道と境地
 
 
おのれの欲するところに従えども則を超えず、とは論語だったか。
仏教では、悟りとか解脱という境地があるらしいと聞いたが、
私は、ぶっきらぼうに「ない」と答えてしまった。(失礼、汗)
 
類するものはないかと考えてみるのだが、
キリスト教の名を語る自分信仰者には
自分で出来なくても電動自転車のようにキリストが押してくれる
などと豪語して自慢する向きもあるが、
やはり境地というのがあるとは思えないので
不届き者め、と思っているくらいだ。
 
固定される境地というものはないが、
ある心境、言ってしまえば天国にいるほどの
感動や安らぎに至る道を与えられるのが信仰だと思っている。
つまり、過程を与えられるのであって、
不動の結果を得るのでないということだが、
言い換えれば、その道にいることは一つの境地なのだろうか。
 
前に、信仰生活のうちに、今まで知らないような
安らぎを覚えるという体験があり、それは
天国を一度は味わったという経験となり、
その経験が忘れられなくて今も信仰者でいる
ということはあると書いたことがある。
それは境地と呼べるほど特殊ではないが、
一人の信仰者にとっては忘れがたいことになる。
 
そういう経験に共通しているのは、
一つは孤独感からの解放であり、
一つは他者からの自由であり、
総じてそれまで自分を縛ってきたところの
様々な当為(「べき」のつくこと)からの自由であり、
この世の強迫からの解放ということになるだろう。
 
とらわれないこと、というのは、
とらわれそうなことが多すぎるこの地上にあっては
多くの人が望むことかもしれない。
 
人生にキリストという御方を知る機会があり、
その御方への信仰によって、
それ以外の囚われからの解放になるのかもしれない。
ただ、この信仰は、
聖書というキリスト者共通の聖典があるけれど、
ひとりひとりにとっては
多分に個人的な関係から成っている。
 
神の領域の御方との個人的関係と言えば、
何か神秘的な神聖な不思議な出来事と思われそうだが、
キリストは人間の情緒や情感や思いに共感できる御方なので、
むしろ神秘ではない人間が歩み寄りやすいというところがある。
人格としての思考と情感が重要視される理由でもある。
 
境地に立てば救われるのではなくて、
道を歩めば開かれることもあるだろうという信仰である。
道を外れることも考えるべきで
その可能性を忘れると
個人の恣意的観念の世界に陥ることになる危険はあるが、
神という絶対者に告白し願う手段として祈りがあり、
それは信仰者にとって反省の時と場所でもある。
 
何よりも自己の成長が何歳になっても必要であり、
日々を修正可能に生きることが大切だと思っている。
 
 (伝道の書、口語訳)
12:1
あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。
悪しき日がきたり、年が寄って、
「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、
 (伝道12:1、旧約聖書)
 
私は、すっかり年が寄って、何の楽しみもないような日々を送っているが、
リアルな充足の殆どない明け暮れの中でも、
せめて、PCの前に座り、ブログを書きながら、他のブログを読みながら、
ときに、心にパチンと小さく当たったり、
軽く触れてきたりする言葉や画像を楽しみとする日々になっている。
 
 
(2017年06月29日)
 
 
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