弱さを装う者
 
 その名は不思議 管理人:shalom ←ずっと批判します。
 タイトル:強い時こそ弱く、弱い時にこそ強い!
 2017/6/28(水) 午前 10:35
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28148419.html
 
 
彼シャローム氏という人は、批判者の神経を逆なですることに快感を覚えるのでしょうか。彼は、記事タイトルに、真っ向から反する人です。彼は、弱さを装う人です。強い時には高みから教え、弱みを一度も見せたことがありません。弱みを見せることを何よりも嫌う人です。だから、非を認めたことがありません。罪を認めたことがありません。偽善を認めたことがありません。
 
そして、思い付きで、無罪妄想や、善悪判断放棄妄想を、信仰として語ります。弱さがない傲慢から、思い付きで語るのです。しかも、その傲慢を、丁寧語の慇懃無礼で隠します。聖書語の言葉面を並べてキリスト者らしい熱心さをアピールします。全部、弱さがないから、慎重さも敬虔もなく、ゆえに、ことごとく詭弁の矛盾に帰結してゆくのです。その厚かましく、いつも人を上から見下ろすような正体を隠した、サディスティックな精神から、いったい何を神に祈っているのか、空恐ろしい限りです。
 
>今日は人間関係が難しい時代です。
>学歴があってもなくても、お金があってもなくても、
>多くの人が身近な人との関係で傷つき、辛い思いをしています。
>ですから、親しみやすい人、話しやすい人が求められている時代です。
>そのせいか、そのような多くの落語家や芸能人がテレビで活躍しています。
>わたしたちはその真似をする必要はありませんが、
>愛、喜び、平安などの神のいのちの表れである御霊の実をもっている人は、
>誰もが関係をもちやすい、近づきやすい人と言えます。
>そういう人とお付き合いをし、友だちになりたいと思いませんか。
>人との信頼関係がもちやすい人ですし、人との深い関係をもてる人です。
 
まるで、思考も議論も停止して、真実などどうでもいいから、気持ちよくなるために、社交のお付き合いを勧めているような文章です。信仰を落語に落とすつもりかとさえ思います。
 
信仰の真実について、重要なことがあります。政治の世界は正しさを求めて、論争もするのでしょう。しかしながら、信仰は、正しさは究極的に神に帰することであるという合意の下で、正しさを求めて論争すること自体が、神については空しい議論ということになります。
 
では、何を私は書いているのでしょう。私は、意見の異なるキリスト者を相手にして、自分のほうが正しいと主張しているのではありません。その言動から、どう考えてもキリスト者とは思えない彼シャローム氏を批判し、彼の考えは改まらないようなので、辛らつに批判し、最近では、むしろ、他の読者であるキリスト者と求道者に向けて、彼シャローム氏の矛盾と詭弁と罪と偽善と悪を指摘することで、キリスト信仰とは思えない彼の妄想に巻き込まれないでくださいと警鐘を鳴らしているのです。
 
>さて、パウロという人は、この神のいのちを意識していた人でした。
>ですから、彼の書いた手紙の中にはあちこちにその様子を垣間見ることが出来ます。
>少し前にも紹介しましたパウロのコリント人への第2の手紙の中から
>もう少し見ていきます。
>パウロは、どうやらコリントの教会のあるクリスチャンたちに、
>「あの人は面と向かっては弱腰だけど、離れていると強気の態度に出る人だ」と
>思われていたようです。しかし、そのことを知ったうえでも、
>パウロは自分のうちにおられるキリストの柔和と寛容という
>いのちの実を意識していました。
>自分のことをそのように批判的に見ているコリントのクリスチャンたちに対して、
>このように言っています。
 
この場合、パウロを批判するというのは、批判というよりも、うるさがっている状況ではなかったかと推察します。このように、キリスト教における批判禁忌という不文律には、悪口と批判を混同しているところがあるので、また、シャローム氏は、私を荒らしだと決めつけたこともあるので、根拠のない悪口と、根拠を示している批判を分け、決して批判を禁忌とはしないことを明言します。
 
シャローム氏が、私を荒らしとして扱うのは、彼は、彼の妄想について、それは信仰であるという根拠を何も示してこなかったから、経過として、彼は妄想家であって、キリスト者ではない、という暫定的結論を向けていることを逆恨みしているからです。それに彼は、何の反論も弁明もできないのに、今も、全く変わらず、おかしな記事を、信仰についても、最近は政治についても、載せ続けているのです。
 
彼は、ほっといてくれ、と言いたそうですが、人の命の有無にかかわる信仰について、そういう態度をとること自体が、既に、キリスト者たる資格を放棄していることになります。弱さを意地の悪さに代え、強制力でコメント削除しておいて、その証拠を隠すという隠ぺいに代えて、ひたすら、読者を騙して、保身に走っています。
 
>2コリント10:1
>私パウロは、キリストの柔和と寛容をもって、あなたがたにお勧めします。(新改訳)
 
 (コリント人への第二の手紙、口語訳)
10:1
さて、「あなたがたの間にいて面と向かってはおとなしいが、離れていると、気が強くなる」このパウロが、キリストの優しさ、寛大さをもって、あなたがたに勧める。
10:2
わたしたちを肉に従って歩いているかのように思っている人々に対しては、わたしは勇敢に行動するつもりであるが、あなたがたの所では、どうか、そのような思いきったことをしないですむようでありたい。
10:3
わたしたちは、肉にあって歩いてはいるが、肉に従って戦っているのではない。
10:4
わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。わたしたちはさまざまな議論を破り、
10:5
神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ、
10:6
そして、あなたがたが完全に服従した時、すべて不従順な者を処罰しようと、用意しているのである。
 (2コリント10:1-8、新約聖書)
 
彼シャローム氏は、穏やかに言えば、穏やかに、はぐらかし、ときに、理由のない、呆れるほどバカ丁寧な誉め言葉を向けてきました。それでは、中身がなく、話が通じなければ、経過にも結論にもならず、話が進まないので、突っ込み続けていたのです。
 
そうして、彼は、弁明の代わりに、結局、コメント削除、コメント欄廃止、という強制力の中に閉じこもって、自分を守ろうとし、にもかかわらず、遠慮もなく、言いたいことだけは、大仰に言い張り続けているのです。引用のパウロとは全然違う卑怯さも傲慢も底意地の悪さも批判の理由です。誰も好意的に関わって巻き込まれることがあってはならないと思うので、批判を続けます。
 
>《shalomのコメント》
 
>日本人にとって宗教は人と人とをつなぐ絆のようです。
>絆といえばよい方に思われますが、鎖とも言うことができます。
>民主主義は育ちにくい土壌でしょうか。
 
このように信仰を政治と同じように語れると思っていることが明らかになっています。なお、何度も書いてきましたが、彼は民主主義者ではありません。批判を許容せず、反論できなくなると、強制力に訴えて批判を排除するような、利己的な権威主義者です。信仰の基本的なことを全く理解していないから、批判し続けています。彼がいくらキリスト信仰を主張しても、彼はキリスト者ではありません。牧師ではありません。
 
今まで、侮辱や隠蔽や偽善や偽装など、人間とも思えない白々しい悪行をを平気で働いてきました。仏教系や哲学系の人や求道者や信仰者に対する余罪が過去に多数あっただろうという推測もしています。彼シャローム氏のような考えでは、普通に交流を持ち、伝道を続けることは、丁寧語で騙して権威的に裁かない限り、どう考えても出来ないと思われるからです。
 
>「神のいのちの表れである御霊の実をもっている人は、
>誰もが関係をもちやすい、近づきやすい人」と本文には書かれていますが、
>教会は暖かく、居心地の良さを感じる人が多いようですが・・・
 
居心地がよいのは、彼シャローム氏にとってだけでしょう。彼は自分の気持ち良さしか考えていない、と思われる自己中心が、文章に長く長く表れてきました。彼は、不感不応不変の妄想信念によって訂正不能で、人の気持ちが分からないから、人の意見を受けて考えて反応して書くということが出来ないので、人への思いやりも出来ないと思っています。あるのは、嫌らしい丁寧さだけです。一見、慣れない人には、普通に穏やかに思えるような、この記事のように。
 
こういう人が、教会にいると、しかも牧師であると、批判せず、逆らわず、丁寧語に相槌を打つのが、信徒の習慣にもなるだろうと推測されます。ここネットの言論では通用しません。馬脚も化けの皮も現れてきました。
 
>イエスさまのところにもいつもたくさんの人が群がり集まってきました。
>そして、この方こそ、神が約束された救い主に違いないと信じたのです。
>ところが、イエスさまは人々の期待、願いを裏切られました。
>するとイエスさまについてきた人はある人は失望し、離れ去り、
>ある人たちは十字架につけよと叫び始めました。
 
また、いつもの、信仰の美辞麗句です。キリストの受難も、彼は、美辞麗句として、実感のない言葉面の羅列であらすじを何度も書いてきます。悪い政治家のリップサービスによく似ています。
 
>イエスさまの神のいのちの表れは必ずしも人と人を結ぶ絆ではないようです。
>しかし、イエスさまに出会った人は生ける神との確かな絆を見出すことができるのです。
>イエスさまは私たちが見失っている生ける神との絆を回復してくださる方です。
 
美辞麗句と言うのは、このように、救いの結論が既知のものとしてあるからです。しかしながら、私たちの信仰は、洗礼を受けたら、あとは保険か年金のように安心でしょうか。キリストの弟子であったユダを見れば明らかなように、信仰は道であります。レールではありません。
 
道を与えられたからといって、そこを外れないような節操を弁えないと、彼のように、信仰でさえなくなるのです。信仰には、人が悪用しやすい要素があるからです。聖句の解釈もそうだし、境地のような安らぎの誘惑もあるのです。宗教には、すぐそばに、思い込みと妄想という落とし穴があることを知るべきです。
 
彼は、一生安心という前提で書いてきたから、悔い改めの祈りもしたことがないのではないかと思いますし、それゆえに、自作の無罪妄想や善悪判断放棄妄想が直観的にも思路としても否定できずに、思いついたら書いて、いい気になっているのです。そして、批判記事を彼は見ないで、思考停止したまま、批判されているらしいことについて、不快を表すことしかできないのでしょう。
 
>イエスさまの誕生、生涯、十字架の死とよみがえりと聖霊の助け、導きによって
>私たちは生ける神との絆を回復されると、生ける神を仲人として結ばれ、
>人の弱さでさえも神のいのちに生きる力に変えられるのです。
 
何の深みもないこと、前にも何度も言ったことを、呪文のように繰り返し、思考の欠けた思い込みは、いかなる警鐘にも反応せず、よだれを垂らすようにベタベタに同じことを繰り返すしかない成り行きのようです。
 
>パウロは「それだから、キリストの力がわたしに宿るように、
>むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。・・・
>なぜなら、私が弱い時にこそ、わたしはつよいからである。」と書いています。
>(新約・コリント人への第2の手紙12章9~10節)
 
前から言ってきた、弱さを誇る、という逆説の聖句の誤解と曲解に基づく、そのまま豪語して自己矛盾のパターンを、彼シャローム氏は実践しています。弱さは誇るべきものを持ちません。弱さを誇る、というのは、弱さが誇り高く見えることがある、という福音であり、そのまま言ったら、ただの分かってない人、に過ぎません。それに私たちはパウロではありません。
 
批判は読まずに、不快ばかりを募らせ、いつか神が敵である批判者を滅ぼすのを待っているだけで、このような聖句を引用して、言葉面に落ちて満悦するだけの彼シャロームのような者に、餌を与えてはいけません。
 
>その名は不思議である方の不思議なみわざです。
 
何も言えないから、タイトルの聖句から、不思議不思議と言うしかない彼シャローム氏に巻き込まれることのないように祈っています。彼が信仰の節操を知ることはないのでしょうか。肯定する兆しがまるで見られず、否定的な兆候だけが表れていることを報告いたします。
 
 
(2017年06月29日)
 
 
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