>以前のように好きなように食べられません。
>食事も塩分の摂取コントロールのため、以前ほどおいしさを感じません。
>美味しいし、好きだから体に良いというわけではありませんが、つい食べたくなります。
>からだは食べたものによってできています。
 
こういうベタな喩えを語っている場合ではないのですが、彼シャローム氏は、説得力のある文章をまるで書けないのと、余裕があるところを見せたいのでしょうか、近況と小話を入れてきます。彼のやってきたことを知っている者には、悲惨です。
 
それとも、彼は、同情を引きたいのでしょうか。同情されるに相応しい人というのは、人の助けを必要としているので、受ける姿勢があり、受けて反応する器を持ち、ゆえに、人間を求めているのです。彼のように一方向に訂正不能に固まっていたりなどしないのです。
 
>私たちの心も同じだと思います。
>あなたの心のあるところ宝もあるというイエスさまの言葉があります。
>何を大事なもの、宝として生きているかで、私たちの心は養われるのです。
>塩分、糖分、カリウム…なども必要ですが、
>過剰に摂取すると健康をそこないます。
 
過剰摂取禁物と言って話を濁しています。
 
>日本は長時間労働、過労死が深刻な問題となっています。
>働き方改革が必要だと言いながら、一番働き方の悪い政治が行われているようです。
>KAROUSIはそのまま世界に通用する言葉となりました。
>からだと心が病むほど働く、働かせる、働くは傍(ハタ)を楽にするという意味だと言われます。
>働く人も会社も、学校も、家族も病み、社会、国も一体どのような実を結んでいるのでしょうか。
>アベノミクスはアベノリスクとなり、うちも外からもリスクでいっぱいとなっています。
>政治も嘘だらけで、信じ、信頼できなくなっています。人のまく種です。
 
ここで、政治の話を持ち込む節操のなさです。インテリと思われて、信用を得たいのでしょうか。神のものは神に、カエサルのものはカエサルに、というキリストの言葉がありますが、彼シャローム氏は、神のものは自分のもの、カエサルのものも自分のもの、また、自分がどういう悪い種を蒔いているか、ということを全く見ようとしない自分信仰者だと思います。
 
>創造されたエデンの園は豊かな実にあふれ、自由に果実を採って食べることが出来て、
>アダムとエバは裸でも、ありのままに受容しあい、自由だったようです。
>何が、恥と恐れと、働いても実を結ぶことのない生き方、死をもたらしたのでしょうか。
  
疑問文ですが、対応する解説が、ないようです。まさか、次の、キリストを十字架にかけた者たちは、自らの死を招いた、ということでしょうか。結果を原因とするのでしょうか。それとも、前から言っていた無判断妄想に帰着させたいのでしょうか。まともなものは何もありませんが。
 
>イエスさまを十字架につけた宗教と政治権力は自らの死を招きました。
>イエスさまの死は今も豊かな結実をしているのです。
>キリスト教ではなく、十字架につけられ死なれたイエスさまによる果実です。
>キリスト教は命の種について人の説明、解説されたものです。
>いのちの種はイエスさまご自身なのです。
 
説明、解説されたものによらず、つまり聖書とその解釈によらず、キリストを知っていて仲良しだとでも言いたいのでしょうか。これが自分信仰というもののあり方の正体なのです。実際には、彼は、何も分かっていない、だから、今になっても気づかないし、妄想と詭弁ばかり投げてくるのです。
 
>果物はおいしくても、種を食べる人はなく、捨てられます。
>しかし、実を結ぶのは種です。
>種は地にまかれ、死をとおして新たな実を結びます。
>イエスさまは命の種です。
>イエスさまは命の種として、ご自分の命を地にまかれたのです。
>イエスさまの命の種は私たちすべての人の心の畑にまかれています。
>だれでも心の畑を種が成長するように手入れを必要としていますが、
>それも人ではなく、イエスさまという種をまかれた方がしてくださっています。
 
キリストは命の種、なのでしょうか。イエスさまという種を蒔かれた方、というのは神のことでしょうか。キリストとは別なのでしょうか。彼シャロームという人は、キリストを種という比喩で表せるほど神と親しいのでしょうか。どういう思い上がり方をすれば、キリストさえも対象とする物の言い方が出来るのでしょう。彼シャローム氏の、その程度の比喩の理解だと思ってよいでしょう。
 
こういう人ほど、様々な、というより、手を変え品を変え、という言い方が似合うような、未消化のままで、鼻糞の軽さで、鼻糞の内実だけを、ピンgピンg弾いて受け取らせようとするような、言い方の数だけが多いのです。それで、罪と偽善の事実にも矛盾しているので、結局、少し突っ込んで考えるだけで、安い模造品だと分かってしまうのです。
 
>なかなかわかりにくい、気づきにくいことです。
>なぜなら、いつも善悪を知る木の実を食べて、心とからだが養われているからです。
 
また妄想を持ち出します。私が何度批判しても、それを読まない彼シャローム氏は、同語反復しか出来ません。
 
人が何をしても罪を気にしない?無罪妄想も、善悪の判断をしないで生きる?判断放棄妄想も、前に説明はしましたが、はっきり言って、良識があれば、とんでもないことだと即座に直観的に否定できるのです。それが、罪に支配されているシャローム氏には、できないのです。
 
罪の門口で狼狽える者、自分の罪を支配できないで、悔い改めることもしないで、いったい、何を蒔くことが出来るというのか。
 
 
(2017年06月19日、同日一部修正)
(2017年06月21日、一部修正)
 
狼狽(ろうばい)
狼狽える(うろたえる)
種を蒔く(たねをまく)
 
 
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