妄想の中の平和
 
 その名は不思議
 平和への唯一の道
 2017/6/20(火) 午前 10:38
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28136906.html
 
 
今回の記事は、引用+、だと思うのですが、彼シャローム氏は、引用元を書いていません。引用と転載においては、出典明記が義務ですが、もし引用しているなら、違反ということになります。また、今回の記事は、まさに、彼こそが平和を築くのに相応しくない考えを持っている人であることを明らかにしています。
 
>今日の聖書のみ言葉です。
>「そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。
>剣をとる者はみな、剣で滅びる。」
> (新約・マタイによる福音書26章52節)。
 
>戦争は人が平和を求めているにもかかわらず起こります。
>いや平和を求めているからこそ起こるとも言えると思います。
>なぜなら、求めている平和が自分の平和だからです。
 
彼シャローム氏は、批判を全部削除して、刺激のない環境を自分で作って、それを神の平安と呼ぶような人です。まさに、自分だけの平安です。
 
>今も世界を見ますと、どこかで戦争、紛争によって血が流されています。
>人間の歴史は戦争の歴史といわれています。
>人はだれでも自尊心を持ち、だからこその自分を守ろうとします。
 
その自尊心にしがみつき、神の助けが必要な低い民であることの節操を失っているのが、彼シャローム氏なのです。
 
また、「今も世界を見ますと」という言い方を、彼シャローム氏はしてこなかったと思います。どうも、彼ではない人の記事のように思えるのですが。
 
>聖書は人間の闘争心についてこう述べています。
>「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。
>あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。
>あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。
>また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。
>得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、
>自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。
>不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。
>おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。」
>(新約・ヤコブの手紙4章1節~4節)。
 
おおよそ、彼は、世の友、つまり、神よりも世俗の名誉にこだわって、神にも人にも嘘をつき、自分の欲のために偽っているのです。今も、信仰を人に教える記事を書いて、自省も自制もしないことが、それを証明しています。
 
>争っている人は、争っている時、だれでも自分の言い分があります。相手にも。
>自分の言い分が、より、いや絶対正しいと主張する時ほど、争いは激しくなります。
>人の目に正しいと思われることが、私たちに最善を、平和を
>もたらすものでないことを知らなければならないと思います。
 
自分の目と、人の目一般とを、混同した詭弁です。私たちは絶対ではないが、それゆえにこそ、正しさを求めて議論したりすることが必要です。それを、彼シャローム氏は、神の絶対を持ち出して否定するのです。常識的におかしいのです。そういう直観的理解を失った彼は、自分の絶対を押し付けるときに非道を合理化するのです。
 
>「人が見て自分で正しいとする道があり、
>その終りはついに死にいたる道となるものがある。」という言葉もあります。
>(旧約・箴言16章25節)
 
聖書は、人が正しいと決めつけることの災いを述べています。彼シャローム氏は、人が議論したり判断したりすると死ぬぞ、と脅迫する気でしょうか。ここに、絶対と相対を区別できない思慮の欠落があります。私たちは、絶対ではなく、相対的存在です。だからこそ、限りある知恵を出し合う必要がある、ということを、彼は理解できないようです。
 
>ここに一つの原則があります。
>この原則は人に属する原則ではなく、神による原則です。
>それが「そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。
>剣をとる者はみな、剣で滅びる。」です。
>剣に対して剣を持ってしても、決して真の勝利はないということです。
 
聖書の通りのことを教えれば、戦争を防げるのでしょうか。こういう書き方は、現実離れしたキリスト者には、結構、見られるのです。平和を目指すのであれば、政治を考えないわけにはいきません。個人の魂の救いである信仰を、節操もなく政治に持ち込んで、話をあきれるほど単純かつ幼稚にして、全か無かで決めつけるのが、彼シャローム氏の豪語する政治の言説です。このような恥ずかしいキリスト者になってはいけません。
 
>私たちが剣を取ろうとするとき、必ず勝利を目指し、
>その結果こそ最善であると信じています。が、しかし、剣を持って勝利し、
>平和をもたらそうとすることは火事を消すために、油を注ぐようなことです。
 
剣を取ったことがあるのでしょうか。剣を取らない勝利は、命を賭する覚悟が必要なのですが。そのことを書かず、まさか、浅薄な博愛主義を説教する気ではないでしょうね。
 
>「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、
>イエスと犯罪人とを十字架につけた。
>犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。
>「父よ。彼らをお赦しください。
>彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
>彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
>民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。
>「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、
>選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
>(新約・ルカによる福音書23章33~35節)と書き記されています。
 
>イエスはご自分を憎み、偽りの裁きによって、
>十字架につけるすべての人のために、十字架の上で祈っておられます。
>自分が正しいと主張してイエスさまを裁き、
>十字架につけているのは私たちですぅ。
 
「私たちですぅ」と書いたのは、シャローム氏でしょうか。単なる書き間違いでしょうか。
 
>だれでも自分が正しいと主張し、他を裁きますが、
>さらに神をも裁いているのですが、
>自分が何をしているのか分からずにいるのではないでしょうか。
 
>イエスは言われました。
>「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。
>しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、
>あなたがたの罪がある。」
>(新約・ヨハネによる福音書9章41節)
 
これは、私の好きな聖句で、しばしば引用してきました。自分の信仰を相対化できる人は、見える、と言い張ることはありません。しかし、多くのキリスト者、特に、シャローム氏は、既知であるかのように、見える、分かる、守っている、教えてやる、という立場から決めつけを語り、他者や社会をぼろくそに言うのです。
 
>万物の創造者である、聖にして、義にして、愛であられる
>イエス・キリストの父なる神を畏れ、
>信頼することなしに、いかなる人のわざでも
>私たちの心を支配している岩盤規制という罪を砕くことはできないのです。
>真の平和の道を歩むことはできないのです。
 
神を信じ頼る人は、神の前で嘘をつかないし、神の前で正直な人は、人の前で、白々しい嘘をつきません。彼シャローム氏は、背いてばかりいる偽善者です。いったい、これからどうするつもりなんでしょうか。怖くなります。
 
>それは「キリスト教」という宗教を信じることではなく、
>十字架の上に命をささげ、よみがえり、
>生きておられるイエスご自身を信じることです。
 
また言っています。キリストご自身を個人的に知っているかのような傲慢な口をきく、これが彼という人です。前に批判して、彼は答えなかったにもかかわらず、同じことを言ってきます。こういう人を相手にすると、服従しない限り、疲れて、ずたずたになって、逃げることができればまだいいほう、ということになります。この辺から、俄然とシャローム臭がしてきます。
 
>このことは国や民族ばかりではなく、私たち個人においても同じです。
>私たちが自分の神、家族の神、同族の神、部族の神、民族の神、国家の神を掲げて、
>それぞれの自己の自尊心、誇りや自己同一性の根拠にしている限り、
>宗教ですら平和をもたらすものではなく、もっとも深刻な争いの原因になるのです。
 
彼の無罪妄想と無思考がその典型でしょう。彼は、自分と違う信仰の考え方を聞いて反応すること一切を放棄しています。
 
>いかなる宗教も、宗教はもっとも偽りに満ちた偶像となるのです。
>「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。
>上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、
>どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。
>それに仕えてはならない。
>あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、
>わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、
>わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、
>恵みを施して、千代に至るであろう。」
> (旧約・出エジプト記20章4~6節)
 
彼はどうするんでしょうね。いちばん、傍迷惑で、訂正不能な、無罪と無思考の無判断という妄想宗教を勧めているのは、彼シャローム氏なのです。心の中には偶像しかないのです。それ以外を見せたことがありません。
 
>この言葉の中心は「あなたは自分のために」です。
>天地万物の創造者であられる唯一の生ける神をただひとりの神として
>全世界、全人類が仰ぎ見ること、それが真の平和の道です。
>イエスはその道を示し、その道を歩かれたのです。
>それは死と滅びの道から、命と平和への唯一の道なのです。
 
そうして、彼シャローム氏は、ただ彼自身のために、誰とも話し合わないで済むようにブログを固めて、その中から言いたい放題言ってきます。耳あるものは聞くがよい、という聖句がありますが、彼には、聞く耳がないのです。そして、このように、戦争と平和の問題に、あらゆる問題に、自分と同じような信仰を持てと、妄想を振り回すのです。
 
>神の平安がありますように!
 
彼の、すっとぼけたニヤニヤ顔が目に見えるようで、いつもながら彼のこの言葉が、実に白々しくて耐え難いものがあります。嘘だらけの、こういう記事ばかり書いて、積み重ねて、あとで困らないのだろうかと思います。私は、学者でもインテリないし、キリスト者としても恥ずかしい者だが、こうはなりたくない。
 
 
(2017年06月20日、
同日一部修正)
 
PCは、相変わらず不調で、頻繁にHD100%フリーズ状態です。お礼の訪問とポチ、等々、なかなかできず、時間をかけて、ようやく記事を書いてアップするのが精一杯の状態です。お赦し下さいませ。
 
 
 
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