相対性とユダ
神が絶対ならば、完全となり得ないことが自ら分かっている人にとって、人の世界は相対的にしか存在しないことになる。私たちが、ふつうに在ると思っているものは、皆、私たちの感覚を脳が、在ると認知しているに過ぎないものだ。ならば、神さえ、在ると認知しているに過ぎないものか、そうではない。神は、人などによっては、認知さえされない御方である。神は全能であり、人は不全だからだ。
まるで、神が、同居人か恋人か家族か友人であるかのように、さらには愛のストーカーであるかのように、神を信じて、愛し愛されていると思い込んでいる者は、まだ真の神を、そして、神について人の知恵で弁えるべき最低限さえ、信じても仰いでもいない。
神の意思と言葉は、人の言葉にも、さらには、人の概念にも、変換できないものである。私たちは、聖書と、神の造る成り行きを、間接的に、リアルではなく、あたかも、幻を見るように見て、あるいは傍観して、暗示的に受け取り解釈している。
だから、神を、何も決めつけずに、信じ仰ぐことが必要になる。しかし、人は時々決めつけることがあり、ゆえにそれは少なくとも修正可能でなければいけない。それが、相対的にしか在り得ない人の宿命である。神を相対的に信じることしかできないならば、信仰も相対的であるか、そうである。
ユダは、キリストの教えを理解できず曲げて受け取ったから裏切り者としての道しかなかったのか、そうではない。他の弟子も、キリストの意思を分かってはいなかった。ユダは、理解が足らなかったから救われないのではない。ユダは、理解が足らない自分を自覚せず、自分の理解に頼ってキリストを進ませようとしたから、裏切るしかなくなった。
他の弟子たちもキリストを理解はしていなかったが、彼らは、それでも、キリストの教えを最も大事にして、そのときそのときに、キリストの言葉を受けては無い知恵を振り絞ってキリストについてゆこうとした。それは、復活までは、大方、間違っていたけれども、そこには、キリストのみに頼り、キリストに反応しようとした弟子たちの一途な心の貧しさがあったから、キリストに愛された。それは、とりもなおさず、信仰である。
弟子たちは盲従したのではない。ときに、キリストを諫めようともしたけれども、そのときのキリストの言葉に、理解していなくても、自分の意見を引っ込めて考えてみることを選んだのだ。弟子たちは優秀ではない分、相対的な信仰によって、修正可能だったから、復活以後の使徒となった。
ユダは間違えたから救われなかったのではない。間違える自分を認めず、キリストの新たな言葉にも反応せず、慎みもせず、考えようともせず、キリストについて分かっていないことがあるという余地を持たず、分かっている範囲だけの条件付きの従順に頼ったので、結局、キリストに耐えられず、裏切るに至った。
知識や能力など信仰には関係ない。
イスカリオテのユダは訂正不能の思惑に生きて裏切り者となった。
ペテロを始めとする弟子たちは修正可能に心を揺さぶられて使徒となった。
(2017年06月21日)
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