さまよう繰り言
批判対象:「その名は不思議」ブログ
管理人ハンドルネーム:shalom
(ここではシャローム氏と呼びます)
批判記事:人生は旅か徘徊か?
2017/9/12(火) 午後 3:40
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28249993.html
>今日の聖書の言葉です。
>
>イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。
>だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。
>もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。
>しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである。」
> (新約・ヨハネによる福音書14章6~7節)
>この世の中にあるものはどんなものもうつろいゆきます。
>草花も色褪せ枯れます。すべての形あるものは朽ち果てます。
>若い人も年老いていきます。
>人の言葉も心も変わりやすいものです。
このような月並みな一般的な話から、シャローム氏は、変わらないものを求めましょうと、自分の幼稚な短絡教理を進めてくるのです。そして、非を認めない自分信仰に誘ってきます。
>どこを見ても、どこを探しても確かなもの、永遠に変わらないものはありません。
>激しく移り変わり行く世の中、生活の中で、
>人の心は確かな拠り所を求めてさまよっています。
不感不応不変の無罪妄想にしがみついて、他者からの意見を遮断することが平安?であり、意見を削除して隠蔽することが揺るがない信仰?であり、それを肯定し勧めるのが神?という拠り所?だと言い続けているのがシャローム氏なのです。
>このような世の中と人の心の有様を仏教では諸行無常というのかもしれません。
>諸行無常の世の中に確かなものを求める欲望に囚われていることを無明といい、
>無知で悟りのない迷っている人の姿を言いあらわしているようです。
>本来の仏教は修行をして、確かなものを求める心の欲望を捨て去り、
>解脱してはじめて人は生きて行けると説いているようです。
なぜ、ここで、仏教を語る必要があるのでしょう。
>仏教のことはあまり知りませんが、
>これはこの世の中の実相についての最も深い認識と、
>人の心の真の姿に目覚めた人間の生き方なのでしょう。
つまり、知らないのなら語らないほうがよいです。信じてもいないくせに異教に対して、分かっているかのように、評価する資格があるかのように褒めるのは、下に置きながら上から世辞で褒める偽りになり、かえって失礼になります。尊重するということを取り違えた偽善と言っていいでしょう。
>しかし、現実には人はどんなに修行をしても、そんな悟りをひらくことも、
>あきらめることもできずに、迷い続けているのではないでしょうか。
ここに、彼独特の軽蔑の本音があるように思います。つまり、上の持ち上げは作為だと分かります。私から見れば、彼シャローム氏には、いかなる宗教も、キリスト教でさえ、目先の自分の益のために利用する対象でしかないようです。
>そこで、自力による修行中心の仏教から彼岸の世界に救いを求め、
>他力による救いを求め、信仰による救いを求めたのではないかと思います。
>自力本願の仏教から他力本願の仏教へ、
>小乗仏教から大乗仏教への道が開かれたと思います。
>この世に生きる確かな救いを渇き求める人の心が生み出した道でしょうか。
>またすべての災いもとである罪、穢れをお祓いによって浄めようとしたり、
>沐浴したり、水で手を洗うことによって身を清めたりして、
>仏事、神事をして災いを招く恐れからの救いを求めているようです。
仏教の方には申し訳ありません。異教についても、キリスト教についても、詭弁と短絡と単純化以外の理路を組み立てることができず、感性によって受け取ることもできないシャローム氏なのです。私は、シャローム氏の訂正不能の傲慢によるキリスト信仰への弊害を書いている者です。理解していないのに、気安く単純に書いて、かえって自分のキリスト信仰をけがしてきたシャローム氏を批判しています。
>このような宗教的な習わしはこの世という移ろいの世界から
>確かな世界へ救いを求める人の心を表しているようです。
>今日では知識や物の豊かさに救いを求めているとは言えないでしょうか。
>しかし、経済的な豊かさも確かなものではないことが分かるにつれ、
>今はどこにも心の拠り所がなく、今さえ良ければとさまよっているようです。
仏教に世辞を言った後にこれです。このように、一見、丁寧に語りながら、お前たちは拠り所なくさまよっている哀れな者たちだと一括して、反対者や異教や政治など、他者への、シャローム氏特有の、ボロクソ節につながっているのです。
>私たちの確かな拠り所はどこ?
>私たちはどこから来て、どこへ向かって生きているのでしょうか?
疑問文ですが、彼は何の意見も求めてはいません。コメント欄もゲストブックも廃止したうえでの言い放って終わりの無責任をごまかしているだけです。
>イエスはこのように言われましたのです。
>イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。
>だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。
>もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。
>しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである。」
神を知っているというのは、神の考えを知ったのではなく、聖書から、人間として歩むべき道の始めを知ったということです。神を見たというのは、目で見たのではなく、新たな道の始まりを感じたということです。暴走するシャローム氏の言説に対しては、こういうことも書いておかなければなりません。
>イエスのこの言葉を聞いたピリポはこう言っています。
>「主よ、わたしたちに父を示して下さい。
>そうして下されば、わたしたちは満足します。」
> (ヨハネによる福音書14章8節)
したがって、シャローム氏の言ってきたような達成感や満足感に満たされ続ける信仰の境地はあり得ないのです。
折に触れて導きによる喜びと悲しみがあり、時々に、一部でも理解できたなら感動による満足があり、理解できなくても絶望の絶対孤独に陥らなくてよい、という意味です。
>このピリポの言葉はすべての人の心の願いではないでしょうか。
この実のない「でしょうか」によって、白々しく何を言っているのでしょう。すべての人の心の願いなどと。一般の他者をボロクソに言った後で。
>ですから、古今東西、人種を問わず、すべての人は宗教心をもっています。
>宗教はすべての人の心の拠り所であり、自分がだれであるか、
>また自分はどこから来てどこへ行くかの拠り所なのです。
シャローム氏の言う拠り所によって、彼は今まで、人の意見に対して、はぐらかしや、言いがかりが通用しないと分かると、根拠もなく、悪意を持って、病人だとか、依存だとか言って、侮辱して怒らせて、反対者を去らせようとしました。そして反対コメントを消して、反対意見などないかのようにブログを偽装しました。
>だから自分の宗教によって人は安心を得ようと、
>またそれを脅かす他の宗教に対して寛容であることができないのでしょう。
削除と隠蔽と偽装に見られるようにシャローム氏ほど不寛容な人はいません。丁寧語や聖書語とは裏腹に、彼は、人間とは思えないほどの敵意を闇に抱えていることが、既に明らかになってきているのです。
>天地万物の創造者である生けるまことの神に対する信仰は
>一個人、一家族、一民族、一国家を超えるものでなければならないのでしょう。
>そうでないとかつて日本人も陥った偏狭さから逃れる事ができないからです。
ここでシャローム氏は、自分がしでかしてきた非道を正当化したくて、神は偏狭ではないから、すべてを超えて、すべての人を救う、というようなことを、言いたいようです。しかし、この6年間を見ただけでも、今までの彼の言動は、いかなる道徳にも、倫理にも、人道にも、良識にも、良心にも、宗教にも、信仰にも、民主主義にも反するものです。
そして、今も続いています。すべての反省力のある人は、彼の薄っぺらな丁寧語と嘘っぱちの聖書語によって、反省力が傷つけられないために、どうか彼に関わらないでください。これを伝えることが、私の晩年の使命のような気がしています。
>イエスはユダヤ人として生まれ、ユダヤ人によって十字架につけられました。
>ユダヤ人は神の民ですが、かえって誤ったプライドに囚われ、
>民族主義的偏狭さからの救いのためです。
>実際に処刑したのは異邦人を代表するローマ総督・・・
>ローマ皇帝は神を見失い自分を神とする人を表わしているのです。
>ユダヤ人はローマによって国を滅ばされ、世界のさすらい人となりました。
キリストの時代、ローマ皇帝は、もともとキリストの父なる神を信じていませんでした。
一見、まともなことを書いているように見えますが、これがシャローム氏によく見られる筆致です。仕返しされない悪者を決めつけて、自分を悪から完全除外して、安心して他者に罪をかぶせて、好きなようにぼろくそに言ってきました。善か無かで他者を訂正不能に決めつける神経しか持ち合わせていないのでしょうか。また以前、彼は人間の共感をはっきり否定しました。
キリスト信仰の基本から、善悪については、悪から自分を除外しないことが一番大事だと言っていいのです。それを聖書は、様々な罪びとの話によって、知らせているのです。
>イエスはユダヤ人とローマによって十字架につけられましたが、
>それはイエスさまがすべての人の救いを成就するために、
>全人類の罪によって十字架につけられ、その罪の代価を支払い、
>その罪の救いのために贖いのわざを成就されたのです。
こういうことを言う人に共通してみられるのは、キリストの十字架の贖罪と復活を声高に主張して喜ぶが、キリストを十字架につけた人間の罪に無頓着で、人間の体を持ったキリストの磔刑の悲劇に人間としての悲しみの共感を抱かず、罪から己を除外し、喜んで讃美することを信仰として盛んに主張することです。自分の罪、という考えが甘いために、被害的他罰的になりやすく、最悪の場合、シャローム氏のように自分信仰に落ちてゆく傾向です。
>それは神によって約束されたすべての人の救いの計画だったのです。
>イエスさまをキリスト教という宗教として閉じ込めてはならないのです。
キリスト教についてもキリスト信仰についても、シャローム氏自身が書いた文章に次から次に矛盾があらわになり彼が何も分かっていないことが明らかになってきても、まだ彼は、他者に教える立場からこういうことを平気で言うだけの超の付きそうな無視の力を持っています。
自分が救われるのはキリスト教ではなくキリストご自身の業だと言い、キリスト信仰を主張しながら、罪を理解できないために罪ある自分を考えることができず、上に述べたような非道を重ねて、都合が悪くなると反対意見を消して、同時に、また同じことを平気で言うのです。
>その過ちを犯すと、神の民とされたユダヤ人がその偏狭さによって
>異邦人を裁きながら、自らも裁きを招いたのです。
シャローム氏が、いくら言っても、彼が罪を認めなければ、罪は彼とともに他者を裁き続け、ついには彼に報いることになるでしょう。それが今、と言ってもいいくらいですが、彼は、善悪の判断を放棄するなどとも言っているので、ますます善悪の見境がつかなくなってゆくような気もします。
>「福音について言えば、
>彼らは、あなたがたのゆえに、神の敵とされているが、
>選びについて言えば、父祖たちのゆえに、神に愛せられる者である。
>神の賜物と召しとは、変えられることがない。
>あなたがたが、かつては神に不従順であったが、
>今は彼らの不従順によってあわれみを受けたように、
>彼らも今は不従順になっているが、それは、
>あなたがたの受けたあわれみによって、
>彼ら自身も今あわれみを受けるためなのである。
>すなわち、神はすべての人をあわれむために、
>すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである。
>ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。
>そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。
> (新約・ローマ人への手紙11章28~36節)
>
>「彼ら」とはユダヤ人であり、「あなたがた」とは異邦人です。
>この十字架につけられ、よみがえられたたイエスに
>「すべての人」の救いと偏狭さからの解放の道があるのです。
彼は、神に不従順になったユダヤ人も救われることを、偽善と隠蔽の罪を犯した自分も救われるのだ、という根拠にしたいようです。しかし、それは、今この地上において救われるのとは違う話にしかなりません。なぜなら、この地上では、悔い改めて信仰の道を歩む者だけが救われるということを、悔い改めない偽善を最も嫌ったキリストによって、聖書は教えています。
>イエスの誕生、生涯、十字架の死、復活、聖霊の注ぎという事実は
>人の教えや作り話でも、神話でもありません。
>神はイエスによってすべての人に確かな拠り所と心の平安を与え、
>生きる喜び、力、永遠の命という希望を与えておられるのです。
こういう讃美に怖さを感じることになろうとは、私も若いころは思っていませんでしたが、このような讃美をシャローム氏は書くことで、人を惹きつけて、人に柔和な聖書の先生と思わせて、この地上の世をしのいできたわけです。反論も弁明もできない罪と偽善の果てに、なおも今、同じことしか言わないということが、彼の、無反省と反信仰を表しているのです。
>神の平安がありますように!
このような讃美の言葉が呪いのように響いて吐き気を催すことになろうとは、私も若いころは思っていませんでした。しかし、社交の丁寧語と、このような讃美のセリフこそが、偽善者が人を欺いて、善人であるかのように振る舞うのに有効な言葉なのです。教会での付き合いで批判禁忌の不文律がまかり通っているから、丁寧=柔和、讃美=熱心、ということが成り立つ悪習を偽善者は知って処世として学んでいるのです。
丁寧は慇懃無礼に結びつくことがあり、讃美は悪質な罪と偽善を隠すことがあることを知ってください。深い感慨もなく悲しみの共感も成り立たず、丁寧と讃美が日常的に過剰である発言と考え方を警戒してください。どちらも間違えば、本気の信仰告白を阻害します。
(2017年09月24日、同日一部修正)
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