信仰の節操メモ
 
 
キリスト信仰は、自分を含むところの人間は罪を犯す、という罪悪感と罪の気づきそして意識そして自覚から始まってゆき、悔い改めの祈りの信仰へと成長してゆくことで、艱難と罪による苦しみや悲しみから解放される道を求めてゆくことにあります。
 
しかし、その信仰の始まりである罪を認めず、キリストとともに十字架に自分も自分の罪も死んだのだから、もはや、罪責感に苦しむこともなく悔い改めなくても赦されており、罪を気にしなくていい、という無罪信仰を唱える者がいるようです。極めて単純なことですが、信仰の始まりがなければ、信仰はないのです。
 
人の肉体を持ち、かつ、罪のない御方は、キリストだけです。無罪信仰が、いかに邪悪な妄想であるか、推して知るべきでありましょう。
 
さらに、アダムとエバが善悪を知る木の実を食べて罪が生まれたのだからと、善悪の判断を放棄するのが信仰だ、とも言うのですが、これこそ、言葉の上っ面、つまり言葉面だけを整えて、言葉の中身を考えなくなっている状態です。何故なら、善悪の判断をせずに生きられるという判断を既にしている、という矛盾が明らかなのです。
 
信仰に大切なのは、及びもつかない神ではなく、人が知るべき世界の人間性なのです。なのに、それが分からずに、しかも分からないと言わずに、人知の及ばない神の秘密つまり神秘を人知で得々と語るつもりの自己矛盾の者が少なからずいるということです。
 
私たちが神について信じるべきことは、神は、この世を創造し支配するほどの全知全能の神である、ということでよいでしょう。この言葉には実体と呼べるほどのものはないということです。神はこの世を創造したということも、聖書では神話として書かれているだけであります。つまり、天地創造をつぶさに、読めば詳細に、人が分かるような記事ではないということです。
 
なぜ、そのようなことになるのか、それは、神は神のやり方で天地を創造した、しかし、それを記録するのに、人の使う言葉は不全であるため、人の言葉で詳細を具体的に記すことは出来ないし、神のやり方を表す神の言葉があったとしても、その神の言葉を人は理解できないし知らない、という、人の不全性からそうなっているのだろうということです。
 
大きな先入観なのですが、神が中心だから、神を理解することが信仰だと思っている人が少なからずいるようです。しかしながら、神に信仰は必要ないのですから、信仰は、人のために神が与えるもので、神を理解するなどという出来ないことを思うのではなく、むしろ、人は神を理解できない、ということを知って弁えることが信仰であります。そこに、神に対して人間が人間であるための節操と分別と思慮と情感があり、それらを聖書を通して、また自分の体験を通して、学んでゆくのが、キリスト信仰であります。すなわち、人間を理解しようとしないで信仰を理解することは永遠に出来ない、ということです。
 
 
(2017年06月28日)
 
艱難(かんなん)
 
 
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