素晴らしさの形骸
 
 その名は不思議
 ローマ11:33~36ー神の素晴らしさを賛美する!
 2017/6/23(金) 午前 10:16
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28141060.html
 
 生活の中の聖書
 ローマ11:33~36ー神の素晴らしさを賛美する!
 2010/11/22(月) 午後 5:19
 
 
彼シャローム氏が自分で書けば破綻だらけ、それで人の書いたものに頼るわけですが、それも、自分とそう違わないものを持ってくる、つまり似たようなものになる、ということが、転載記事の選択において成り立ってしまうわけです。
 

ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

 
パウロのローマ人への手紙の聖句です。神の不可知を語っていると思われることを、自分のほうに当てはめるために持ってきたようです。神をほめたたえるべき根拠は、人は何もしなくていい、ということではなく、人がどんなに成し遂げようとしても出来ないことがあり、それを神はなさるのであって、神のみがなさることがあるということです。しかし、その不可知のわざまで、自分の信仰として分かったことにしてしまう者たちがいます。
 

この世は天地のものや人間はすべて偶然の産物だとしていて、自然界の姿を見て感嘆することがあり、私たちのすることに感嘆する。

 
自然や人間のわざを見て、感嘆してはいけないのでしょうか。こういう者に限って、自分は神のみわざのみに感嘆することを自慢するつもりで、的外れのことを言いやすい傾向があります。的外れというのは、異教を侮辱したり、神の立場で物を言ったり、など、どう考えても信仰にふさわしくない言動です。
 

けれども「ああ」とパウロは感嘆する。ここにあるすべてが神への賛美だ。神はすべての者の創造者であり、救済者であり、支配者である。本当に祝福された人生は神の御業をたたえて生きることなのだ。すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るのである。

 
神への讃美ばかりで、このように神を讃美します。と同時に、人を軽視してゆくのでしょう。神は、人のために、信仰を与えたのだから、人は、人を軽んじてはならないことは言うまでもありません。そこを勘違いして、人から離れ、人を憎むことの根拠を、信仰に求める者がいます。人間離れしやすい人というのは、人嫌いなのでしょうか。
 
>創世記1:1初めに、神が天と地を創造した。
 

神は六日に渡る創造のわざを終えられた。最後に神は人をご自身のかたちとして創造し、男と女とに創造されたのである。そしてこのように言われたのである。

 

創世記1:28~30神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」神は仰せられた。「見よ。わたしは、全治の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」

 
この今さらのような創世神話は、信仰の話にどう関係しているのでしょう。ここを読んで讃美しないものは信仰者ではないと言いたいのか。よほど、この聖句の創世記に、しがみついているのでしょう。信仰者の視点は、自分の信仰のために、疎かにできないこと、つまり、罪と赦しの問題に行くはずなのです。神話は神話として受け取り、人の罪の話へとつながる重要なものです。しかし、ここを、ことさら賛美して、それで満悦してはいけない問題が、地上を生きる人間には、たくさんあるということを忘れてはいけません。
 

私たちの信じる神は、目があっても見えない、口があってもことばを発せない、耳があっても聞けないようなでくの坊ではない。言い送った事を成功させる神なのだ。そこに信頼できるかが勝負なのだ。

 
神が、でくの坊、だと誰か言ったのでしょうか。唐突な表現です。さらに、問題として、言い送ったことを成功させる神という断言は、この人に言ってもらう必要はありません。不全なる人には、成就したかどうか、わからないこともあります。ゆえに、前に、恵みと試練は同値で区別できないと書きました。そこをばっさり端折って、信頼できるか、というのは、勝負なのだ、というのは、いったいどこに全能の神への信仰があるのか、ということになるのです。つまり、自分は分かる、ということが前提になって慎重さがなくなっているから、こういう言い方になるのです。
 

イザヤ55:8~9、11わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。??主の御告げ。??天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。・・・そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。

 
神のことを言っている聖句です。
 

神は私たちの心をずべてお見通しであるが、私たちは神の心を見通すことはとても出来ない。私たちの道と異なり、私たちの思いよりも高いからです。私たちは「わたしの望む事を成し遂げる。約束は必ず果たす。」と言っているここに信頼するのだ。

 
神は神の望むことを成し遂げる、これは、すなわち、人のために成すことも、神の意志と計画に基づいて成される、ということです。いちいち、神ご自身が造った人の、都合や納得を得ながらするわけではない、ということなのです。
 

神のご計画は私たちの思いを越えている。けれども、それを聖書を通し、自然界を通して私たちに語られている。私たちの誰が神が人となって私たちの中に住むこと、十字架にかけられいのちを捨てること、死人の内からよみがえることなどを考えたであろうか。まさに神のその知恵と知識は私たちの理解を遥かに越えたものである。     

 
神は人のためにすべてを語っているとは限りません。自然界を通して語られ、とありますが、これは、その結果のことでしょう。また、さらに、神が人のために語ったことを、人がすべて正しく受け取れるわけでもありません。せめて、人知を超えた神を、人知で大仰に語る愚は避けるべきです。
 

ヨブ42:1~2ヨブは主に答えて言った。あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。

 
ヨブ記のテーマから言えば、この引用は全く片落ちです。ここは、ヨブが神に抗って、自己正当化と不幸の不当性を主張するために多くの弁を費やした後、神が顕れて、ヨブを叱責し、ヨブがひれ伏すときのヨブの言葉なのです。続きを引用しておきます。ヨブの言葉ですが、一行目などは、主なる神の言葉を引用しています。
 
 (ヨブ記、口語訳)
42:3
『無知をもって神の計りごとをおおうこの者はだれか』。
それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、
みずから知らない、測り難い事を述べました。
42:4
『聞け、わたしは語ろう、わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ』。
42:5
わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、
今はわたしの目であなたを拝見いたします。
42:6
それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」。
 (ヨブ記42:3-6、旧約聖書)
 

この測り知ることがないほどの素晴らしさに、パウロは神を信頼したのである。私たちもすべての神のわざを賛美し「どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン」と神の栄光、イエス・キリストの御名をたたえて歩む者でありたい。

 
ここにきて、最初のローマ人への手紙のことを書いています。好きなように結び付けていますが、ヨブ記は、ヨブ記の特殊性があり、ローマ人への手紙には、これも特殊といってよいところの、異邦人への救いの伝道という問題があります。あまりごちゃごちゃさせないほうがよろしい。
 
かなり荒っぽい聖句の選択による類似や共通性をもって、その箇所のテーマや時代の特殊性を無視して引用し、勝手気ままに教理的な話を作っているようだが、いつもいつも神のことしか語らないのは、聖書を読むときも、神のことを神の立場で読もうとしていたのではないかと思います。神と人を読むべきところには、神よりも人のことが、人にはわかりやすいはずですし、神を語るのが信仰、という、大きな勘違いがベースにあるような気がします。
 
同じように、神の奇跡の軌跡ばかりを誇大に語って、人として大切なものの大方を失ってしまった彼シャローム氏も、聖書を引用して語るときに、彼の自作の、無罪妄想や無思考妄想に、聖句や誰かの言った言葉の、言葉のうわべ、つまり、言葉面だけ一致するかのように一見見えるだけの言葉を引用しまくります。
 
ありのままでいいんです、十字架によって罪は贖われた、善悪の木の実を食べて判断するから失楽園、これが、罪のままで悔い改めなくていい、今は無罪、罪を気にしなくていい、善悪の判断を放棄するべき、と結びつける詭弁となった、等々。言葉面というものがどれだけ厄介なものか、聖書語と丁寧語という言葉面だけをを振り回すことで、信徒に熱心だと思わせ、牧師として世渡りをしてきた彼シャローム氏の悪行ぶりが知れるというものです。
 
 
(2017年06月23日、同日一部修正)
 
 
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