信仰の悩み
 
 
神は、今、何をなさっておられるのか、これから、何をなさるつもりなのか、自分はどうなるのか、こういうことを考えるのは、ある意味、苦痛でもあります。自分は救われる民の一人として造られたのか、ひょっとして自分は反逆して滅ぼされるためだけに造られたのではないか。神という存在を考えると、そういう思いも生じてきて、かえって不安になることもあるのです。つまるところ、神を信じるがゆえに生じてくる不安のためにも、信仰はある、と言ってもよいのではないかと思います。
 
前にも、たびたび書いてきたことですが、神が人を守るために、こうしてくださる、と信じることは、神の意志を人が決めつけることで、不遜~背きにあたります。しかし、どうしても御心を考えてしまうのがキリスト者ですから、結論を決して決めつけず、考え判断しているのは自分に過ぎない、という自覚を持つことが必要です。
 
神、キリスト、聖霊を信じて疑わないのが、信仰ではないか、という人がいると思いますが、これは、単純な勘違い~詭弁で、その人が信じて疑わない聖三位の御心は、その人の聖三位への解釈に他なりません。人は、人が思う以上に考えることは出来ません。それ以上を求めるのは、神秘と奇跡を分かるようになりたがる超人間願望に過ぎません。
 
神を絶対者として、キリスト者は信じています。しかし、信じ込んでしまうと、いつも自分は神に従うという習慣づけになり、絶対者の神と同様に、自分の考える絶対を信じることになりやすいのです。そのほうが物事は、はっきりして、分かりやすいと思うかもしれませんが、神の御心は神秘であり、人知を超えているのであり、人に、はっきりと分かりやすいものではないのです。そこを勘違いしている人が多いようです。
 
御心をはっきり理解して、聖霊に完全にしたがって、云々、などと言う者は、まず、自分の器を知りません。自分が、神に比べて、いかに劣っているか、いかに弱いか、いかに惨めであるか、いかに、いい加減であるかを知らないのです。人間は、信仰を持ったからと言って、神に近づくほど賢くなるわけではありません。
 
このことは、ネットの信仰ブログを見ているとき、また自分が信仰の記事を書いているとき、信仰に関わる言葉の理解、御言葉の理解、言葉の使い方、など何をとっても、痛切に身に沁みる不全感であるはずです。
 
この痛切な感慨を持ち得ない者は、この世を達観して上から見下ろすために信じたに過ぎないか、または、そうなっている自分の邪悪な姿勢に気づかずにいるかでしょう。そういう者は、決して珍しくありません。決して珍しくない人が、悟った者に成り上がる身の程知らずの道を歩んでいる、それが現状です。
 
私は、言葉にするなら、神の不可知を主張していますが、昔の不可知論のように別の何かでそれを説明するドグマを勧めているのではありません。神の不可知は、あくまで、人間が人間であるために、神の民に相応しくあるために、どうしても必要な認識です。
 
そのことを、どこかで覚えたのでしょう、不可知論に陥っている、などといって、話を終わらせようとした者もいましたが、神の可知論があるなら言ってみよ、という、こちらの問いに、彼は一言も返せませんでした。
 
人知を超えた御方を、神は云々・・と決めつける、人知の不遜~背きに陥らないために、不可知を学んでほしいと思いますが、不可知という熟語に抵抗があるなら、自分は神を知り得るか、と問い続けてください。信仰に必要な、信仰に通じる人間の良心の欠片でも持っている人なら、いや、知り得ない、という人間らしい答えにたどりつくのに、そう時間はかからないはずです。
 
やたら、聖霊の導きとか、神からの啓示とかを持ち出す人を警戒してください。不思議なことに大方、それは、相手を説得するだけの説教や説諭の中身を持たない者が使い始める言い逃れなのです。伝道者は、分かっていなければならない、という先入観と強迫観念によるものです。
 
神秘の導きは、人に気づかれることなく、成就してゆきます。神秘や奥義を理解しているかのように振る舞う人は、それだけで、侵してはならない神の領域に対して犯意をいだいているということです。広く宣べ伝えられるべきは、それだけでは存在の義に相応しくない分かり方をしてしまう人間の不全と、その共感と共有の自覚であります。分かっている人が分からない人に告げる真理ではないのです。そこを勘違いしている人が多いようです。
 
神秘は分からない、神の秘密だから、ということで十分なのです。なぜ、神秘や不思議を分かるために人間を離れ、魔法使いになろうとするのでしょう。得々として神秘を語っているつもりの人には、しばしば、人間一人の心さえ理解できていない稚拙さを、まれならず、感じることがあります。神秘を理解するよりも、人間に大事なのは、人間を理解することです。神のものは神に、人間のものは人間に、ということで十分なのです。
 
つまり、私たちは、神を考えるよりも先に、人間について感じ学び考えなくてはいけません。言い換えると、神を信じるキリスト信仰は、とりもなおさず、人間が人間らしくあるために、人間について考えることに帰結するのです。いつまでも、奇跡だ、聖霊だ、御心だ、キリストの恵みだと、神の領域を、自分と一体であるかのように吹聴する者は、大方、自分を、神に特別に選ばれて特別の使命を与えられている特別の信徒あるいは使徒だと勘違い~妄想しているに過ぎないのです。
 
神が、人を選ばれる理由を、私たちは知りません。神は、人により、その導きは違うでしょうし、人と神の関係は、個別的です。しかし、神の前に平等というように、誰か一人が特別に愛されることではないことくらいは分かるでしょう。信仰者として、私たちは、人間を疎かにしてはいけません。むしろ、人間に対する関係こそが、地上で考えるべきことであり、終末における御国よりも、地上で他の人間との間に深くも浅くも築いてゆく関係の動態こそが、人間世界で御国を思うしるしではないか、と思います。
 
人間を救う神は、救いを必要とするほど心細く低くあるしかない人間をご自身の民として求めておられると思います。神は、魔法使いを必要とはされません。魔法使いを養うこともなさらない御方です。驚くべき奇跡は、すでに神の側に満ちているからです。関連聖句で今回は結びます。
 
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
17:20
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
17:21
また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
 (ルカ17:20―21、新約聖書)
 
 
(2017年06月24日、同日一部修正)
 
 
[[img(https://poem.blogmura.com/darkpoem/img/darkpoem88_31.gif)]]
[
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
 
[[img(https://philosophy.blogmura.com/thought/img/thought88_31.gif)]]
[
https://philosophy.blogmura.com/thought/ranking.html にほんブログ村 哲学・思想ブログ 思想へ(文字をクリック)]
 
[[img(https://philosophy.blogmura.com/christian/img/christian88_31.gif)]]
[
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]