偽善の遠吠え
 
 「その名は不思議」ブログ by shalom ←ずっと批判しています。
 今と将来に共同責任
 週のはじめに考える 政治家と官僚と国民と
 2017年6月25日
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28144882.html
 
 
彼シャローム氏は、キリスト者のつもりでブログを書いてきましたが、私は、彼はキリスト者ではないと判断しています。キリスト教は、彼にとって、権威をひけらかすために利用しているだけのようです。前に、善悪の木の実を食べると堕落するから善悪の判断を放棄する、という突拍子もないことを言っていました。それを訂正する記事を書いていません。だから、この記事で、悪を決めつけ、ボロクソに批判しているつもりなのは、明らかに彼自身の前言に違反しています。そういうことを平気でやってくる人です。
 
彼シャローム氏は、また、十字架の贖罪によって罪を気にしなくていい、という、無罪妄想を持っています。主張したのち、これも訂正記事を書いていません。ここには根深い病理が潜んでいると思います。無罪だから、何をしても訂正も謝罪もしなくていいという妄想だから、今も平気で、語気強く政治のことを言って、信仰の務めを果たしたつもりになって自己満悦できるのです。
 
彼の文章を読んでみると、似たような言葉の繰り返し、借り物の思想、評論の権威でもあるかのような大仰な断定が見て取れるでしょう。彼には、反省という心の働きがありません。だから訂正不能に豪語して、それだけで、いい気持ちになれるのです。
 
彼は、このような民主主義の記事を書く資格はないと判断しています。彼は、批判を許容しない権威主義者です。しかし、権威に見合うような言論は、今まで一度も出来たことがないのです。なぜ書けるのか、それは、彼の妄想信仰、すなわち、無判断、無罪、無根拠の権威の慢心からは、何でも出来て、何も反省しない、ということが成り立っているからです。読むなら、それを前提に読んだほうがいいと思います。
 
これが、大体において、私が約6年間見て批判してきた彼シャローム氏の人となりです。現代のパリサイ人、いや、パリサイ人よりも悪い反信仰者で偽善者です。パリサイ人は、シャローム氏のように世辞や丁寧語で柔和に見せかけることはしない分、不法が分かりやすかったからです。
 
(引用本文はかなり省略。最後の部分だけ:始め)
 
いま私たちが立ち返ってみるべきは、国民主権を謳(うた)う憲法上、政治家は「全国民の代表」であり、官僚は「全体の奉仕者」ということです。行政に携わる政治家と官僚には、今と将来の国民に負うべき共同の責任があるはずです。両者が敵対する関係では、到底その責任は果たしえないでしょう。
 
歩み寄りなどとは対極の加計問題で、現政権が見せた一方的な官僚支配は、官僚たちの士気を高めるはずもなく、官僚を志す次代の若者たちをも遠ざけかねない。それは現代のみならず、未来の国民に対しても、国の行政基盤を築く政治の責任放棄として、禍根を残すのかもしれません。
 
 (引用終わり)
 
>《shalomのコメント》
 

「行政に携わる政治家と官僚には、今と将来の国民に負うべき共同の責任があるはずです。両者が敵対する関係では、到底その責任は果たしえないでしょう。」

 
上の本文の引用です。
 
>上記の言葉は傾聴すべき提言だと思う。

しかし、その実現に必要不可欠なことは、①個人の尊厳 ②国民主権であることを加計学園問題の渦中にある文科省前事務次官前川喜平さんによって提起されていると思われます。

 
尊厳と国民主権の2つでまとめるのは、いかがなものでしょうか。個人の尊厳と国民主権が大事なことは当たり前ですが、むしろ、彼シャローム氏の中で、問題を抽象化してしまっていると思います。元官僚が発言によって、メディアのみならず、政府からも、嫌らしい個人攻撃を受けた上で、さらに真相を明らかにする発言をしている、という、このプロセスは特異的ですし、進行中です。具体的であるから真に迫っているとも言えるでしょう。引用の本文全体を読むと、そういう政府と官僚組織の具体的な流れをおろそかにしていないのが分かります。単純に一般化し抽象化するのは安易と言うべきでしょう。
 
これを尊厳と国民主権とまとめて、あっさりと教科書的な熟語に抽象化してよいものでしょうか。彼シャローム氏は、書けば、何かを端折り、自分だけ納得すればよいという勝手な言葉に変えてしまいます。そこが、彼がキリスト信仰を変質させ、人間を変質させてきた一つの要因でしょう。
 

政治家であれ、官僚であれ、①個人の尊厳 ②国民主権が忘れられると、特に政治家が2代、3代と続くと、特権意識に染まり、ひとりの人間としての個人の尊厳意識、国民主権意識・・・ひとりの個人、ひとりの国民であるという視点が見失われてしまい、必ず「権力は腐敗する」という結果を招くからです。

 
世襲の弊害は、たびたび語られているところですが、①個人の尊厳 ②国民主権が忘れられる、ということが原因でしょうか、結果でしょうか、どちらが言いたくて2つを上げたのでしょう。書いているのは、まるで堕落の法則を明らかにしました、とでも言いたげな断定ぶりです。彼シャローム氏は因果関係を整理して言うことが、恐らく、出来ないのだと思います。思いつくままに文をつないで論理に見せかけている印象です。
 

人間はどのような立場に立とうとも、だれひとりの例外なく弱いことを自覚し、国民である一人一人が常に①個人の尊厳 ②国民主権に目覚めていなければならないことは健全な民主主義の土台であることは言うまでもない。

 
本当に彼シャローム氏が言うまでもないことです。小中学校の教科書にも載っているでしょう。彼の無罪妄想が正義の味方?の彼に書かせたのではないか。
 

この土台が軟弱であれば、民主主義は容易に衆愚政治、強権政治を招いてしまう危機感がなければならない。

 
衆愚政治、強権政治、いずれも、ニュースやネットで言われている言葉です。彼シャローム氏は、大仰に言いたいがために、聞いた言葉を並べていると思います。今までの文章で、独自の視点を見出すことはできません。
 

日本の民主主義は自らの内なる変革と戦いによって勝ち取ったものではないために、戦前の日本の在り方に対する清算がされないまま、敗戦の焦土のなかから、アメリカの軍事的、政治的、経済的援助と支配による経済復興をしたために、民主主義の根幹である①個人の尊厳 ②国民主権意識が軟弱、未成熟であることは否定できない。民主主義は国民ひとりひとりの①個人の尊厳 ②国民主権意識に基づく健全な選挙権の行使によって成立する。

 
これが、自分を棚に上げて、他者をボロクソに言う、彼シャロームのボロクソ節なのですが、変革と戦いによって勝ち取ったものではない、清算がされないまま、軟弱、未成熟であることは否定できない、などは、今の民主主義の思想家を愚弄している印象さえあります。彼は、預言者のように正義の味方として豪語するのです。最後の文は、誰でも知っていることでしょう。キリスト者として私は、キリスト者のつもりでいる彼のこのような豪語を見ると、いつも恥ずかしいです。
 

そのためには①個人の尊厳 ②国民主権に基づく教育、健全なマスコミによる情報伝達が不可欠であるが、①個人の尊厳 ②国民主権意識が未成熟であるために、政治家、官僚、国民、教育、マスコミも戦前の国家主義的な体質によって汚染されやすい。

 
2つの同じことを何回も繰り返しているわけです。そして、未成熟、と断じます。自分が、どれほど成熟しているつもりなのでしょう。大きな特徴として、彼には超然としてスーパーバイズしているつもりの視点しかありません。彼は、ここでは未成熟、今まで多くの悪の中に、決して自分を含めません。「私たち」という言葉を使うことはありますが、そういうときでさえ、彼は「私たち」に自分を含めていないと、多くの記事において明らかになってきました。
 
彼は、反省をしないので学習と成長をなくしてしまった偽信仰の病人だと思っています。薬では治らない病気です。反省して改めるしかないが、彼は、いい気持ちになって何も変わろうとしません。彼の、いい気持ちは、言論において災いです、彼が書いた沢山の記事によって、病気の差別語とは別の、これこそ、既に知られてしまった害です。
 

また民主主義の健全な運用のために不可欠な司法、立法、行政という三権分立の境界線もあいまいなものとされやすい。教育権、マスコミ・情報権も加えて五権分立にすべきだと思う。

 
彼の心と頭のほうが、よほど、あいまいです。しかも、それは、彼が信仰と呼ぶところの、妄想からきているのです。そして彼の特異な思いついただけの造語なのです、五権分立。前には、民主主義より神主主義がよい、とかも言っていました。ここに限っては、もう、笑えるでしょう。笑えないか・・。修正不能の信仰は妄想になり人格を破壊します。
 

また忘れてはならないことは公正な選挙によって行政権をゆだねられた政治家、また試験によって登用された官僚による行政によって公正、公平性、透明性の侵害が行われた場合、国策である戦争をはじめ、エネルギー政策である原発稼働、薬害によって国民の①個人の尊厳 ②国民主権③生命、④財産が著しく侵害された場合厳しく弾劾、背任罪によって厳しく責任を問う道、選挙権、被選挙権の停止などが備えられていなければならない。

 
彼シャローム氏は、一生懸命?整理したつもりなのでしょうね。公正、公平性、透明性、さらに、弾劾、背任罪、選挙権の停止、など、恐れもなく、好きなように言っています。皆、美辞麗句とシャロームのボロクソ節です。言うだけでは何の効き目もない、と誰もが知っている言葉を並べているだけですから、気にしないでいただきたい。
 

国政の混乱をもたらしている森友学園問題、加計学園問題は日本の民主主義の未成熟さをあらわにしている。問題解決のために、①個人の尊厳 ②国民主権を侵害する危険性がある国家主義的な道へと向かっているような今日の危機感に目覚め、ただ表面的な働き方改革ではなく、健全な①個人の尊厳 ②国民主権意識の成熟に根ざした新たな生き方改革へと向かうべきではないだろうか。

 
未成熟だと言っていますが、成熟した民主主義がどこかにあるでしょうか。このろくでもない世界で実現方法が明らかになっているでしょうか。実験途上だと私は思っているのですが、彼シャローム氏は、既知のものとして語っているようです。彼にとっては、民主主義も、正義も、善も、キリストも、神も、すべて既知のようです。
 
どうか、この偽宗教妄想家の書いた、思い付きの、滅裂で稚拙な、政治について書きたかったらしい記事を、気にしないでください。彼は、偽信仰のために、能力、謙虚さ、その他、あらゆる点で、本道とは逆に、身の程をわきまえなくなっているからです。さらに、罪悪感を感じることもなく、批判された時の彼の反応は、後悔でも反省でもなく、敵視だけなのです。それが彼の妄想的権威主義的偽信仰なのです。
 
どうか、彼について、年寄りが一生懸命書いたのだから、ひどいことを言わなくても、などと思わないでください。彼の病理ともいえる妄想信仰は、他者のことなど屁とも思わぬ傲慢であり、しかもそれを隠して、柔和な老人を装う狡さを持っています。彼は、既遂の害、既知の害なのです。その前科とも言える数々の罪について、決して悔い改めないのが、彼の無罪妄想という偽信仰の、本気で、怖いところなのです。
 
ここでは、前からでもありますが、妄想という言葉を使っています。もちろん厳密な精神医学的意味からではありませんが、最近は、妄想という言葉が、空想や夢想や白昼夢趣味の意味で使われているようなので、似た方向で、病気に近づけた表現にしています。医学的な妄想の条件は、非合理、異常な確信、訂正不能で、言えてるように思えるということもあります。つまり間違った信仰が訂正不能ならそれは病気に限りなく近くなる、ということを私はずっと見てきたつもりです。
 
彼は、安心して断言しまくっています。コメント欄を全部閉鎖したから、私からの批判を見なくて済むこと、それと、どんなに政治の記事を書いても、ネトウヨから攻撃されることもないからです。こういう狡いことは考えるようだから、愛せない人なのです。
 
 
(2017年06月27日、同日一部修正)
 
 
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